第十七話
チャーリーに無理を言って僕は教会を抜け出す。
ピチュピチュと爽やかな鳥の声がして、草いきれがむっと押し寄せる。
外は暑くて、汗を滴らせながら僕はチャーリーを従え、森の小屋を探す。
木漏れ日が鮮やかに足元を照らし、木々の緑が目に眩しい。
目的地には、案外すぐに着いた。
彼女は、小屋の外の空の檻の傍の切り株に腰かけ、何か縫い物をしている。
陽光が彼女の見事なブロンドの巻き毛を輝かせ、村一番の美女は、ボッティチェルリの描く女神みたいだ。身体はほっそりと薄くて、クラナッハのイブ、ってところかな。
「彼女が、アジャーニ、です。年は18。おいらの、2個上です。…あ、るーしゅみね様、…」
チャーリーが引き止める声も聞かず僕は進む。アジャーニの前に立つと彼女は驚いたように、大きな瞳を瞬く。綺麗な青い瞳だ。けっこう、セデュのタイプっぽいぞ。
「はじめまして、僕はルーシュミネ。ここ、座ってもいいかな?」
僕が近づくと彼女はぱっと立ち上がる。すらりとして、かなり背が高い。170センチくらいあるだろうか。ぴんと伸びた背筋が綺麗だ。
「…はじめましてではございませんわ。教祖様、わたくしはアジャーニと申します。以後お見知りおきを」
「それは失礼。いつか、ミサに来てくれてたのかな? こんな可愛い子に気付かないはずないんだけどなア! 君は一人暮らしなの?」
彼女の隣に腰かけると、おずおずとアジャーニも隣に掛ける。そのまま目を伏せた彼女が訥々と話す声を聞く。
「兄弟が来て泊まることはございますわ。それ以外であれば、成人した姉妹たちはみな一人ですごします。いつでも兄弟を迎え入れられるように」
「…君はさ、ここから出たことはないの。出たいって思ったことはない?」
「わたくしにとってはこの森が凡てなのです。下界は、ひどく恐ろしいところだと聞きます。ここにいるのが一番良いのですわ」
「そんなことはないさ。君は知らないだけだ。無知っていうのは罪じゃないけど、君は罰を受けてるみたいだ。何も悪いことはしていないのにさ。それっておかしくないか?」
「…掟は絶対なのです。逆らってはなりません。それは神に反する行いです」
「君の言う神って?」
「…天地を、わたくしたちを、創造されたお方です。唯一絶対の、聖なるお方です」
「聖なるお方は君に無理を強いるの? 兄弟に襲われても拒んだらいけないのがこの村の決まりだったっけ? まあ最近は、そのルールも緩みがちみたいだけど。君はどうやら従順に、ルールに従っているみたいだね」
「…反抗は恐ろしうございます。天罰が下ります」
「神は何もしやしないよ。ただ見ているだけさ。勝手に恐れて、怯えて、ぺこぺこしてるのはたしかにニンゲンらしいけど、神は人が人らしく生きることを、規制したりはしないとおもうよ」
「…」
アジャーニは戸惑うように瞳を揺らし、目を伏せる。長い金色のまつ毛が頬に影を落として、無垢な人形みたいに見える。…彼女は無垢だ、ただこの村の掟に、毒されているだけ。洗脳されて、逃げられないって思いこんでしまっているだけだ。
「君、森の外に出てみなよ。ルール破りが怖いって言うんなら、みんなで行けばいい。こんな湿った、陰気な場所にいたら、気分も腐っちまう。君、朝日って見たことある? モンサンミシェルの朝焼け、地平線がオレンジに染まるのが滅茶苦茶キレイなんだぜ。あと、アッシジの鐘の音もいいな。寂しそうで、すーんとした、敬虔な気持ちになるんだ。ルクソールの乾いた砂と熱い風、トレドの日差しと埃っぽい坂道、世界は広いんだ、君は生きているんだろう。その足でどこへでも行けるのに、知らないなんてもったいないよ!」
アジャーニは潤んだ瞳で僕を見上げ、振り切るように首を横に振る。
おそらくこの森に生まれて、ここしか知らない彼女にとっては、外の世界は猛獣のうろうろしているジャングルみたいに思えるのだろう。
…僕は説得を断念して、教会へ戻る。
彼女に罪はない。それは確かだ。だから僕が彼女を恨むのは、筋違いってもんだろう。
「結婚式は1週間後に執り行います」
翌朝のミサでカティアはそう宣言し、どよどよとざわめく群衆を手を叩いて黙らせる。
「この村で初めての夫婦の誕生です。厳粛に盛大に、執り行います。下界の風習に従い、ドレスはアンフェリータが、下界のものを用意しなさい。兄弟たちはみな出席し、祝福をするように」
僕はパイプオルガンに腰かけたまま、ぼんやりとそれを聞く。
セデュとアジャーニの子供が生まれたら、さぞや可愛いだろうな、なんて考える。
生まれてくる子は、ブロンドかな。それとも黒髪? 瞳の色は、青かな、セデュの溶けてるみたいな飴色かなあ。
…くそったれ、結婚式なんてめちゃめちゃにしてやる、って気持ちと、僕に何ができる? 何もできやしないだろ、っていう、諦めの気持ちが半分ずつ。
このことを、セデュは知っているんだろうか。
無性に彼に会いたかった。
結婚式前夜は、月のない晩だった。
ぎしぎし、木を軋ませる不穏な音が聞こえて、僕は寝台で身を固くする。チャーリーは教会の椅子で寝ている。誰かが入ってくれば、彼がすぐ気が付くはずだ。…たぶん。あんまりしっかりしていないやつなので、保証は全然ないけど。
僕はそっと頭を起こして、暗闇を凝視する。部屋には誰もいない。ほっとしてまた枕に頭を落とそうとして、――コンコン、と、遠慮深げに、窓を叩く音に気付いた。
窓を開けると、夜風がぶわりと吹き込む。
窓辺まで伸びた枝から飛び移ったセデュが、部屋に降り立ち、僕を抱き寄せる。
僕は胸がいっぱいで、何も言えなくなっちゃって、彼の身体をまさぐり、久しぶりに見る彼の黒髪や、肩にくっついた葉っぱを取ってやる。
「ルー、明日の昼、ここから出ていこう。式のために警護も手薄になっている。その隙に…」
「セデュ、セデュ、ああ、きみだ、きみの声だ、きみのからだだ!」
涙声で言う僕の髪をセデュの掌が優しく撫でる。
僕は彼の掌に懐いて、頬を寄せ、乾いた長い指にキスをする。
労働に酷使され、マメが潰れて皮がむけた、彼の痛ましい掌に何度も口づける。
「僕のせい、僕のせいだ、君がこんなに傷ついて…」
「私は大丈夫だ。こんなことはなんでもない。お前を失うことに比べたら、…」
「セデュ、僕を連れて行って。帰ろう、ふたりで」
囁く僕のかすれた声に彼は強く頷いて、そうして、僕らは吐息を奪いあうようなキスをする。…。




