第二話
セデュの新しい仕事は、イギリスが舞台の、ロマンチックなラブ・ストーリーだった。記憶喪失になった男がある女性と家庭を築いて、そのあと過去の記憶を取り戻し、女性のことを忘れてしまう。女性は想いを隠して男に近づき、やがて男は、彼女のことを思い出して、ハッピー・エンド。『心の旅路』、ジェームズ・ヒルトンの、恋愛小説が原作だ。
また恋愛ものかよ、という想いがなくはないけど、今の僕には幾分か、余裕がある。
だって僕は、セデュとやっちゃったんだからね! セデュの初めてを、頂いたんだからね! という。正妻の余裕ってやつ?
だから共演の女優さんとどんなに濃厚なラブシーンがあっても、ひろーい心で、許してやるのだ。うんうん。
「濃厚なラブシーンなどはないが…」
セデュの脚本を奪ってぱらぱらとページを繰る僕に、セデュが苦笑しつつ、言う。
「いやべつにそこは気にしてないから! 気にするわけなくない? 君の仕事はよくわかってるしね! 女優さんに嫉妬して現場に突入したりはしないから、安心してよ! ところで現場はどこ?」
「リバプールだ。ロンドンからは、電車でも3時間ちかくかかるらしい」
「そっか、移動がタイヘンだねえ…」
「かまわないさ。お前と離れずいられることのほうが、重要だ」
オマール海老のパイ包みを気品あるしぐさで丁寧に切り分けながら、口元を綻ばせたセデュが言う。
「そっちもおいしそうだなあ、ひとくちちょーだい」
セデュに行儀悪く凭れかかり、ぱかりと口を開けて雛鳥のように甘えると、躊躇いなくぷりっぷりの海老を刺したフォークが僕の口元に入れられる。
「んまっ! ていうか、一番おいしいところじゃないか!」
さすがに本気にとられるとは思っていなくて、焦る僕である。セデュは、行儀作法とか、いつもは結構、うるさいほうなのに。
「個室だからな。人目のある所では、そういうふるまいはやめなさい」
視線を皿に落として、セデュは丁寧に海老を切り分ける。もう一度フォークを向けられて無下にもできず、僕は白ワイン香る肉身にかじりついた。
…こいつ、全部僕にくれちゃうつもりかな。それはちょっと、いやかなり、申し訳ないぞ。彼は外に仕事に行って、まあ肉体労働ではないけど、たくさん人と会って、疲れて腹も減っているはずだ。ずっと家にいて、ピアノを弾きまくってた僕とは違うんだから。
「…きみも食べるかい?」
フォアグラとトリュフの載った牛フィレ肉を不器用に切り分けフォークをセデュに差し向けると、彼は眉間に皺を寄せて一瞬固まり、それから意を決したように、僕のフォークにかぶり付く。ほんの僅かな瞬間だったけれど、セデュのいつもは見せない、お行儀の悪いしぐさにどきどきする。ワイルドな役も、似合うんだよなあ、こいつ。
「…人目のあるところでは、しないように」
もぐもぐと赤ワインソースの牛フィレ肉を咀嚼して、飲み込んでから、真っ赤に耳朶を染めたセデュが言う。
「…うん。そーしまーす…」
僕はどんな顔を作ったらいいのかもわからなくなっちゃって、すごすごとグレーの革張りのソファに沈み、壁にかかったシャガールの絵を見ながら、飲みたくもない水を呷った。
ホテルのレストランを出て、シャンゼリゼ通りのブティックを流し見、セデュはそのうちひとつに入って、僕のためのスーツケースを買ってくれた。
幼少期世界中を飛び回っていた時に使っていたスーツケースはもうとうに手放してしまっていたし、以前アメリカに一緒に行ったときには、ぼろぼろのボストンバッグにスコアやらなんやら詰め込んでいた僕を見ていたので、次に旅立つ前には、と彼は決めていたらしい。
はじめセデュが指定したのは淡い色味の牛革の、華奢な持ち手のやつで、女の子がもつにはぴったりという感じの代物だった。ところがどっこい僕は身長180センチの立派な? というにはちょっと貧弱ではあるけど、とにかく、成人男子ではあるので、女の子扱いされるのはちょっと我慢がならない。というか気恥ずかしい。そんなわけで、僕はセデュのオーダーをキャンセルして、ごついオークバークで装丁されたスーツケースを買ってもらった。
車のトランクに荷物を積み込み、リュクサンブール庭園の前まで送ってもらって、しばらく二人で散策する。
5月の陽光に、鮮やかな緑が眩しい。花壇のバラや矢車菊が艶やかで、小鳥の囀りも爽やかで、明るくて、隣には微笑んで僕を見つめるセデュがいて、天国ってこんな感じかな、なんて思う。
16時にまた予定の入っていたセデュは名残惜し気に僕の指先にキスして、出かけて行った。
日が暮れるころにまた迎えに来てくれるらしい。
僕は鼻歌を歌いながらやわらかい砂を踏んで、木漏れ日に目を細めながら、ふよふよと空中に漂っているはずの曲想を探る。
…作曲をしているつもりが、どうしても記憶は昨晩のあれこれに引き寄せられてしまって、うまくいかなかったけど。
ベンチに腰かけて、セデュの出演する予定の映画の文庫本(ここに来る前にビブリオで購入した)を開くが、文字は一向に頭に入ってこない。
池のほとりで子供たちがきゃっきゃと燥ぎまわる中、僕はひとりで悶々と頭を抱えて、どうしたって去ってくれない記憶を反芻していた。
セデュの切羽詰まった表情だとか、セクシーな唇だとか、長くてきれいな指先、だとか。
反芻しているうちに気付けば夕暮れで、庭園内にも人気がなくなる。
ぽつぽつと見当たるのは、寄り添いあった、大学生くらいのカップルとか、社会人同士らしいカップルとかばっかりだ。
肌寒い風にぶるりと震える。上着を持ってくればよかった。あいつは今頃、こっちに向かっている頃だろうか。
放り出していた文庫本を尻ポケットに突っ込んで立ち上がったとき、聞きなれた、セデュが僕の名を呼ぶ声がした。
「ルー!」
「おかえり、セデュ…」
ぱっと笑顔になって彼に向き直れば、駆け寄った彼から大輪のバラの花束を渡された。
ふわりと甘い香りが漂う。めちゃめちゃ大きな花束だ。過去に彼が僕にくれたものの中でも、最大なんじゃないかってくらい。深紅の花弁は露を含んで震えている。花屋さんから切りだされてきたばかりって感じだ。
「どうしたのさこれ、すごいねえ…」
「今日の…というか、昨夜の、記念に。受け取ってほしい」
ここまで駆けてきたのか、頬を染めて息を切らし、口ごもりながら、彼が言う。
「指輪は、お前の好きなものを。改めて、作らせよう」
「おおう、そうきたか…」
そのセクシーな美貌に反してずいぶんと堅物なセデュにとっては、セックス=結婚、てな方程式が頭の中にできているんだろう。いやいつの時代の感覚だよ! このフリーセックスの謳われる現代にはあまりにもふさわしくないぞ! というか重い。重すぎる。重量級だ。あんまり重くて、時代錯誤で、一生懸命なので、こんなの僕しか受け入れてやれないぞ、と思う。
「…指輪は、石がついたやつがいいな。君の瞳の色の。お互いにそうして、身に着けてたら、離れてても、君がそばにいるみたいに、感じられると思うし…」
僕もやっぱり、頭の栓が一、二本、ぶっこぬけてしまったんだろう。
そんな乙女チックな要望を、花束に顔を埋めながら言ってしまう。うう、恥ずかしい。なんかとんでもなく恥ずかしいことを伝えてしまった、気がする。これじゃセデュを哂えない。僕の愛情も、いつの間にやら、重量級になってしまったみたいだ。
セデュは何も言わずに僕をきつく抱き寄せて、頬擦りして、あやすようにゆらゆら揺れる。
幸せってたぶん、こういうことを言うんだろう。




