81 潜入
ウィンデルははっと顔を上げ、驚いた表情でマスターを見つめた。
「どうして……」
「昔はな、君の父親のために情報を集めるのが仕事だったんだよ、ウィンデル。メッシから、事件に巻き込まれた船主と船員には口止めがされていたとはいえ……
収入の限られた船員が、きらきらした金貨を前にして断れると思うかい?」
イテナ川で起きた出来事にまで言及されたことで、ウィンデルは一層警戒心を強め、マスターを睨むように見た。
「あなたと僕の父はどんな関係なんですか?」
「彼は、私が忠誠を誓った相手であり、生涯で最も敬愛した人物だ。」
その表情はひどく真摯だったが、それでもウィンデルは完全には信じきれなかった。
「人違いってことはありませんか?」
「ありえない。私の人生で、あの青い両眼を持つ者を見たのは二人だけだ。一人は君の母親、そしてもう一人は――まだ産着に包まれていた君だ。」
その言葉を聞いた瞬間、ウィンデルの鼓動は一気に速まった。
「母さんのことまで、知っているんですか?」
「もちろんだ。君の両親とは、どちらとも親しかった。」
次の瞬間、ウィンデル自身も気づかぬうちに、堰を切ったように言葉が溢れ出ていた。
「だったら教えてください!僕の母は一体誰なんですか?過去に何があって、どうして父は僕をハサード村へ連れて行ったんですか?それに、なぜ合衆国の王室に反旗を翻したんですか!」
その勢いに、マスターは一瞬きょとんとしたものの、すぐに何かを悟ったように何度も頷いた。
「ああ……なるほど、なるほど。ザグの狙いは、そういうことか。」
「……何の話です?」
マスターは答えず、顎に手を当てて困ったように小声で呟く。
「参謀殿に知られたら、勝手な真似だって怒られるだろうな……いっそ、偶然ってことにしてしまうか?」
ウィンデルとナイヴは顔を見合わせたが、二人とも話の意味が分からなかった。やがて、マスターは何かを決めたように、含みのある笑みを浮かべる。
「いいか、ウィンデル。これから言うことをよく聞け。村の外から北東へ延びる道を、四時間ほど進むと、異様なほど大きな屋敷が見えてくる。
十中八九、さっき捕まったあの子は、そこにいる。」
「……どうして、そんなことを僕に?あの子は、僕とは何の関係もないでしょう。」
「行くかどうかは君の自由だ。だが、忘れるな。あの子が捕まったのは――一部は、君の責任でもある。」
その言葉が、今回の誘拐と、かつてのメッシ暗殺事件を暗に示しているのだと理解し、ウィンデルは黙り込んだ。
マスターは微笑み、二人の夕食の準備を続ける。料理を運んできた際、ぽつりと付け加えた。
「行くなら、食べ終わったらすぐ出発したほうがいい。夜中は警備が増えるが、その分、少し遅くなれば濃霧が出るはずだ。潜入するには、最高のタイミングになる。」
「……もし、子供を助け出したら、さっきの質問の答えを教えてくれるんですか?」
「いいや。それを語る権限は、私にはない。」
「じゃあ……」
問い詰めようとした瞬間、マスターはウィンデルの前にあった、まだ一口も飲んでいないビールを取り上げ、先に口を開いた。
「だが、その時になれば――別の誰かが、君に答えをくれるだろう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕食の間、ウィンデルは何度も手を変え品を変えてマスターから情報を引き出そうとしたが、相手は終始にこにこと微笑むだけで、他の客の対応に専念していた。
仕方なく、ウィンデルは鍵を受け取り、ナイヴと共に部屋へと向かう。濡れてしまった着替えを荷物から取り出して干し終えると、そのままベッドに倒れ込んだ。
その様子を見て、ナイヴは眉をひそめる。
「あの子、助けに行かないの?」
枕に顔を埋めたまま、しばらくしてから、ウィンデルはくぐもった声で答えた。
「行かない。」
「どうして?」
「あの言い分は、さすがに無理がある。もし僕が、あの子の誘拐に責任を負うって言うなら、息子が犯した過ち全部を、産んだ母親のせいにするのと同じだ。」
「でも……さっきの質問の答え、知りたいんでしょ?」
「……」
返事をしないウィンデルに、ナイヴは少し待った後、苛立ったように歩み寄り、枕を勢いよく引き剥がした。
「ウィンデル、拗ねてないで。」
ウィンデルは勢いよく起き上がり、不機嫌そうにナイヴを睨む。
「拗ねてる?」
「違うって言うの?今のあなた、全然あなたらしくない。」
「あんたに、僕の何が分かるんだよ!」
分かっていても、つい出てしまったその言葉に、ナイヴは少し傷ついた表情を浮かべ、声を荒げる。
「ええ、分からないわよ。あなたの両親に何があったかなんて、私には知りようがない。
でもね――私が知ってるウィンデルは、さっきのマスターの言葉の意味くらい、ちゃんと分かる人よ。子供を助けることと、知りたい答えを引き換えにしようとしてたってことも!
それなのに行かない理由なんて、一つしかない。あなたはまだ、ここにいないフレイヤに対して、拗ねてるのよ!」
「……っ」
「図星でしょ?フレイヤが村のために、あれだけの犠牲を払ったことを、あなたはまだ受け入れられない。
だから、見ず知らずの子供を助けるために、自分が危険に晒されるのも受け入れられない。それってつまり、フレイヤの選択を認めることになるから!」
その言葉に、ウィンデルは沈黙した。長い間を置いてから、ぽつりと口を開く。
「……じゃあ、どうすればいいと思う?」
なぜか、その真剣な問いかけに、ナイヴは少し嬉しくなった。
「私の考え?言いたいことがあるなら、当事者同士でちゃんと向き合って話すべきよ。
助かるはずだった子供を、そんな理由で見殺しにするなんて、ありえない。だって、あの子から見たらどうなると思う?
見ず知らずの二人のせいで、自分は助からなかった、ってことになるのよ。」
ウィンデルは目を瞬かせ、やがて苦笑した。
「それ、かなり強引な理屈だよ。」
ナイヴも、つられて笑う。
「でも、理不尽よりはマシでしょ?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
救出人質を決めたあと、二人は少しだけ仮眠を取り、窓から宿屋を抜け出した。風乗りを展開し、村の北東へと向かう。
マスターの言った通り、夜が更けるにつれて霧はますます濃くなっていった。目標である屋敷の外に、点々と灯る明かりがなければ、ウィンデルたちはそのまま通り過ぎてしまっていたかもしれない。
だが、この濃霧のおかげで、屋敷の入口からわずか二十メートルほどの距離まで近づいても、誰にも気づかれずに済んだ。
その位置からは、屋敷を囲むように十を優に超える灯りがゆっくりと動いているのが見える。明らかに、巡回中の衛兵だった。
その光景を見て、ナイヴは肘でウィンデルをつつく。
「ねえ、どうする?正面突破?」
「いや、騒ぎは起こさないほうがいい。霧がこれだけ濃ければ、忍び込むのは難しくない。」
「でも、守衛が多いよ?」
「外の人数は問題ない。怖いのは、屋敷の中にどこか潜んでる守衛だ。」
「どういう意味?」
「考えれば分かる。灯りを持っていても、五メートル先すら見えないはずだ。だから風乗りで上空から越えれば、まず気づかれない。
問題は、二階や三階の窓から侵入する時に、ちょうど誰かが通りかかった場合だ。」
「他に方法はないの?」
ウィンデルは首を横に振った。
「少なくとも、今のところは思いつかない。」
「じゃあ、行こう。二階や三階の窓に、たまたま誰もいないかもしれないし。」
「楽観的すぎない?」
ナイヴはくすっと笑う。
「私は疑ってばかりなの、好きじゃないの。ほら、手を出して。あなた、まだ本調子じゃないでしょ。任せて。」
ウィンデルが何か言う間もなく、ナイヴは彼の左手を取った。
ほどなくして二人の身体は地面を離れ、十メートルほどの高さまで浮かび上がる。そのまま、ゆっくりと屋敷へ向かって進んでいった。
足元では、濃霧の中に灯りがぼんやりと揺れている。それを見下ろしながら、ウィンデルは不思議な感覚に包まれた。
まるで夢を見ているようだ。霧と雲の中を、少女に手を引かれて飛んでいる夢を。
ぼんやりしていると、左手をぎゅっと強く握られた。我に返った瞬間、二人はすでに三階の廊下、その窓の外に「立って」いた。
すぐ耳元で、ナイヴの息を殺した声がする。
「準備はいい?」
ウィンデルは左手を軽く握り返して合図を送る。それを確認すると、ナイヴはすぐに行動に移った。
風を操り、木製の窓枠に音もなく小さな穴を開ける。得意げでどこか悪戯っぽく微笑み、手を差し入れて閂を外した。
二人は慎重に屋敷の中へ入り、ウィンデルは周囲を見回して人の気配がないことを確かめてから、ようやく息をつく。
「上から順に、探していこう。」
薄暗く、不気味な廊下を前にして、ナイヴはふと緊張した表情を浮かべた。それに気づいたウィンデルは、笑いながらからかう。
「何を怖がってるんだ?見つかったとしても、困るのは向こうだろ。」
一瞬きょとんとしたあと、ナイヴは小さく笑い、胸のつかえも消えたようだった。
二人は三階と二階を隅々まで調べたが、成果はなかった。だがその間、一度も巡回の守衛と遭遇することもなかった。
標的は一階か地下だと判断し、二人は一階へ続く階段へ向かう。見張りがいないことを確認してから、足音を殺し、一階廊下の角まで進んだ。
ウィンデルが廊下を覗こうとした瞬間、異様な風切り音が、唐突に響く。ウィンデルは即座に反応し、風乗りでナイヴを引き寄せながら横へ飛んだ。
暗闇から振り下ろされた刃が、間一髪で空を切る。「ザッ」という裂ける音とともに、ウィンデルの胸元の服に一本の切り裂き傷が走った。
ナイヴが何が起きたのか理解する間もなく、黒い影が間合いを詰めてくる。冷たい光が閃き、今度は首元を狙った致命の一撃。
だが、すでに心構えはできていた。ウィンデルは再びナイヴを引き、斜め後方へと跳ぶ。刃は、彼の残像にすら届かなかった。
余裕をもって躱してはいたが、内心では焦りが募る。相手が叫べば、数秒と経たずに守衛に囲まれるのは明らかだった。
ナイヴに先制を促そうとしたとき、予想に反して、黒影は仲間を呼ぶこともなく、ただ警戒するように刃を構えたまま立ち止まった。
もしかして、守衛じゃない?
そう思った瞬間、ウィンデルは傍らに違和感を覚える。ナイヴが反撃に出ようとしていると察し、すぐに手を伸ばして制した。
「待って。相手は敵じゃないかもしれない。」
抑えきれない苛立ちを含んだ、ナイヴの声が返ってくる。
「殺そうとしてきたのに?」
「とにかく、今は動くな。」
二人のやり取りを聞いたのか、黒影が口を開いた。
「もしかして、二人ともウッド選帝侯の部下か?」
一瞬で思考を巡らせ、ウィンデルは相手の意図を察する。そして、その筋書きに乗ることを選んだ。
「君こそ誰だ?この屋敷の捜索を任されているのは、僕たち二人だけのはずだが?」
その言葉に、相手はわずかに緊張を解いた。
「やはり、ウッド選帝侯の部下だったか。なら話は早い。俺たちの目的も、プロシ家の若君を救い出すことだ。」
「俺たち?」
「そうだ。ほかにも二人、仲間がいる。提案があるが、三人で行動しないか?さっきみたいな誤解で、無駄に争うのは避けたい。」
完全に信用したわけではなかったが、慎重に動けば問題ないと判断し、ウィンデルは頷いた。
「分かった。」
だが、三人が合意したその直後、廊下の両側から慌ただしい足音が響く。先ほどの追撃の際に出たわずかな物音が、守衛の注意を引いたのだろう。
襲撃者は即座に伏せ、床に耳を当てる。二秒後に立ち上がり、低い声で早口に告げた。
「左に二人、右に三人。左は俺がやる。お前たちは、右の先頭二人を一瞬で潰せ。声を出させるな。」
「問題ない。」
そう答えると、ウィンデルはナイヴの肩を軽く叩き、囁く。
「念のため、三人とも気絶させて。」
ナイヴは小さく微笑んだ。次の瞬間、違和感とともに、彼女が瞬時に三つの不可視の風の鎚を宙に生み出したのが分かる。
その時、襲撃者が軽く指を鳴らした。
合図だった。
ナイヴは即座に風の鎚を放つ。同時に、襲撃者の側から、ごく微かな二つの呻き声が聞こえた。おそらく、彼が担当した二人の守衛が仕留められたのだろう。
こちらの三人も確実に気絶したのを確認し、ようやく息をついた、その時だった。闇の奥から、聞き覚えのない声が響く。
「おい、ストーク。ずいぶん不用心じゃないか。こんな三流の守衛に見つかるとはな。それで――
そこの二人は誰だ?」




