第十四話
教会には、ファルコが連行した悪魔を一目見ようと人が詰めかけ、座る場所もなく立つ人々で入口も通路もすし詰め状態だ。
一段高くなった場所に立たされた僕は、裁判官のようなカティアとゆっくり開いていく教会の扉を見つめる。
ちゃり、と鎖の音がして、両手に手錠を嵌められたセデュが一歩、僕のほうに踏み出す。
もう撮影は終わったのだろうか。それとも途中で、ファルコに誘拐された?
君の仕事は大丈夫なんだろうか、どこかに不義理を働いて、戻りにくくなったりはしていない?
数日、いや数週間、もしくは数か月? 僕には時間の感覚はなくて、どれだけセデュと離れていたのか、数えるのももうやめてしまっていて。
一歩一歩、僕に近づくセデュの凛とした、決意を秘めたその目が、きっと引き結んだ唇が、ひどく懐かしくて、恋しくて、それで。
思わず駆け寄ってその胸に飛び込みたくなるのを、ぐっと我慢する。
罪人のように進むセデュの後ろではファルコがいやらしいニヤニヤ笑いを浮かべてる。
セデュを屈服させたつもりで、支配してるつもりで、卑賎な満足を抑えられないんだろう。いやなやつだ。
ああ、はやく、きみとふたりきりになりたい。
――だいすきな、僕のセデュ。
「自らこの場所に乗り込んでくるとは、たいした度胸です。天使を誘惑し堕落させ、罪を犯させた、卑劣な悪魔よ、なにか申し開きはありますか?」
厳然と尋ねるカティアの声に応えるように、聴衆が怒号を上げる。
腐った悪魔、いやらしい男、その美しい仮面を剥いで、醜い本性を曝け出せ。そんな声が、教会内にこだまする。
でもいくら何を言われても、セデュは目を伏せたり、恥じ入るような様子は微塵もなくて、堂々と胸を張って、壇上にいる僕を見ている。
何もいけないことはしていないって、確信を持っているひとのように。
「ルーを堕落させたのは私だ。それが罪だというなら、罰を与えるがいい。だがルーは返してもらう。あいつは、ここにいるべきじゃない」
「何を言うかと思えば…貴方が、わたくしたちに、なにか要求できるような立場にあるとでもお思い? 厚顔無恥とはまさにこのことね」
ほほほ、とカティアが酷薄に笑い。教会内に群衆の嘲笑が響く。
「いいでしょう、お望み通り、罰を与えます。貴方は――」
「ちょっと待って!」
僕は耐えられずカティアの前に飛び出し、彼女の視界を塞ぐ。ここの邪悪なしきたりに、セデュを従わせるわけにはいかない。その一心だった。
「セデュを傷つけないで。僕が望んだんだ、彼が誘惑したわけじゃない、僕が全部悪いんだ! 知っているはずでしょう、彼は僕のために家庭を棄てた。僕が棄てさせたんだ。悪魔だっていうなら、僕のほうだ!」
「ルー、やめろ、お前は何も悪くない、私が――」
「罰は僕が受ける。僕が奴隷になるよ。それでいいでしょう? セデュを返してあげて。ここから解放してあげてくれ!」
悲鳴みたいな声が教会内に反響して、自分の声なのに、耳がキンキンする。
頭が痛くて、目が回る。吐きそうだ。もうセデュの顔は見られない。見てしまったら、きっと決壊して、僕はもう立っていられなくなってしまうだろうから。
ははは、と、遠くで、男の嗤う声がする。ファルコの声だ。見たかったものが観られて、さぞや満足だろう。くそったれ。
1分か、5分か、もっと長かったのか。わからないくらいの時間が過ぎて、カティアはいつもの微笑みで僕をゆっくり見つめて、頬を傾けて、それで。
「よろしいでしょう。教祖様の御言葉です」
今度は聴衆に向かって、まるで判決を告げるように、彼女は声を張る。
「我々はその男を受け入れましょう。あたらしい種馬として。教祖様はいままで通り、神の御言葉をお伝えいただきます。穢れから切り離された唯一無二の天使として。よろしいですね? 兄弟たち。異論は認めません」
きっぱりと言い切る彼女に、異論をさしはさむのはファルコただひとりだ。
「でも伯母さん、こいつは悪魔だぜ、悪魔を村に入れてもいいのか!? 奴隷にしてやろうぜ、それがこいつには相応しいんだ!」
「黙りなさい。その男は貴重な種馬です。優秀な遺伝子をみすみすドブに棄てるような真似は許しません」
厳かに、冷然と、彼女は言って、また笑うのだ。
いつもの、怖気を催させるような、微笑みで。
「村には入れません。川傍の小屋を、この男の住処とします。教会を除く各小屋に、毎日3回、汲んだ水を届けること。それが今日からの、この男の仕事とします」
「でも伯母さん…」
「これで話は仕舞いです。みな解散するように」
「…川って言うのは、どこにあるの」
「森のはずれです。教会からは、かなり離れてます。だから川傍の番人は、カティア母さんを怒らせた男がやるんです。雨で増水したときなんかは、小屋も流れちまいますし…」
セデュは毎朝のミサに参加することは許されず、僕たちはそうそう簡単に会うことができない。
森の中にある無数の小屋にバケツ一杯の水を届けるために、長い距離を往復するのは重労働だろう。しかも3回。肉体労働なんか、お坊ちゃんのセデュはしたことないだろうし。それにこの暑さだ。普通にしていたってへたってしまう。
「手伝ってあげちゃだめかな?」
「だめだめ、だめです! 絶対に! 掟破りは檻の中ですよ!」
チャーリーは慌てたように僕を窘めつつ、川までの道を先導してくれる。道中、じろじろと見てくる目はあるものの、僕らの行く手を遮るものはない。いちおう、僕は「教祖様」、なので。僕の行動を禁じられるのは、この村ではカティアただ一人のようだ。
なら彼女が「教祖様」とやらをやればいいのに。まったく奇妙な集団だ。
丘を越え、伸びるつる草の下を潜り、しばらく歩いてやっと、木々が途切れる場所に出る。
苔の生えた石が積み重なったその向こうに、滔々と流れる水の音がする。さらさらと澄んだ水が、おそらくは山の上の方から湧く水が、幅1メートルくらいの川を形作っている。
セデュの住む小屋はそのすぐ傍にあった。ぎいぎいと軋む音が鳴る水車小屋だ。小屋の中では、穀物の製粉でもしているのだろうか。
「あの小屋では、姉さんたちが布を織っています。そのための水車です」
「おんなのひとたちがいるのか…」
「悪魔の兄さんは、今仕事中ですかね」
「…」
足音を忍ばせ、木々の隙間から覗き見る。川辺には泥まみれのバケツが、いくつも転がっている。
セデュをよく思わない村人たちの仕業だろうか、この気温に嫌な臭いを放つごみが小屋の前に積まれ、それを流した跡が見える。
木々が途切れた川辺には直接日光が射すためか、きらきら輝いて、暗い木の陰からだとひどく眩しい。
――きらめく川辺にはセデュがいた。川辺に屈みこんで、汗の流れるような蒸し暑さの中で、水を掬って飲んでいる。
見覚えのある形のいい肩甲骨が、麻の服の上からでもわかる。セデュはまるで神様が特別丁寧に創ったように、どこもかしこも綺麗なんだ。…ここでいう神様ってのは、この村の住人が崇める神様なんかじゃない。一般的な神様ってこと。
解れた麻の服は泥と汗に汚れているし、白い麻のズボンもぐちゃぐちゃの泥まみれだけど、セデュの纏う雰囲気はどこまでも穢れがなくて、清潔で、凛としていて、懐かしくって涙が出そうだ。
「声を掛けたら、だめかな。…罰を受けるのは、僕? それとも彼?」
「…るーしゅみね様のほうがえらいんだから、悪魔の兄さんのほう、だとおもいますよ…」
「…そうか。うん…」
セデュの姿が見られて、僕はすごく満足なんだけど、これでまた明日から頑張れるやって思えるんだけど、脚の方がどうしても、動いてくれない。彼に向かうことも、そこから去ることもできない。
こんなところ、カティアか、ファルコにでも見咎められたら、またセデュの不利になる。どんな無理難題を課され、こき使われるか、わかったもんじゃないっていうのに。
じっと息をひそめて見つめる僕に気付かないセデュはばしゃばしゃと川辺で顔を洗って、荒っぽくシャツで顔を拭って、水の張ったバケツを持ち上げる。
ぽたぽたと顎から透明な水が滴り落ちて、無造作に開けられた胸元には汗が光っている。伏せられた長いまつ毛も、水に濡れた前髪が頬に張り付いているのも、見てはいけないものみたいに色っぽくて、どきどきする。
…と思ったら、僕ら同様セデュの様子を見に来ていたらしい女の子の集団が、別の木の陰で次々失神して、がさがさとひどく大きな音を立てる。
ぱっと振り返ったセデュは木の陰で茫然と立ちすくむ僕を見つけて、それで、一目散って感じに駆け寄る。
僕ももう我慢ができなくなっちゃって、彼めがけて斜面を駆け下りる。気がせいて仕方がない。足に羽が生えたみたいだ。さっきまで、石をくっつけられたみたいに動けなかったのに、不思議だ。
「セデュ!」
ぴょんと飛びつくと、彼ががしりと受け止める。
久しぶりに会うっていうのに、彼の温度と汗のにおいが、行為のさなかみたいで、僕は心臓が破裂しそうだ。
「会いたかった、ルー、…」
「ぼくも会いたかった、きみにずっと会いたかった!」
「酷いことはされていないか。痛むところはないか」
「だいじょうぶ、ぼくはへいき。きみこそ、酷いことされていない?」
「私も平気だ。お前と会えた、それだけでもう何も怖いものはないよ」
セデュはそう言って、ぎゅっと強く力を込めて、僕を抱きしめた。




