第六話
「レコーディングは順調だよ。明日にはそっちに行けると思う。…うん、ライム・ストリート駅、ね。D’accord. そっちはどうだい? …それはよかった」
受話器からセデュの、甘ったるい声が愛を囁く。
僕はコードを指にくるくるしながらそれを聞いて、はやく会いたいなあ、とおもう。
一瞬でも離れてられなくなっちゃったのは、僕も同じみたいだ。こんなのなんだか、おかしいけど。
セデュの甘い香水や、汗のにおいが恋しくて、胸がきゅうっとなる。でもこれも、明日までの辛抱だ。1週間ぶりに会ったら、最初になんて言おう。「ひさしぶり」「元気にしてた?」「浮気はしてないだろうね?」…どれもいまいちだ。やっぱり素直に、「会いたかった」って、言ってみてもいいかな。こんなときくらい。今回はその、ハネムーンなわけだし。
『…早くお前に会いたいよ』
セデュに先を越されてしまった僕は受話器を握りしめたまま、その場で悶絶するのだった。
ライム・ストリート駅はリバプールの中心部に位置している。鉄とガラスと煉瓦でできた、広大な駅だ。
電車を降りるとすぐ、バロットが待機している。彼はセデュのマネージャーで、方向音痴の僕を案内するため、セデュが手配してくれたのだろう。
「やあ、久しぶりーバロット。えへへ、見てくれ、この指輪!」
「おお。高そうっすね」
「たかいよー貴重だよーセデュの給料3か月分だよー」
「そいつは凄い」
「聞いてるかな? 僕たち、今回の旅はハネムーンなんだ! まあ仕事のついでってのもあるけども!」
「そすか。ルーシュミネさんがしあわせそうで、何よりっす」
訥々とバロットは言って、そのムキムキの腕で僕のスーツケースを持ち上げる。
「荷物、これだけっすか?」
「え、いいよー自分で運ぶよ!」
「いえ。ルーシュミネさんの大切な指に、荷物なんて持たせられねえっす」
「きみ、セデュに似てきたなア…マネージャーって、所属タレントに似てくるもんなのかな?」
「あーどうっすかね。俺はもともとあんたのファンで、それでセデュイールに気に入られた口っすから」
「あ、そうなの?」
「そっす。行きますよ。セデュイールがお待ちかねです」
190センチのバロットは軽々と荷物を肩に負って、のっしのっしと歩き出す。チョコマカついていく僕は、父親の後を追う子供みたいで、おかしかった。
「ここで待っていてください。セデュイールに連絡とります」
リバプールの薄暗いパブのカウンターに僕を残し、バロットは席を立つ。
パブのカウンターには、豊かな恰幅の毛髪の薄いバーテンダー? 店主? がいて、労働者風の客の男たちと何やら笑いあっている。
女子供の姿はない。カウンターの奥には、びっしりと酒瓶が並び、カウンターには客が自分で注ぐためのビールの樽もある。紳士の社交場という雰囲気だ。がやがやと騒がしい店内だが壁際に置かれたジュークボックスからは、マイルス・デイヴィスの「マイファニー・ヴァレンタイン」が流れている。誰もカウンター席にひとりで座る僕を気に掛けるそぶりもなく、それが却って心地いい。
バーテンダーに出してもらったスコッチを舐めながらカウンターに頬杖ついて、哀愁のあるトランペットに耳を傾けていると、かたん、と僕の隣に掛けた男がいた。
「ハイ」
「…やあ」
「きみ、ひとりかい。連れは?」
「間もなくここに来るよ。待ち合わせでね」
「本当に? すっぽかされたんじゃなくて?」
「…煩いな、どっかに行ってくれよ。僕は男は守備範囲外なんだ」
ぷいとそっぽを向くと、男は今度は逆側に回り込む。案外ガッツのあるやつだ。
艶のある黒髪にたれ目、細い眉に、通った鼻筋。美形といえないこともないが、舌を鳴らす蛇のようなその表情が、男の持つ魅力を全部台無しにしている。にやにやと男は笑い、身を乗り出して僕に囁く。
「君、セデュイールの愛人なんだろう? 知っているよ。今回は俺と一晩、どう?」
「…」
ぐいと無言で男を睨んで、席を立とうとする僕を、男が留める。
「いいじゃあないか、毎晩セデュイールを咥え込んでるんだろ? たまには違うアレを味わってみなよ。病みつきになるかもしれないぜ」
「お断りだよ。それに僕は愛人じゃない」
「隠さなくてもいい、業界ではみーんな知ってる。周知の事実ってやつだ。…あんなふうに、ダイアナを手籠めにして、ポイと棄てるようなやつだぜ。君もいつ同じ目に遭うか、わかりゃしない。そうじゃあないか?」
毒を滴らせるような声が僕の耳に吹き込まれ、僕はますます硬くなる。ダイアナとセデュのことを知っているってことは、こいつも、あの古城に来ていたのだろうか。ぎゅうと握りしめた掌が震える。思い出したくもない、4週間がフラッシュバックする。
…ダイアナとセデュには何もなかった。それは確かだ。ただ僕が勘違いして、ひとりで転げまわっていただけだ。それはもういいんだ、今更、恨み言を言うつもりもない。もとはと言えば、僕の自業自得だし。彼らは僕を守ろうとしただけで――だけど、だからって、僕が全然へーきになれたかっていうと、そんなことはなかったんだ。
…思い出さないようにしてきた、あの4週間のこと。僕にとっては、地獄にはまだ底があったんだって、思い知らされた日々のこと。
封じ込めてたパンドラの箱が開けられたみたいに、どろどろと黒いものがあふれ出す。でも僕は、唇を噛んで、きっと顔を上げた。なっさけない泣き顔を、こいつにだけは見せてやるもんか。そんな気分だった。
「話はおわり? じゃあさっさとどこかに行ってくれ。君と話すことは何もない!」
「つれないなあ、いいじゃあないか。可愛い可愛い小鳥ちゃん。セデュイールの籠の、カナリアちゃん」
「げえ、なんだよそれ。吐き気がする。君、空気読めないって言われたことない?」
舌を出して吐く真似をしてやれば、隣の男の表情が固まる。
怒ったのかな? まあいいや、怒れ怒れ、それでさっさと消えてくれ!
「僕はセデュを待ってるんだ、君なんかに用は――」
「セデュイール、セデュイール、セデュイール! なんでみんなあいつばかりチヤホヤするんだ? なんで俺じゃあダメなんだ? あいつなんか、ただの、ろくでなしの、くそ野郎じゃないか! 俺の役を奪った、俺が演る筈だったんだ、ゴルトムントも。スタヴローギンも! それをあいつが、横入りして、かっさらいやがった! あの、卑怯者、厚顔無恥の、利己主義者!」
男はなにやら紅潮した頬で、熱弁する。聞き捨てならない単語が聞こえたので、僕も腹を据え、
「聞いてやろうじゃないか」
と、構えた。




