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76 エルの記憶 其の二

 エルは万念尽きたように、その場に立ち尽くしていた。


 目の前で勢いよく閉められたあの扉など、本気を出せば一瞬で木くずに変えられる。それでも、エルは結局そうしなかった。


 怒りと落胆を胸に、踵を返そうとしたそのとき、扉の向こう側から、突如として甲高い言い争う声が響いてきた。思わず、彼は足を止める。


「あの人に会いに行くなんて許さない!」


「誰に会うかは、私の自由よ!」


「お前がまだ私の娘である限り、自由なんかじゃない!」


「だったら、そんな父親いらない!」


 その言葉が家の中から飛び出した瞬間、さきほどまでエルを絶望させていた扉が、勢いよく開いた。


 涙をこらえきれない様子のグレイスが飛び出してきて、彼の手を取ると、そのまま山のほうへと引っ張っていく。


 二人は前後になって歩き続けた。引く者も、引かれる者も、何も言葉を交わさない。


 それでも、互いの温もりのある手のひらから、理由の分からない安らぎを感じ取っていた。同時に、この世界がどれほど冷たい場所なのかも、はっきりと思い知らされていた。


 やがて辿り着いたのは、二人にとってあまりにも馴染み深い、山腹の草原だった。グレイスが先に腰を下ろす。エルも続いて座ろうとしたが、少し迷った末、彼女から二歩ほど離れたところに腰を落とした。


 それに気づいたグレイスが、怪訝そうに彼を見る。


「なんでそんなに離れて座るの?こっちに来なさいよ。」


 だが、エルは首を横に振るだけだった。その表情を見て、グレイスは小さく歯を食いしばり、自ら彼の隣へと移動する。そして、エルが立ち上がるよりも早く、彼の肩にそっと頭を預けた。


 エルは一瞬、体を強張らせ――やがて、深く息を吐く。


「……君の両親がこの光景を見たら、また怒るだろう。」


「もう、説得するのは諦めたわ。」


「でも、僕はまだだ。」


 グレイスは、かすかにため息をついた。


「エル……まだ分からないの?」


 見なくても分かる。そう言うグレイスの顔には、隠しきれない悲しみが浮かんでいるはずだ。


 その光景を想像した瞬間、エルの胸に強烈な怒りが湧き上がった。


「分からないさ。分かりたくもない!同じ臨界者なのに、どうして僕だけが、よそ者みたいに扱われなきゃいけないんだ!」


「じゃあ、どうなれば『よそ者』じゃなくなるの?」


「……」


「現実を見て。導き手である私の両親にとって、聞き手のエルは、どう考えても『よそ者』なの。」


「それなら……君は……」


「私は聞き手でも、結局はあの人たちの娘だから。」


 エルは黙り込んだ。しばらくしてから、ようやく口を開く。


「どうして、そんなに冷静でいられるんだ?」


「たぶん、こうなる日が来るって、ずっと前から分かってたから。たとえ私が立場を気にしなくても、エルはきっと、正式に両親に婚約を申し込みに来るでしょう?」


「当たり前だろ?二十五歳までに結婚できなかったら、君は和者にならなきゃいけないんだぞ!」


「和者になったら、何か問題でもあるの?」


「何を言ってるんだ、そんなの……絶対に駄目に決まってる!」


 エルは向き直り、グレイスの肩を強く掴んで、真っ直ぐに見つめた。


「君と僕は、絶対に一緒に、長く生きていくんだ。分かった?」


 グレイスは、悲しげに首を振る。


「……それが、できないのが問題なのよ。」


 胸を刺すような痛みに、エルは思わず彼女を強く抱きしめた。


「できる。絶対にできる。期限が来るまで、何度でも……僕は諦めないから。」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 再び、扉を目の前で閉められる覚悟はできていた。だが今回、扉を開いたのはグレイスの父ではなく、母だった。


 玄関先に立つエルを見て、彼女は二歩ほど下がり、家の中へ招き入れる。


 その予想外の対応に、エルは驚きつつも、胸の奥に小さな希望が灯るのを感じた。


 もしかして、長年の想いが、ようやく届いたのではないか。


 グレイスの母の後ろを、落ち着かない足取りで進み、これまで一度も入ったことのない居間へと通される。

 椅子を引いて座った直後、彼女は香り高い紅茶を差し出した。


 あまりの上質さに、エルは思わず口を閉じるのを忘れる。香りだけで分かる。合衆国の富裕層にとっても、間違いなく贅沢品に分類される代物だ。その事実が、さらに希望を膨らませた。


 エルは礼儀正しく一口だけ紅茶を含み、カップを置いて、静かに相手の言葉を待つ。沈黙を保つ彼の意図を、グレイスの母はすぐに察した。


「……どうして、こんなふうにもてなしているか、分かる?」


 そう問われて、何も分からないふりをするのも失礼だと思い、エルは期待を隠しきれずに口を開いた。


「それは……ついに、グレイスと僕のことを……」


「いいえ。あなたには、グレイスを諦めてほしいの。」


 その一言は、まるで冷水を頭から浴びせられたようだった。一瞬で、雲の上から奈落へと突き落とされる。


「……それなら、どうして、今までみたいに扉を閉め出さなかったんですか?」


「あれで効果があった?あなた、まったく諦めなかったでしょう。」


「じゃあ、今回は……」


「ええ。今回は、きちんと話がしたかったの。グレイスは、もう二十三歳よ。あなたたちが互いを諦めなければ、あと二年で……あの子は和者にならなければならない。」


「そのときは、僕も一緒に和者になります。」


 グレイスの母は、さすがに苛立ちを隠せなくなりつつも、できるだけ声を抑えた。


「どうして……どうして、あの子を手放すという選択肢を、一度も考えないの?」


 エルは首を横に振り、迷いのない声で答えた。


「僕は、絶対に彼女を諦めません。彼女も、僕も……お互いがいなければ、生きていけないんです。」


 その瞬間、居間の外から、グレイスの父が怒りに満ちた表情で踏み込んできた。彼はエルを指さし、怒鳴りつける。


「この身勝手な小僧が!つまりお前は、そのせいでグレイスの寿命が縮んでも、構わないと言うのか!」


 エルは怒りに任せて立ち上がり、退くことなく相手を睨み返した。


「気にしないわけがないだろ!気にしているからこそ、僕は何度も頭を下げて、あなたたちに受け入れてほしいと願ってきたんだ!」


「グレイスは、我が家の一人娘だ!あの子が聞き手になると言い張った時点で、私は正気を失いかけた。


 それなのに、今さらお前と結婚するなど、どうして認められる?そんなことを許せば、我々の家系は、ここで断絶してしまうではないか!」


「家の未来は、娘の幸せよりも大切なんですか?」


 グレイスの父が言い返そうとした瞬間、母が手で制し、静かに言葉を重ねた。


「私の娘ほどの条件を持つ子が、どうして『あなたと一緒でなければ幸せになれない』と、言い切れるの?」


「僕たちは……互いに、心から愛し合っています!」


「愛のために、相手を死なせても構わない。それでも、それは『愛』と呼べるのかしら?」


「それは……」


 返す言葉を見つけられず、エルは黙り込んだ。


「これで分かったでしょう、少年。それは本当の愛なんかじゃない。ただの、一時の熱に浮かされただけ。


 このまま進めば、後悔するのは他でもない、あなたたち自身よ。『愛する人から、より良い未来を奪ってしまった』とね。」


「……どうして、グレイスが他の導き手と一緒になったほうが、幸せだと言い切れるんですか?」


「少なくとも、自分の人生が短くなることを、心から望む人間はいないわ。」


 エルは無意識に拳を握り締めた。長い沈黙の末、低く呟く。


「たとえグレイスを諦めたとしても、彼女は僕を諦めません。」


「まあ……それは、どうかしら。」


 エルの意志が揺らいだのを感じ取ったのか、グレイスの母の表情が、わずかに和らいだ。


「今年、風とともに逝った和者が、何人いたか……知っているでしょう?」


「……一人だけです。」


「ええ、たった一人。もともと和者になる覚悟があるのなら、本当にあの子の将来を思うのであれば、モーン様に『自ら志願して和者になる』と伝えなさい。


 そうすれば、あの子はきっと、あなたが身を引いたのだと思うでしょう。仮に彼女が一緒に和者になりたいと願っても、今年はもう枠が残っていないわ。」


「でも、来年になれば……」


 グレイスの母は、迷いのない口調で言い切った。


「約束するわ。来年の歌が終わるまでには、必ずあの子の心を変えてみせる。」


 そこまで自信満々に言われ、エルは自ら志願するつもりでいながらも、胸の奥に拭えない不安を覚えた。


 自分たちの想いは、思っているほど強くないのか。たった一年で、グレイスは本当に自分を手放してしまうのか。


「さて、次にあなたが何をすべきか、もう分かっているでしょう?」


「……少し、考えさせてください。」


 そう言って、得体の知れない渇きに突き動かされるように、エルは目の前のカップを手に取り、紅茶を二口ほど流し込んだ。


 すっかり冷め切ったそれは、なぜか――ただ、苦いだけだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 春分点のある海岸からほど近い場所。


 石で組まれた簡素な小屋の中で、ナイヴは眠り続けるウィンデルとフレイヤを、黙って見守っていた。


 時刻はすでに、春分の翌日の午後。


 ほとんど丸一日眠り続けているというのに、二人には目覚める気配がまるでない。それが、彼女の胸を不安で満たしていた。


 ウィンデルのように、ただ静かに眠っているだけならまだしも……儀式が終わった直後に倒れたフレイヤは、ほどなく高熱を出し、それが今なお下がっていないのだ。


 ナイヴが濡らした布を取り替えて、フレイヤの額にそっと当てた、その直後。


 仮の扉代わりに掛けられていた分厚い帆布を押し上げ、マーガレットが中へ入ってきた。


 目を閉じたまま、異様なほど頬を紅潮させているフレイヤを一瞥し、彼女は静かにため息をつく。


「まだ、熱は下がらない?」


「ええ……」


 しばし考え込んだ後、マーガレットは決断したように口を開いた。


「このままじゃ埒が明かないわ。私とステドたちで、先にフレイヤを村へ連れ帰る。クネイト様なら、あの子の状態を一番よく分かっているはずよ。」


「でも……ここから村まで、最短でも二週間近くかかりますよね?途中の村で、一度お医者様に診てもらうことは?」


「普通の医者じゃ意味がないわ。これは、単なる体調不良じゃないもの。」


「まさか、歌の副作用、ですか?」


「ええ、その通り。」


「じゃあ……昔、クネイト様が歌を使った後も、毎回こんなふうに?」


 マーガレットは、少し言い淀んでから答えた。


「クネイト様はここまで酷くはならなかったわ。たぶん、フレイヤ自身の体質が関係しているのだと思う。」


 その言葉の意味を察し、ナイヴは口を閉ざす。やがて、小さく問いかけた。


「……出発は、いつになりますか?」


「ステドたちの準備が整い次第よ。あなたは……ここに残って、ウィンデルの容態が落ち着いてから、一緒に戻りなさい。」


「でも、村に着く前に、間に合わなかったら……」


 言いかけて、ナイヴは自分の失言に気づき、慌てて口を押さえた。その様子を見て、マーガレットは苦笑する。


「心配しなくていいわ。今の私たち三人の状態を考えれば……たぶん間に合う。」


「そう、ですか。それなら……」


 そのとき、かすかな呻き声が聞こえた。二人が振り向くと、フレイヤが苦しげな表情で、身を起こそうとしている。


 ナイヴは慌てて彼女を支え、上体を起こさせた。フレイヤは荒い息を何度繰り返し、ようやく掠れた声を絞り出す。


「……シルシは?」


「ここにあるわ。」


 マーガレットはそう言って、懐から黒い短棒を取り出し、彼女に差し出した。フレイヤはそれを受け取り、何度も向きを変して確かめる。


 やがて、短棒に埋め込まれた透明な珠を見つけると、ほっとしたように、息を吐いた。


「これで、安心した?」


「うん。」


 マーガレットは、胸の内で小さく息をつき、短棒を再び懐へ戻す。


「フレイヤ、これからのことだけど……」


「私に相談しなくても大丈夫です。どうせ今は、ちゃんと考えようとしただけで、頭が割れそうに痛くなるんですから。」


「分かった。」


 マーガレットが今にもフレイヤを連れて行きそうなのを見て、ナイヴは慌てて声を上げた。


「マーガレットさん……少しだけ、フレイヤと二人きりで話をさせてもらえませんか?」


 マーガレットはナイヴを一瞥し、静かに頷くと小屋の外へ出て行った。


 だが、室内に二人きりになると、ナイヴは親友の荒く、乱れた呼吸を耳にして、思わず言葉をためらってしまう。


 そんな彼女の様子を見て、フレイヤは力のない笑みを浮かべた。


「イヴ、言いたいことがあるなら、はっきり言って。」


「……フレイヤ」


「なに?」


「ウィンデルのこと、好き?」


 その問いを口にした瞬間、寄りかかっていたフレイヤの身体が、はっきりと強張ったのが分かった。


 しばらくの沈黙のあと、彼女はかすかな声で答える。


「……分からない。」


 はぐらかされたのだと思い、ナイヴの胸に苛立ちが湧く。


「分からないわけないでしょ!そんな曖昧な答え、聞きたくない!」


「誤魔化してるわけじゃないの。本当に……誰かを好きになるって、どういうことなのか分からないだけ。ただ一つ言えるのは、ウィンデルは、他の人たちとは違うってこと。」


「どう違うの?」


「彼だけは、最初から最後まで、私を『フレイヤ』として見てくれた。」


 ナイヴは困惑した表情を浮かべる。


「どういう意味?分からない。」


「彼は私を、『ミスリ』でも、『クネイトの娘』でも、『次代のクネイト』でもなく、ただの『フレイヤ』として接してくれた。こんな言い方はしたくないけど、イヴ、あなたでさえ……」


 言葉の続きを、ナイヴは痛いほど理解していた。しばらく黙り込み、やがて落ち込んだ声で言う。


「ごめん。あなたが、そこまで気にしてるなんて、思ってなかった。」


「謝ってほしいわけじゃないの。ただ……誰にも遠慮せずに人と接することが、こんなにも楽しくて、心地いいんだって知ったのは……生まれて初めてだったって、それを伝えたかっただけ。」


「それなら、どうしてデライの条件を受け入れたの?」


「どんなに嫌でも……その三つの身分は、全部『私自身』だから。」


「……」


 ナイヴが言葉を失っていると、マーガレットが顔を覗かせた。


「話は終わった?そろそろ出発するわよ。」


「すぐ終わります。」


 フレイヤはマーガレットに軽く頷き、それからナイヴへと視線を戻す。


「今の話、誰にも言わないでほしい。」


 胸の奥がきゅっと締めつけられ、ナイヴは横で眠るウィンデルに視線をやった。


「……ウィンデルにも?」


 フレイヤもまた、眠り続ける少年を見つめる。


「うん。特に、彼には。」


 疲れ切った声でそう絞り出され、ナイヴは思わず鼻の奥がつんとするのを感じた。


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