第八話
ぱら、ぱら、とページを繰る音が響く。道中もちょっと手をつけていたので、主人公が二度目に記憶を失うところまできた。僕は文庫本に並ぶ文面を目で追いながら考える。記憶を失うのって、どんな感じだろう。赤ちゃんみたいに、まっさらになって、それまであった関係性も問題もぜーんぶうっちゃらかして、出奔するって。不安でたまらないだろうけど、すべてから自由になった開放感もある、って感じかな。
…忘れてしまいたい記憶は山ほどある。全部忘れて、それらから自由になれるのなら、僕も記憶喪失ってやつに、なってみてもいいかも、なんて考える。
セデュは僕の後ろで、僕の髪を梳いている。何時間でも、僕の髪と戯れあっていたいとでもいうみたいに、ゆっくりと時間をかけて髪を撫でる。
彼の要望で伸ばし始めた髪は、昔ほどじゃないけど、ポニーテールができるくらいの長さにはなった。
セデュが喜ぶから、明日はポニーテールにしてやろうかな。
忘れたい記憶も、忘れたくない記憶も、どっちもごちゃごちゃに混ざり合った僕は、結局、いつものように軽口叩いて、憂鬱を紛らわすしかないんだ。
「…こんどの、ヒロイン役の子、どんな子?」
「今回がデビューの新人だ。エディンバラの出身らしい」
「デビュー作でいきなりヒロイン!? すごいねえ、何歳くらい?」
「ロンドンの演劇学校を出でたばかりだというから、22…いや23だろうか…」
「ふーん。ずいぶん若いんだ。お芝居のほうはどう?」
「安定感があって、初めてとは思えないくらいだよ」
「顔は。髪の色は。目の色は」
「……ブルネットに、青い目で、年齢のわりには、落ち着いた雰囲気だ。……気になるのか?」
「べつにそういうんじゃないけどさ。僕を抱いた腕で、その子も抱きしめるのかーって考えると、ちょっとだけ、フクザツっていうかさ…」
ぴたりと髪を撫でていた手が止まり、不安になって振り向くと、なんともいえない顔をしているセデュがいた。笑うのを堪えているような、泣き出す寸前みたいな、なにか爆発しそうなものを、抱えているみたいな。
「わ、はじめてみるかも、その顔…」
「………おまえが、あまりに、…」
「なに?」
「……なんでもない」
「なにー気になるって。言えよう!」
「言わない」
「なんで!」
「……嫌がるだろう、お前は…可愛らしいとか、そういう言葉は…」
「………」
お互い真っ赤になって黙り込んで、また沈黙が落ちる。この部屋は狭いので、逃げ隠れする隙間もない。
この宿は撮影クルーや共演者らも泊まっている、リバプールの繁華街にある煉瓦造りの、重厚なホテルだ。
ほんとうは、セデュは相当に広いスウィートルームを抑えていたらしいんだけど(バロットが)、共演する女優さんが具合がわるくなっちゃって、それで彼女と部屋を交換したそうだ。
深夜にセデュの部屋のチャイムを押して、具合が悪いので休ませて、と懇願されたセデュは、端役の彼女にベッドを貸して医者を呼び、マネージャーに話を通して荷物をまとめ、早々にそこを出てきたのだと語っていた。
「共演者に不具合があっては撮影が滞るからな。医者の見立てでは疲労だろうというので、そろそろ回復する頃合いだろうが」
「……きみって時々大ボケだよね……」
「……?」
気づいているのかいないのか、気づかないふりをしてるだけなのか、本気で気づかない天然さんなのか、掴めないセデュはきょとんとしていた。まあ僕としては、腹抱えて笑いたいくらいの顛末だけど。
そんなわけで、ランクが2段も3段も落ちた部屋はセミダブルのベッドが1台と、くっつきそうなくらいに接近した応接セット(ソファ2個にローテーブル1個)鏡つきのチェスト、クローゼットがあるだけのこじんまりした一間で、バストイレももちろんついているけどそこもひどくせまっ苦しい。大股1歩で端から端まで行けるくらい。僕が住んでたボロアパートとどっこいどっこいって感じだ。まあ清潔に整えられているから、居心地はいいんだけど。
うっかりしていて宿を取り損ねた僕はセデュの部屋に転がり込んで、こうしていちゃいちゃしてるってわけ。
狭い部屋は圧迫感があるけど、どこにいてもセデュの姿が視界に入るのは、しょうじき、悪くない。むしろ、普段より、くっつくのに躊躇がなくなるっていうか。なんていうか。
ただ、それこそ、ベッドはひどく軋むし、壁はあまり厚いとは言えないみたいだし、あんまり大暴れもできない。
なので、僕らはお揃いのシルクのパジャマで、身を寄せ合うようにして、ベッドでくっつきあって眠る。
寝相のいいとはいえない僕が隅から落ちないように、セデュはしっかりと僕の背を抱いてくれ、僕は彼の胸に頬を寄せる。
くっつきあっているとやっぱり僕はどうしたって幸せになってしまって、どきどきして、きゅんきゅんして、ちょっぴりムラムラもして。
そんなふうだから、僕の心に染み出した黒い靄のことを、セデュに伝えることはできなかった。
ホテルのレストランでバイキング形式の朝ごはんを食べる。挨拶してくるスタッフさんに愛想よく応えて、バロットと軽口を交わして、遠巻きに見てくる女優さんたちは気にしないようにして。
取りすぎた僕のフィッシュアンドチップスと、スクランブルエッグ、羊肉のソーセージを向かいあったセデュの皿に寄り分けると、彼は眉を顰めて苦言を呈す。
「バイキングは食べられる分だけとりなさい」
「いやー腹減ってるとついつい目移りしちゃうんだよなあ。たいして美味くもないのはわかってるんだけどさ」
「…レストランでの料理の悪口もやめなさい」
父さんみたいな小言が可笑しい。僕は生返事を返して、なんだかんだ言いながらも僕の分まで完食してくれるセデュを、好きだなア、と思いながら、眺めた。




