第十話
遅くなるかもしれないから、ホテルのクロークでセデュに伝言を残す。『アンフェリータに再会して、彼女の家族のために、ピアノを弾きに行ってきます』言葉にするとなんだか、冗談みたいな文面だ。
ロビーで待つ彼女とともに駅に向かい、行き先も知らないまま僕は列車に乗る。ふたつみっつ、駅を素通りして、白昼の日差しが爽やかに射すなか、僕はホームに降り立った。
「ルーシュミナ様、ここからは車で」
「ルーシュミネだってば」
「あら、ごめんあそばせ。でも名前なんて、単なる記号ですわ。そうでなくって?」
アンフェリータが先導し、でかくて毛むくじゃらの男が待つ車に僕を載せる。運転手は髭も頭髪も濃くて、腕なんか丸太みたいにぶっとい。腕毛で毛玉が作れそうだ。
「行きましょう、出してください」
「はい」
従順に男は答え、エンジンを入れる。彼女の家族かと思っていたけど、どうもそうではないみたいだ。…まあたしかに、ちっとも彼女に似ていないのだから、それもそうかと納得できる。
車は田舎道を飛ばしてのどかな田園風景のなかをしばらく走り、がたがたの山道に突入した。
どこに連れていかれるのか不安がないこともないけど、酒で思考の鈍った僕は、現実逃避できるならなんでもいいやって感じだった。ピアノが弾けなくて鬱々してたってのもある。
そうして、無計画で軽率で、浅はかな僕は、またトラブルに巻き込まれるのである。
がさがさと僕は獣道を踏み分けて進む。深い森の奥、人里離れるにも限度があるってくらいの山道を、熊みたいな男と、涼しい顔のアンフェリータと、3人で歩く。
「まだ、なのかな…? ちょっと、遠くない…?」
貧弱な僕は一番に音を上げる。というか全然息が切れてないふたりが信じられない。車を降りてからもう、30分も歩いていると思うのだけど!
「まもなくですわ、ご辛抱を」
淡々とアンフェリーは言って、くるりとすぐに前を向く。後ろを振り返ればどこを通ってきたかもわからないような木々の群れが広がっていて、僕はため息一つ、ふたたび足を踏み出した。
到着したのは、それからさらに同じくらい歩いてからだった。…うん、全然まもなくじゃないんだが! 看板に偽りありだ。彼女の要求も、ピアノだけですまないような予感がしてきた。今更だけど!
森の中、数百メートル四方、ぽっかりと空いた空間には、所狭しと木造の小屋が建っている。…そういえば、来る途中にもぽつぽつと小屋があった。みんな一律、丸太を組み合わせた様な形のログハウスで、ちらほらとみかける村の住人は、同じような白い麻の服を着ている。大きな布を切り抜いて作ったみたいな、明らかに素人が手作りしたような、そんな服だ。装飾品はない。なんだか言葉の通じない原始の世界に迷い込んだみたいだ。
「こちらにおいでください、村の教会がございます」
「君の家族はそこに?」
アンフェリータは微笑んだまま答えない。なんだかぞっとするものを感じながら進むと、一番奥に、一軒だけ異彩を放つ、石造りの教会が見えてくる。
アンフェリータが扉を開くと、びっしりとつめかけた群衆がぐるりと振り返る。皆同じ服、同じ靴、同じような髪型で、同じ、空虚な微笑を湛えている。
彼ら彼女らが見守る中、絨毯の布かれた真ん中の道を促され、僕は進む。一段高くなったところにあるのは、巨大なパイプオルガンだ。こんな村の中にあるのは不自然に思えるほど、重厚で壮麗な代物だ。
パイプオルガンの隣には年かさの女性が、微笑みを湛えたまま僕を待ち受けている。
足先まで隠す白いロングスカートと、白い麻の上衣を身に着けた彼女は、ひっつめにした黒髪を輝かせ僕に頷いて、パイプオルガンの前に据えられた椅子に掛けるよう促す。
おそるおそる腰かけた僕だが、鍵盤を前にすると、不安も恐怖もすっ飛んでしまう。
ふっと息を吸い込んで指を落とすと、幾重にも重なった音が、音色が、汽笛みたいに体の奥に響きわたる。
僕は知らず知らず、わくわくして、夢中になって、ひたすらに即興で弾きまくった。パイプオルガンは調律も完璧だ。誰かこの村に、演奏家がいるのかな? だとしたら話してみたいな。音楽談義なんて、セデュ以外とするのは、10年以上ぶりだ。
まわりも見えなくなって、鬱々としていた気持ちも悩みも忘れて、ただ音楽と遊ぶ。こうして弾いている時だけ、僕は自由でいられるんだ。苦しみ、愛情、なにもかもから。
掌を持ち上げ、ふうと息を吐くと、ぽたりと汗が、顎から滴り落ちる。どれだけ弾いていたのか、時間の感覚もない。まわりの音も反応も、一切、耳に入らなかった。
集中しすぎるときの僕はいつもこうなる。気が付くと日が落ちていて、それで何時間も没頭してしまっていたんだって、やっと理解する。
大丈夫だったかな、いきなり現れた誰とも知らないヤカラが何時間もぶっつづけの即興コンサートなんて、引かれてもおかしくないよなあ。
今更になってドキマギしながら振り返ると、座席を埋めつくす観衆から、万雷の喝采が巻き起こる。ああ、よかった。大丈夫だったみたいだ。
懐かしい拍手と歓声に、僕はほっとして力が抜ける。
こつこつと歩いてきた、村長? っぽい女性が、僕を眩しそうに見つめる。
「素晴らしかった。貴方はやはり、神の声を万人に伝える、誉れ高き、神の子ですわ」
「あ、ありがとう。神様がどうのは、よくわかんないんだけど…」
「いいえ、貴方はおわかりになるはずです。おわかりにならなくては」
「えと、じゃあ、僕はそろそろ…」
「ああ、いけません。今からこの村を出たのでは、森の中で日が暮れてしまいますわ。お疲れでしょう。今夜はこの村で、お休みになられては」
「でも、あの、それも悪いし…待ってるひとがいるから、帰ります」
まっすぐな賞賛が面映ゆくて視線を彷徨わせる僕に注がれていた、柔らかなまなざしが、ぴたりと固まる。
表情を笑顔で固定したままの面前の彼女から、なにか、冷気みたいなものが漂ってくる気配がある。
「いけませんわね」
と彼女はまた言って、
「下界の汚れは、すべて浄化しなくては」
淡々と、厳格に、彼女は言い放った。




