第三話
庭園の入り口で待っていてくれた運転手の車に乗り込み、屋敷に戻る。
車内でもセデュはずっと僕の手を握っていて、1秒でも離れていられないみたいだ。
僕は無言で花束をのぞき込んで、無限にあるみたいに思えるそれをひとつひとつ数えていた。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん。坊ちゃんの可愛い水の精さん」
屋敷ではメイド長のヨランダが、いつでも僕らを真っ先に出迎える。
セデュが子供のころから仕えていたという彼女は、目じりの皺を深めるように笑って、僕の渡す花束を受け取る。
「まあ、すごい。きれいですねえ」
「ヨランダ、花瓶を用意して! 全部の部屋にいきわたるくらい。あるかな?」
「ありますとも。お任せください」
ヨランダは鷹揚に頷いて、控えていた年若いメイドのルージュにこまごまと申し付ける。
帰り際セデュが肩にかけてくれたジャケットは、年上のほうのメイドのパールに渡す。てきぱきと立ち回るメイドさんたちを眺めながら、セデュはシャツのボタンを外しつつ、
「シャワーに行ってくる」
と僕に伝える。
「うん、いってらっしゃい」
「…お前も来るか?」
「……」
ぱちん、と断ち切りばさみでヨランダがバラの茎を剪定する音が響いて、僕はびくりと立ち止まる。
セデュの屋敷にはシャワー室がみっつあって、そのうちひとつは使用人用、ふたつが僕ら専用となっている。
各シャワー室はそれこそ、他の部屋に並ぶくらいの広さがあって洗面所までも遠いのだけど、浴槽の大きさは一律なので、その、男二人が座り込んだらとても足を延ばしてくつろげるような環境じゃあ、ない。
セデュだってわかっているはずなのに、こんなことを言うのは、なんなのかな。懇願するように見つめる目がずるい。でもさすがに、さすがに! みんなの前で僕を誘うのは、ちょっと、マナー違反だと思う!
「…やめとくよ。浴槽はせまいし、ふたりじゃゆっくり休めそうにないし」
浴室は声が響くし、汚したりしたらいけないし。という本音は胸に秘めてそう伝えると、セデュは幾分かがっかりしたように頷いて、階段を上がっていった。
「浴槽を拡張する必要があるな…」とか呟いていたのは、聞かなかったことにする。
ぱちん、ぱちん。ローテーブルに保護紙を敷いて、ヨランダがバラを剪定する。
よどみないその手つきは、職人芸とでも言いたいくらいだ。僕はぼんやり残りのバラを抱えて、それを見てる。
手伝いたいけど、不器用な僕は折角のバラをめちゃめちゃにする予感しかしないので、こうして剪定されていないバラを差し出す役割に徹する。
「今日は、お楽しみになられましたか?」
なにげなく、世間話のていでヨランダが聞いて、僕は頷く。
「シャンゼリゼのホテルのレストラン、すっごくおいしかったよ。クロードにも伝えておかなきゃ」
「あらあら。クロードが嫉妬してしまいますよ。でもレシピは、知りたがるでしょうねえ」
クロードはこの屋敷の専属シェフだ。料理にしか興味がないって感じの、一風変わった呑気な男で、奥さんと別れてここに越してくる際に、セデュが雇い入れたらしい。いつでも僕たちに美味しいごはんを作ってくれる、貴重な使用人のひとりだ。
「何本くらいあるのかしら。数えてみましょうか」
「帰ってくるときに数えた。99本あったよ。セデュが帰り際にくれたんだけど。なにかのジンクスかな?」
「あら、そうですか。あらあらまあ…」
「99本のバラは、『永遠に愛しています』って意味ですよ、ルーシュミネ様!」
ガラスでできたものやら陶器やら、花瓶を大量に抱え持ってきたルージュが、興奮したような口ぶりで教える。
「永遠かあ、永遠ねえ…」
「うふふ、よかったですわねえ」
「よかったっていうか…よかったのかなあ…」
「あらあら、うふふ」
ヨランダは抱擁力あふるる大きな胸を揺らして笑う。彼女はたぶん、セデュの母親代わりだったんだろう。子供のころから、セデュを慈しんできてくれたひとなんだろう。
そんなことを考えていたら、迂闊な僕はバラの刺で自分の指を刺していた。
「いって…」
ぷつりと赤い血が盛り上がる。左手でよかった、右だと、ピアノを弾くのに、ちょっと支障が出るところだった。ピアノは左も使うけど、主旋律はだいたい右だから。
「ルージュ、救急箱を」
てきぱきとヨランダは命じて白いハンカチを手に取り、僕の指をぎゅうと握りしめる。止血をしてくれているのだ。あたたかい体温が触れて、僕も、遠い昔に触れてくれた母さんの温度を思い出す。
セデュの屋敷の使用人はみんな、セデュと一心同体とでもいうみたいに、全員もれなく例外なく、僕に甘くて優しい。僕をバカにしたり、嘲笑ったりするひとはひとりもいない。それが僕には心地がよくて、同時にちょっぴり居心地が悪い。
そんなふうに大切にされる価値なんて、僕にあるのかな? って、思ってしまうからだ。
なので僕は、ルージュが救急箱を取りに席を外したのを機に、ヨランダに切り出した。
「…ヨランダはさ、セデュが子供のころから見ていたんでしょう?」
「ええ、そうでございますよ」
「それじゃ、イヤじゃなかった? 僕みたいなやつが、セデュの隣にいるなんて…」
きょとんと振り向くヨランダの青い目があまりにも澄んでいて、僕は手元に目を落とす。
「汚らしい男娼が、って、何回も言われたことあるし、セデュが奥さんと別れることになったのも、僕のせいだし。…嫌じゃ、なかった? そんなやつが、我が物顔して、ここに出入りするのとか…」
花束に顔を伏せて、胸いっぱいにバラの甘い香りを嗅ぐ。
答えを知りたいけどこわい。こわいけど知りたい。僕はクズだから、たまにこうして、身の程ってものを思い知らせてもらわないと、グズグズに甘えて、どこまでも落ちていっちまうんだ。
「わたくしは、あなたの子供のころも、見ていたのでございますよ」
穏やかなヨランダの声が言う。ぎゅうと強く、僕の指を握りしめたままで。
「坊ちゃんが、あなたと遊んでいたころから。あなたに会えなくなって、お寂しそうにしておられる坊ちゃんも、あなたがいなくなって、…おひとりで、何度も、あなたのレコードを聴いていらした、お苦しそうな坊ちゃんも。…あなたがきてくださったおかげで、坊ちゃんは昔のように、笑えるようになったのです。感謝してもしきれませんわ」
「救急箱お持ちしましたあ! わっ、ルーシュミネ様、お痛いのですか!? 大丈夫ですか!?」
ヨランダの優しい言葉と、ルージュの明るくて元気な声に引き上げられた僕は、涙は止まらないまま不器用に笑う。
ほんとうにここは、楽園みたいだ。
「ところでさ、…結婚したら、セックスって毎晩するものなの?」
「ひっ! ルーシュミネ様それ以上はいけません!」
「奥様を溺愛されている殿方でしたら、そういうこともあるでしょうねえ」
「メイド長! 真剣にお答えにならないで!」
「そういった殿方は、一晩だけでは注ぎきれないくらい、愛情が溢れているのでございますよ。お受け入れなさるか拒まれるかは、奥様のご自由ですが」
「…ずるいなそれ。受け入れないと悪いみたいだ」
「性行為は共同作業です。悪いなんてことはございませんわ。あなたの心の赴くままになさいませ、坊ちゃんの可愛い水の精さん」




