エピローグ
僕はベッドに横たわり、セデュの掌が優しく肌を撫でるのを感じる。
白い軟膏を清潔な爪の光る指先に掬い取ったセデュはそれを僕の内腿に塗り付け、広げる。
そこにはファルコに付けられた噛み跡がある。僕はすっかり忘れてしまっていたのだけど、僕のスカートを捲ったセデュがひどくショックを受けていたのは、こいつを目にしたためだったんだろう。
ぼんやりと感覚の鈍麻した僕は痛みを感じない。執拗に上下する指先が、傷跡を消し去りたいように動くのに、そんなの全部ムダなんだけどな、なんて、思ってしまう。
ファルコに付けられたんだって話はしていない。今更泣きわめいて訴えたところでセデュだって困るだろうし、付けられちまったもんはしょうがない。
幾分かクスリが抜けてきてちょっと冷静になった僕は、もう歪まない天井を眺めながら言葉を探す。
あの森から一緒に逃げ出して、もう何日くらいだろう。
撮影は終わったものの、グロッキーな僕を移動させるのが困難で、セデュはまたリバプールのホテルに戻った。バロットやマチウとはホテルの前で別れて以来会っていない。チャーリーやアジャーニも、今どうしているだろう。あいつらに捕まっていないといいんだけど。
「…もういいよ、そこばっかり撫でても、きゅうに癒えたりはしないんだからさ」
「…」
セデュは苦しそうに眉を顰めて手を離す。そのまま僕の膝を立てさせて、ちゅ、と膝頭にキスを落とし、頬をそこにぴったりと寄せて、潤んだ瞳で僕を見る。
「まだ痛むか」
「もうとっくに、痛みなんて感じなくなってるから、へーきだよ。慣れてるんだ、こういうたぐいの瑕にはさ…」
「…お前は以前にも、こうされたことがあるのか」
「知ってるだろ? 10代の頃の、僕の乱脈ぶりは、君だって…もうしょっちゅうさ。噛み跡を肩に付けられたときは、隠すのが大変だったなあ」
「…」
「あきれてる? そうだよね、品行方正な君にとっては、信じられないような話だろう。君は付けられたって、キスマークがせいぜいだもんな。…僕は昔からそういうやつさ。君が言うような、そんな清らかな人間じゃない。離れるなら今だよ」
「…」
「僕が動けるようになるまで、待っててくれてありがとう。…もうそろそろクスリも抜けたころだから、自分で移動もできるよ。だから先に、パリに戻ってくれていい。君は忙しいだろうし、僕のためにこれ以上、ここに引き留めるのも…君のファンに怒られそうだ。あ、別れても、君からもらったピアスは、持ってていいかな。きらきらしてて綺麗だから、手元に残しておきたいんだ。めちゃくちゃいろんなことがあったなあって、思い出して笑えるようにさ。いいでしょう?」
「ダメだ」
「……そっか、じゃあしょうがないや。荷物は全部持って行っていいよ。ぼくはひとりでなんとでもするから…」
「全部間違っている。何もかもだ。今更私が、お前から離れられると思っているのか? だとしたら、…何も、伝わっていなかったのだな」
ぼんやりと見返す僕の膝頭をぎりぎり掴んで、セデュは苦しそうな顔で言う。
そう、その顔だ。僕が君に与えているのは、いっつも苦しみばっかりなんだ。
そんな顔させたくないのに。
いつも、花が綻ぶみたいな、笑顔でいてほしいのに。
「お前の過去は知っている。今更そんなことで怯むような想いではない。お前を苦しみから開放してやれるなら、私はどんなことでもする。人を傷つけることだって厭わない。私とて、とうに、品行方正などではなくなっているんだよ」
「それは、…やっぱり、僕のせいじゃないか」
「私の選んだ道だ。誰に強制されたわけでもない、私の生き方だ」
セデュは、溶けそうな飴色の瞳で、熱烈にそう言って、世界に僕しかいないみたいにじっと見つめる。
僕は肘をついて上体を起こして、彼の目を見て――はち切れそうな彼の愛情を、びしゃびしゃになるくらいに浴びられることを、やっぱり奇跡みたいにおもう。
「お前が分からないなら、何度でも言う。愛している、ルー。私にはお前だけだ」
くしゃくしゃになって何も言えない僕は頷く。カーテンの隙間からはまぶしい日差しが差し込んでいた。
彼が僕の手を取り、厳かに、イエローダイヤモンドの嵌めこまれた指輪を薬指に通す。
僕も同じように、エメラルドの指輪をセデュの長い指に嵌める。
白いシーツをヴェールみたいに被って、せまっくるしいリバプールのホテルの一室で、僕らは愛を誓いあう。
…たぶん僕の居心地のわるさも、消えちゃいたいって思う癖も、なくなりはしないんだろうけど。
——僕はセデュと生きていきたい。それが僕の、選んだ道だ。




