78 風の思い出 其の三
「なあ……こんな計画、本当に成功すると思うか?」
「どうした。信じられないのか?」
「不安なだけだ。だって、もし本当に成功したら……まるで、僕たちが運命を弄んでいるみたいじゃないか。」
「馬鹿だな。考えすぎだ。」
「でも……」
「気持ちはわかる。でもな、そんな無駄な心配をする必要はない。いいか、運命っていうのはな、蜘蛛の巣みたいなものだ。」
「蜘蛛の巣?」
「ああ。二本の木のあいだに張られた、無数に絡み合う蜘蛛の巣だ。一本の木の、最初の接点から糸は交わり、また交わり、何度も何度も交錯して……やがて、もう一方の木の同じ一点へと収束する。」
「……もしそうだとしたら、その巣を張った蜘蛛は誰なんだ?」
「さて、誰だと思う?」
「神?」
「違う。あの忌まわしい神なんかじゃない。」
「じゃあ、いったい誰なんだ?」
最後の答えを口にする前、男はひどく皮肉そうに、低く笑った。
「その蜘蛛の名は――人間性だ。」
合衆国暦五十二年
森の中を、一つの影が疾風のように駆け抜けていく。
ペスが地面を軽く蹴るたび、その身体は数メートル先へと一気に跳躍した。燕のように軽やかな身のこなしは、まさに風を御していると言っても差し支えない。
だが、荒く上下する肩が示す通り、彼女はすでに限界に近かった。
今のペス・ベイルを動かしているのは、ただ残された精神力だけだった。
あと三十分。あと三十分だけ耐えればいい。イテナ市に紛れ込めさえすれば、さすがの彼らでも見つけられない。
そう思った瞬間、背後から、凄まじい風圧が襲いかかってきた。
正面から受け止める余力はない。
ペスは重心をわずかに右へ傾け、左足で地面を強く蹴ると、身体を横へ投げ出す。刹那、鋭利な風刃が、彼女のいた空間を切り裂いた。
ギッ。
風圧は彼女の背後にあった木を真っ二つに断ち、ペスは別の幹に激しく叩きつけられて地面に転がる。
痛みに歯を食いしばりながら、彼女は必死に上半身を起こし、巻き添えを食った木に背を預けて、風刃の放たれた方向を睨み据えた。
来る。あの人が。
案の定、二、三十メートル先に人影が現れ、幾度かの跳躍で一気に距離を詰めてくる。ペスは顔を上げ、わざと軽い調子で笑ってみせた。
「来たね。たぶん、君だろうとは思ってたよ。」
「どうして……ペス。どうして、そんなことを?」
木にもたれる親友を見下ろすクリストの瞳には、痛み、戸惑い、そして深い悲しみが入り混じっていた。その表情を見て、ペスはしばらく沈黙してから答える。
「私の言葉で言うなら、彼を失えなかったから。でも、『私たち』の言葉で言うなら――」
そこで、彼女は少し困ったように笑った。
「これが、運命だから。」
「でも、そんなことはやっちゃいけないってわかってるでしょう……」
「もういい、リス。私は後悔したくなかっただけ。」
クリストは拳を強く握りしめる。まるで、どうしようもなく重い決断を前にしているかのように。
「赤ちゃんは?」
「馬鹿ね。もちろんここにはいない。」
「……最初から、私があなたを追うってわかってたのね。ホーンを追わずに。」
「当然でしょう?私の性格を一番理解していて、実力も拮抗している相手なんて、あなたしかいないもの。」
クリストは目を細め、それでもなお理解できないという表情を浮かべた。
「つまり……ホーンが私の部下十数人を相手に、あの子を連れて逃げ切れると?」
「ええ。だって、彼は私の夫だもの。」
「それでも、後で見つけ出すことはできる。」
「無理よ。私が、そんなことはさせない。」
「今のあなたで?」
「今の私だから、よ。」
腕を上げることすら辛いはずなのに、ペスの声に迷いはなかった。
「命を賭けて全力を出せば、あなたが無傷で済むことはない。下手をすれば、何年も歌が使えなくなる。それは……あなたの計画を大きく遅らせることになる。そんな賭け、したくないでしょう?」
クリストの表情が強張る。虚勢ではないと、彼女にはわかっていた。長い沈黙ののち、クリストは小さく首を振り、ため息をつく。
「本当に、あんたには敵わないね。」
その一言で、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。変化を感じ取ったペスは、苦笑混じりに言う。
「私も勝ってないよ。忘れないで、今回も『運命』なんだから。本当に言うなら、私たちって一度もお互いに勝ち切れたこと、ないんだよ。」
「それもそうね。もしグレイドが本当に存在するなら、感謝しないと。こんな最高の友人で、最高の好敵手をくれたことに。」
「私も。この世界に、あなたがいてくれてよかった。」
その言葉に、クリストは思わず膝をつき、ペスを強く抱きしめた。ペスもまた、弱々しく腕を伸ばして応える。
これが、友としての、最後の別れだ。
長い抱擁の後、クリストは静かに身を離し、再び厳しい表情に戻る。
「大局を優先し、クネイトとして誓う。ホーン・ノエルとその息子を、これ以上追うことはしない。ただし……」
一拍置き、決意を固めたように続ける。
「村の掟は、破れない。まして、それを私の手で壊すわけにはいかない。」
その言葉を予期していたかのように、ペスは静かに頷いた。
「わかってる。」
「何か、言い残すことは?」
そう言いながら、クリストはわずかに震える右手を持ち上げる。その仕草を見て、ペスは悟った。
遺言を問われているのだ。
「そうね……」
目を閉じ、しばし考えた後、ペスは再び目を開き、優しく微笑んだ。
「彼らを、もう苦しめないって約束してくれて、ありがとう。悩まないいで。あなたのせいじゃない。ただ……運命が、私たちにあまりにも残酷だっただけ。」
笑顔のまま、声がかすれる。
「リス……私の子を、お願い。」
クリストは無言で頷き、目を閉じる。そして、掲げた右手を前へ振り抜いた。
シュッ。
不可視の風刃が、ペスの純白のローブを裂き、その胸を深く貫く。
噴き出した鮮血が、二人の白い衣を染め上げた。その光景はまるで、雪原に散る赤い花のようだった。
「……あなたの欠点は、優しすぎるところよ。」
そう呟いた瞬間、クリストの瞳から、堪え続けていた涙が溢れ落ちた。




