77 エルの記憶 其の三
「スカートと草原を軽やかに飛び越えるのは
私の心をそっと掻き立てるデライ
荒々しく大地と川を乾かし尽くすのは
私の意志を静かに研ぎ澄ますラゴン
そしてサロは憂いを含んで黄葉を散らし
私の孤独な涙さえ優しく連れ去る
フィルは雪と共に世界を白く覆い
冷たい絶望で身も心もそっと包み込む」
ナイヴは、石碑に新しく刻まれた紋様を指でなぞりながら、そこに込められた言葉を小さく読み上げていた。
だが途中で、低く、落ち着いた声が、その続きを紡ぐ。
「だから私はここで永遠の眠りにつく
黄土と蒼い海が交わる境界で
ああ、グレイドとデライの扉の前に立ち
海風に乗った波の調べを聞き続ける
世界が終わるその日まで
けれどすべてが終わる前に
天よ、どうか
私の願いを聞いてください
無欲で純粋なあの歌声を 白き風の救済と共に
八方へ吹き抜けさせ
六つの界に響き渡らせてください」
そこまで読んで、声は一度途切れ、やがて石碑の最下段に刻まれた言葉を、静かに告げた。
「エル、グレイス、タフ
望み通り
世界の接点にて永眠する」
ヒュウ、ヒュウ。
強い海風が二人の衣の裾を激しく打ち鳴らす。それぞれ思いを抱えたまま、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、耐えきれなくなったナイヴが、先に沈黙を破る。
「体調は、だいぶ良くなった?」
「うん」
「風乗り、使えそう?」
「うん」
「もう、行ける?」
「うん」
「……ねえ。大丈夫?」
「うん」
「もう、『うん』ばっかり!あんた、それしか――」
同じ返事の繰り返しに苛立ち、振り返ったナイヴは、ウィンデルの表情を見た瞬間、言葉を飲み込んだ。
もともと痩せていた頬は、わずかなやつれでさらに骨ばって見える。だが、何より変わっていたのは、その瞳だった。
かつて深い藍の光を宿していた双眸は、陽のない今日という日には、まるで灰色に死んでいるかのようだった。
ウィンデルは虚ろな目で石碑を見つめ続け、長い沈黙の末、ようやく口を開く。
「……あの三人は、死んだのか?」
ナイヴは重く頷いた。
「ええ」
「じゃあ、残りの三人の和者は?」
「マーガレットたちが、先にフレイヤを連れて戻ったわ。でも……あの人たちも、残りの寿命は、せいぜい二十日ほどだと思う。」
それを聞き、ウィンデルはしばらく空を仰ぎ、唐突に脈絡のない言葉を漏らした。
「……やっぱり、分からない。」
「え?何が?」
奇妙な視線を向けてきたあと、何かに気づいたように、彼は小さくため息をつく。
「いや、何でもない。僕の勘違いだ。村に戻ろう。」
「勘違い?何を?ねえウィンデル、さっきから一体、何の話をしてるの?」
問い詰められて、ウィンデルはただ力なく首を振るだけだった。その落胆した様子を見て、ナイヴの胸に、ある考えが浮かぶ。
考えたくもない、不快な想像が。
「……本当は、今ここに立ってるのが、私じゃなくてフレイヤだったらって、思ってるんでしょ?」
「そんなこと、言ってない。」
あまりにも弱い否定に、ナイヴは確信してしまう。
「でも、そう思ってる!さっきの目……はっきり分かったわ。『もしフレイヤだったら、聞かなくても僕の考えが分かったはずだ』って顔だった!」
「……不快にさせたなら、謝る。」
「そういうところが、本当に嫌い!私が一番嫌なのは、みんなが私を、いつもフレイヤと比べることなのに!」
「本当に、すまない。」
低く身を縮めるようなウィンデルの態度を見て、ナイヴもこれ以上彼を責め立てることはできなかった。胸の奥に渦巻く怒りと失望を、ただ必死に押し殺すしかない。
「もういい。帰りましょう。今のあなたはまだ身体が弱いんだから、ここで風に当たらないほうがいいわ。」
「君は先に戻って。」
「ウィンデル!」
「お願いだ、ナイヴ。少し……一人にさせてくれ。頼む。」
「……わかった。でも、あまり長くいないで。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今年、無私にして叡智に満ちたマギーが、私たちのもとを去った。」
式場の演台に立ったモーンは、低く沈んだ声で静かに読み上げた。
「彼女の魂が、風とともに永く在らんことを」
モーンの言葉が終わると、会場中から無数の声がそれに続いた。
「彼女の魂が、風とともに永く在らんことを」
すべての聞き手が目を閉じ、また一人の傑出した仲間の死を静かに悼む。マギーと親しかった者の中には、嗚咽をこらえきれず涙を流す者も少なくなかった。
誰からも咎められることはなかったが、涙を見せた親族や友人たちは、自ら式場を後にし、感情を落ち着かせに行った。
この場において、悲嘆はふさわしくない。和者の犠牲は、あくまで荘厳で、誉れ高く、悔いのないものであるべきなのだ。
長い沈黙ののち、モーンは懐から一着の白いローブを取り出した。
「これは生前、マギーが身にまとっていたローブだ。彼女の遺志により、死後も谷に留まり、私たちを見守りたいとのことだった。ゆえに……」
次の瞬間、まるで魔法のように、モーンの手の中のローブは無数の布片へと砕け散った。突如吹き荒れた強風に乗り、四方の窓から外へと舞い出していく。
その光景を目にし、多くの聞き手が、悲しみを湛えた微笑を浮かべた。
布切れが最終的に谷のどこへ運ばれたのかを知る者はいない。だが、それらの布片にマギーの魂が宿っていないと疑う者も、また一人としていなかった。
間違いなく、彼女の魂は谷の隅々へと行き渡り、最も愛したこの土地で、永遠の安らぎを迎えるのだ。
こうして儀式は幕を閉じ、続いて新たな和者を選出する手続きへと移った。
「では、マギーの後任を引き受ける者はいるか?」
モーンの問いかけに、会場にはざわめきが広がる。誰が今年の和者になるのか、皆が小声で噂し合っていた。
ほとんどの者が、次の段階――すなわちモーン自身による指名を待って、答えが明かされるのだろうと考えていた。
そう、ほぼ全員がそう思っていた。
あの少年が、人々の中から立ち上がるまでは。
「……僕がやります。」
一斉に視線が集まる。顔を上げた彼を見て、人々は皆、驚きを隠せなかった。
少年の年齢も、そして彼とグレイスとの関係も、誰もが知っていたからだ。演台の上で、モーンは深く眉をひそめた。
「エル、冗談で済む話じゃない。本気なのか?」
エルの隣に座っていたグレイスも、彼の手を掴み、不安に満ちた表情で訴えかける。
「エル、どういうこと?あなた、私に約束してくれたじゃ……」
言い終える前に、エルは心を殺して彼女の手を振りほどいた。
「もう諦めたんだ。僕たちは……無理なんだ、グレイス。」
大勢の前で振られ、グレイスはしばらく呆然と立ち尽くした後、喉を詰まらせるような声を漏らし、顔を覆って人混みをかき分け、走り去っていった。
沈黙ののち、再びひそひそとした声が会場に広がる。
「はあ……最近の若い連中は、和者を何だと思ってるんだ。」
「恋人同士の痴話喧嘩で和者になるだと?ふざけるな。」
場の空気があまりにも気まずくなったのを察し、モーンは軽く咳払いをした。
「とにかく、今日の集会はここまでとする。必要があれば、次回の日時はこちらから改めて知らせよう。参加に感謝する。……それとエル、君は残りなさい。」
人々は不満を小声で漏らしながら、式場を後にしていった。中には、わざとエルの肩にぶつかって通り過ぎる者もいた。
神聖なる役目を冒涜したことへの、無言の非難だ。
だがエルは、ただその場に立ち尽くし、最後の一人が去るまで動かなかった。
俯いて黙り込む弟子の姿を見つめ、モーンは胸の内でため息をつき、ゆっくりと彼の前に立った。
「……何が、お前の心を変えた?」
グレイスとのことを、彼が知らぬはずもない。
「別に。ただ彼女のためを思えば、僅かな可能性に希望を託し続けるべきじゃないと思っただけです。」
しばらくエルを見つめ、モーンはやがて嘆息した。
「グレイスの両親に、説得された?」
「……一部は、そうです。」
「愚か者め。なぜ、信じたものを信じ抜こうとしなかった?」
最も敬愛する師匠の言葉であっても、エルの胸に溜まり続けていた怒りは、ついに抑えきれなくなった。
「信じたかったですよ、先生!でも現実は、僕に信じているものを自分の足で踏み潰せって言うんだ!
今、僕が一番したいことが何かわかりますか?あんたたち大人や老いぼれ全員に、思い切り平手打ちを食らわせてやりたい!
あんたたちがいなければ、聞き手と導き手の関係が、ここまで悪化することもなかった!
あんたたちがいなければ、定期的に誰かを『和者』なんて名の、ただの身代わりに仕立て上げる必要もなかった!
今やっているこの追悼式だって、何なんですか?表向きは『和者であることは最高の栄誉』だなんて言いながら、実際はどうです?
力のない者は選ばれなくて済むことに胸をなで下ろし、力のある者は外されたと知って、こっそり安堵する。
そのくせ、能力の有無に関係なく、誰もが家に帰れば子どもに言うんだ――和者になるなって!
グレイスの両親だってそうだ!娘の想いを断ち切るために、僕に和者になれと言った!
どうなんですか、先生!答えてくださいよ!
こんな腐った世界で……僕は一体、何をどう信じればいいんですか!」
弟子からの糾弾を前にしても、モーンはただ黙ってそれを受け止めていた。エルが叫び終えたのを待ってから、ようやく口を開く。
「……それほどこの村を憎んでいながら、お前はそれでも臨界者のために自分を捧げるつもりなのか?」
エルは忌々しげに彼を睨みつけた。
「一人が犠牲になるほうが、二人とも死ぬよりはマシだ。それだけさ。ただし先に言っておく。和者になった後、死ぬまでずっと、僕はあんたたちを呪い続けるからな!
死んだ後も村を守るだとか、そんな綺麗事、絶対に言わせるなよ!」
「ほう?では、私から呪われる覚悟はできているのか?」
その声は、式場二階の観覧席から響いた。次の瞬間、グレイスが高みから跳び降り、寸分違わずエルの隣に着地する。
呆然としたエルは、しばし言葉を失い、やがてどもりながら口を開いた。
「き、君……ずっと上に隠れてたのか?」
「当たり前でしょ!上で盗み聞きでもしてなきゃ、あんたが裏で何を勝手に決めてたのか、どうやって知るのよ!
いい、エル。よく聞きなさい。あんたがもう諦めたとしても、私は絶対に諦めない。一年だろうが十年だろうが、必ず和者になって、あんたを追いかけてやるから!
あんたが誰かを呪う暇なんてなくなるわよ。だって、死ぬまで私の呪いの相手をする羽目になるんだから!」
その瞬間、普段の名家の令嬢然とした優雅さは、跡形もなく消え去っていた。
あまりに激変した彼女の姿に、エルもモーンも面食らう。二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「こりゃ、厄介なことになったな、小僧。」
「みたいですね。」
「だが、本当にグレイスには感謝しろ。彼女がいなければ、お前の残りの人生は憎しみだけで埋め尽くされていた。
はっきり言っておくが、そんな人生は、相当つらいぞ。」
その言葉を聞いて、エルはようやく、自分が先ほど吐き出した怒りの言葉が、どれほど人を傷つけるものだったかに気づいた。
先生こそ、この村で最も深く傷つけられてきた一人なのだ。
彼の胸中を察したのか、モーンは気にした様子もなく手を振る。
「気にするな。お前の怒りには、一理がある。だが一つ忠告しておこう。残り少ない人生を、怒りや憎しみに費やすな。それはあまりにも愚かなことだ。」
すると今度は、グレイスが口を挟んだ。
「愚かなんかじゃありません、先生。私は残りの人生、全部このバカを恨むつもりですから。」
モーンはグレイスを見て、それからエルを見つめ、哀しみと安堵が入り混じった微笑を浮かべた。
「好きにすれば。こうして恨んでくれる者がいるというのも、この小僧の運のうちだ。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ウィンデルは、岸辺に佇む石碑を静かに見つめていた。
昏睡の中で見た過去、そしてこの数日間に起きた出来事を、胸の中で反芻しながら。
「どうして、あんなにも理不尽な扱いを受けながら、それでも村のために捧げ続けたんだ……?」
右手を伸ばし、石碑をなぞる。
風刃によって刻まれた紋様に指先が触れた瞬間、エルたちが生前に抱いていた怒りと悲しみが、流れ込んでくるかのようだった。
運命に縛られることへの怒り。
自らの無力さに対する悲しみ。
それらすべてが、ウィンデルの迷いを、さらに深めるだけだった。
「いったい、どうしてなんだ?」
彼は振り返り、儀式が行われていた広場を見つめた。今は誰一人いないはずのその場所に、彼の脳裏では、まったく別の光景が映し出されていた。
フレイヤを含め、多くの人々が広場に倒れ伏し、意識を失っている。それでも二人だけは目を覚ましていて、彼らの会話までもが、直接ウィンデルの頭の中に響いてきた。
理由はわからない。だがウィンデルは、これが儀式直後の光景であると確信していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「感じるか?」
「うん。今なら、死に際に人生が一瞬でよみがえる感覚が、よくわかる。」
「だよね。不思議な感覚だ。」
「……ねえ、グレイス。」
「なに?」
「あのこと……もう許してくれた?」
「まさか」
「えっ、今さらそれでも許してくれないのか?」
大げさな反応に、グレイスは小さく唇を綻ばせて笑った。
「一生許さないわ。だから来世があるなら、その時にちゃんと償いなさい。」
エルは困ったように苦笑する。
「わかった。来世があるなら、努力するよ。」
「それでいいわ。ところで、まだ後悔してる?」
「どれのこと?」
「全部。」
「いや、してない。」
「じゃあ、恨みは?」
「もう、恨むことなんてない。ただ……」
「ただ?」
しばらく言い淀った後、エルは意を決したように尋ねた。
「……君は、まだ僕を恨んでる?」
グレイスは思わず吹き出し、すぐに優しい表情を浮かべた。
「ええ。心配しないで。あんたを、ずっとずっと恨んでるわ。」
エルは満足そうに微笑み、ゆっくりと目を閉じた。それを見て、グレイスは身を寄せ、彼に寄り添いながら、満足そうに息を吐く。次第に弱くなる声で、囁くように言った。
「バカね。聞くまでもないでしょう……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうして、恨まずにいられるんだ……」
ウィンデルは石碑から手を離し、灰色の空を仰いだ。
頬を伝って、静かに涙が落ちていく。
「君たちも、フレイヤも、恨んでいいはずなのに……」
だがその言葉は、地と海の境界を吹き抜ける風に掻き消され、何一つ残らなかった。
ヒュウ、ヒュウ。
風の音を聞きながら、理解できぬ思いと落胆に胸を満たしたウィンデルは、力なく地に膝をついた。
「わかんないよ……」
ヒュウ、ヒュウ。
そのとき、海風でさえも、迷うように、か細く泣いているかのようだった。
「固結び」編、ここで終わります!
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
来週の土曜日から、いよいよ「心の網」編が始まります!




