酵母を渡して婚約破棄された私が今日もパンを焼く理由。
「よし、準備完了!」
今日は私がシャルロッテ・ヴェルディス伯爵令嬢を名乗れる最後の日。
誰も手伝ってはくれなかったけれど、片付けは存外簡単で、自分でもびっくりするくらいあっという間に終わった。
コンコンと控えめなノックの後に顔を覗かせたのは2つ年下の私の可愛い可愛い可愛い弟、ラビアン。
弟、とはいえ彼は伯爵家を継いでもらうために遠縁から引き取られた養子なので血は繋がってないけれど。
幼少期からこの家で共に育った私の大事な家族だ。
「姉さん、本当に出て行くの?」
ああ、そんな悲しそうな顔で引き留めないで欲しい。
節目がちで憂いを帯びた美少年に行かないでなんて言われたらお姉ちゃん決意が揺らいじゃうわ。
ていうか、私の弟マジ天使。
はぁ、もういっそのこと連れて行ってしまいたい。
だけど。
「ごめんね、ラビ。もう、決めたことなの」
そう言って私は首を振る。
本当はブラコン全開で弟を抱きしめたいのだけど、そんな願望は妄想だけに留めてぐっと拳を握りしめ、なるべく殊勝な態度を心がける私。
「重要な取引相手から婚約破棄されてしまった傷物令嬢なんてお荷物、これ以上伯爵家に置いてもらうわけにはいかないわ」
「……姉さん」
婚約破棄されたせいで共同開発予定だった提携事業がストップ。その上利権を巡った醜い争い真っ最中。
流石のお父様も怒り心頭。やらかした感ハンパない。
「ごめんね、ラビ」
しゅんと目を伏せ静かに謝罪した私に対し、
「姉さん、実は全く反省してないでしょ」
とーっても厳しくて冷ややかな声とともにラビアンがため息を吐いた。
「ヤダ! そんな事」
ないとやや芝居がかった口調で私が否定するより早く、ラビアンはズカズカと部屋に押し入って机の上にかけてあった布をバサっとめくった。
「ほらぁ、やっぱり天然酵母隠してる! 本当に反省していたら出て行く当日にこんな事やってないでしょ、絶対」
「やぁ、いいリンゴだったからつい」
そう言って私は先程仕込んだ自家製酵母の瓶を手に取る。
いいりんごだったから温度管理に気をつけて7日もすれば泡もいい感じに出てきて素晴らしい酵母になるに違いない。
きっとふんわり柔らかなパンが作れるし、
ジュースで割って飲むのもアリだなと瓶をうっとり眺めていると、
「つい、じゃないでしょ。全く」
もう、とラビアンが仁王立ちで怒る。
「先日コレが原因で婚約破棄されたの忘れたの?」
話ちゃんと聞いてる? と怒っている姿すら可愛い。
頭ぐりぐり撫で回したい。と思った瞬間にはすでにラビアンをいつも通り撫で回していた。
「ちょ、姉さん!!」
もう!! と怒りながら全力抵抗するラビアン。
「ふふ、幾つになっても可愛過ぎるラビが悪いと思うの」
ラビアンは幼少期から可愛かったから、いくつになっても私の中で"可愛い"の印象が抜けないのだ。
むしろラビアンに怒られたくてやってる感すらある。
この世界に神様というものがいるのなら、私はラビアンに巡り合わせてくれたことを心から感謝したい。
「レーズンの酵母を渡したのは、私なりの誠意だったのよ。まさかあんなに怒り狂って、即座に婚約破棄を言い渡されるだなんてって思わなかったの」
そう言って私は肩をすくめる。
先日、私は初めて自分の婚約者殿(まぁ、今は元婚約者殿なんだけど)にお会いした。
結婚を目前としたその顔合わせの席では、自分にとって価値のあるものを相手に送るのが慣例だ。
そのめでたい席で私は贈り物として、自家製レーズン酵母を彼に渡したのだ。丹生込めて温度管理し、きれいにラッピングした5日目のレーズン酵母を。
あの時の彼の顔が忘れられない。貴族だというのに、表情1つ隠せやしない、まるでタコみたいに怒りで真っ赤に染まったあの顔。思い出しただけで滑稽すぎて笑える。
「確信犯がよく言うよ」
ため息を吐きながら離して、と私の腕から逃れたラビアンはカゴに入ったパンに目をやる。
「姉さんの言いたい事はわかるよ。今日も姉さんの作ったパンは美味しそうだもの」
「でしょ? 食べちゃっていいわよ。婚約破棄された原因だけど」
私はそう言ってラビアンにパンを差し出す。
パンを受け取ったラビアンは、
「今日のはクルミ入りなんだね。サクサクした食感がもいいけど、レーズンの甘酸っぱさが引き立ってすごく美味しい。やっぱり姉さんのパンは世界一だ」
とても美味しそうに食べながら食レポよろしくそんな感想を述べた。
「あら、私が最高なのはパンだけ?」
わざと頬を膨らませそう尋ねた私に、
「そんなわけないでしょ」
ラビアンはふわっと優しく笑った。
「勿体ないことしたね、タイラー様」
ああ、そういえばそんな名前だっけと完全に過去の男となった赤の他人を頭の隅に追いやって。
「本当よ。こーんな美味しいパンを作れる自家製酵母を"何だこの汚い液体は"なんて投げ捨てるなんて」
私は憤慨する。
親同士の契約によって私はあの人の妻になることが決まった。ただの一度も引き合わされることも自分の意思を確認されることもないままに。
それは伯爵家に生まれた以上、仕方のないことだったのかもしれない。
だとしても、だ。
「ねえ、ラビ。この婚約破棄は私だけの責任かしら?」
私だって伯爵家の娘だ。1度は腹を括ったし、何度も何度も私なりにこの婚約について向き合ってみようとしたのだ。
私の旦那様はどんな人なんだろう? と。
婚約が決まり、絵姿を渡された時からずっと。
彼に宛てて何通も手紙を書いた。
でもそれに返ってくるのは、いつも筆跡の違う誰かの書いた簡素な言葉ときっと誰かが選んだのだろう私の好みとかけ離れたアクセサリー。
年頃になってからは、パーティーの同伴者に誘われるんじゃないかと期待をしたりもしたけれど、そんな事は1度もなく。
そして、約束通り結婚適齢期を迎えたことで実現した顔合わせ当日、私は最後通告を行うことにした。そして結果は言わずもがな、だ。
「自分にとって価値がなかったとして、それが相手にとって大事なものかもしれないと想像すらしない。そんな相手の妻になるなんて、こっちから願い下げよ」
彼が一度でも誠意を返してくれていたら、もし自らの足で私に会いに来てくれたなら、私はこの酵母でパンを焼いていた。
『これが私のとっておきです』
って。
そうならなかった責任を私は取らなくてはならない。だから今日、私は伯爵家を出ることにしたのだ。
「ラビは私が町でこっそり働いてるの知ってるでしょ? 貴族の暮らしよりずっと合ってるわ」
領内にある小さなパン屋。
王城でも働いていたという彼女が作った出来立ての美味しいパンの味が忘れられなくて、私はこっそり家を抜け出して、彼女に弟子入りしたのが数年前の話。
はじめてだらけのことで失敗も多かったけれど、働くことも町での生活も楽しくて今ではすっかり馴染んでいる。
「大丈夫、心配しないで。自分の食い扶持くらい稼げるわ! ラビがいれば伯爵家も安泰だしね」
まぁ、現在は婚約破棄騒動で多少ゴタついてはいるけれど、お父様と優秀なラビアンに
任せておけば大丈夫でしょ、と気軽に笑い飛す私。
「僕が"勿体ないことした"って言ったのは、姉さんみたいな素敵な女性を逃したことだよ」
パンを食べ終わったラビアンが私に近づいて来てオニキスみたいな黒い瞳で私を捉えた。
「……ラビ?」
ラビアンは元々綺麗な顔立ちではあるけれど、あまりに真っ直ぐこちらを見つめるものだから、なんだか急に落ち着かなくなる。
「姉さんを蔑ろにする奴のところになんてお嫁に行かなくていいよ、僕が伯爵になって養ってあげるから」
静かに笑みを浮かべるラビアン。
長い指先が伸びてきて私の髪をサラッと耳にかけ、ポンポンと優しく頭を撫でられる。
先程私がラビアンをぐちゃぐちゃに撫で回したのとは全然違う動作にドギマギし、いつもみたいに茶化す言葉すら出てこない私に、
「姉さんが……シャルが最高なのはパンだけじゃないよ」
そう言ったラビアンは、
「頑張り屋さんなところも、好きなことに全力投球なところも、僕は大好きだよ。シャルは色んなモノを作り出せる可能性を持ってる」
私の手を取って指先にキスを落とす。
シャル。それはまだ、ラビアンがこの家に来たばかりの時から私の婚約が決まる前までの呼び方で。
懐かしさとともにしまったはずの感情が呼び起こされて、私の鼓動を早くする。
「新しいパンの開発や酵母の活用方法について研究してるのも知ってるし、それを領地の特産にして領民に還元できないかって考えてることも知ってる。シャルの願いは僕の一生をかけてでも全部叶えるから、僕と一緒に実現してみない?」
出ていくのは取りやめて、と私を引き留めるラビアンから視線を逸らして、
「ラビ、なんだかまるでプロポーズみたいに聞こえるわ」
勘違いしないで、と私は自分に言い聞かせる。
「みたい、じゃなくて。プロポーズなんだけど」
やや拗ねた言い方は私のよく知る"可愛い弟"のそれなのに、
「知ってた? ヴェルディス伯爵家が僕を養子に取ったのはドロント伯爵令息と上手くいかなかった時のための保険だって」
だからもう我慢しない、と佇むその人は全然知らない男の人みたいで。
耳朶に響く鼓動の音が煩くて。
何も考えられなくなる。
だけど。
「だ、だって……私達血が繋がってなくてもきょうだいとして育ったんだよ!? いきなり、そんなことを言われても」
もしも、またダメだったら? と先日婚約破棄を告げられた時の記憶が、ラビアンに手を伸ばす事を躊躇わせる。
元婚約者はどうでもいい。
でも、ラビアンを失うのは耐えられない。
そんな私の葛藤を見抜いたように、
「んーじゃ、しばらくは"姉さん"のままでいいよ。だから今日出ていくのはとりあえずやめて。じゃないと今日仕込んだ酵母、ダメになっちゃうよ? 僕りんご酵母のもっちりベーグル食べたい」
と、ラビアンは"いつもの可愛い私の弟"の顔でおねだりする。
「……確かに、酵母を無駄にするのはダメね」
結局、折れたのは私の方で。
私は諦めて白旗をあげる。
私はラビのおねだりに弱いのだ。
出て行くのを断念し、荷物を置いた私に、
「まぁ、でも、ここから先は容赦しないから覚悟してよね?」
宣戦布告するように耳元で囁くラビアン。
私のことを誰よりも理解し、私のことを把握しているラビアンに敵うわけもなく。
「お、お手柔らかにお願いします」
真っ赤な顔でそう答えるのが精一杯だった私が、ラビアンのために毎日自家製酵母でパンを焼くようになるのも。
酵母が美容にもいいと王女様の目に留まり、ヴェルディス伯爵領の名産になるのも。
もう少し先の未来のお話。
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現在連載中の「推しのバッドエンド回避のために、悪役の私がいい子を演じるのを辞めてみた結果」も読んでいただけると嬉しいです。




