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75 願い

 なんとも不思議な感覚だった。


 召喚が完了した瞬間、フレイヤは、まるで緑の海へと沈み込んだかのような錯覚に包まれる。


 ひんやりとした緑の風が肌を撫で、そのまま胸の奥まで流れ込んできた。長い間押し殺してきた悲しみや悩みは、その圧倒的な喜びの前では、急にどうでもいいものに変わっていく。


『もともとさ。グレイドの掌の上で踊ってる君たちみたいな連中が、一生で味わえる感情なんて、吾からすれば大したものじゃないんだ。』


 頭の中に響いたその軽やかな声を聞いて、フレイヤは即座に悟った。


 相手の正体は、デライだ。


 異界の神とこうして言葉を交わしているのだと思うと、現実味のない感覚に背筋がぞわりとする。


「……お応えいただき、ありがとうございます。」


『堅苦しい挨拶はいいよ。吾はこういう場所に閉じ込められるのが嫌いなんだ。君はシルシを取り戻しに来たんだろ?』


「はい。」


『じゃあ、自分が支払う代価が何かも、分かっているよね?』


「……あなたを呼び出した歌い手は、自身の『すべての幸福な記憶』を捧げなければならないと。」


 そう言い終えた直後、フレイヤは緑の風に四方から包み込まれた。何かが起こる――そう身構えた瞬間、風はまるで興味を失ったかのように、あっさりと散っていく。


『……ダメだね。少なすぎる。』


「少なすぎる……?」


『君の幸福な記憶、少なすぎて逆に不愉快だ。』


「……あなたのような偉大な存在からすれば、私のようなちっぽけな人間が持つ記憶なんて、多かろうと少なかろうと、大差ないのでは?」


『理屈としてはね。でも、商売は公平じゃないと。』


 軽やかな声がそう返す。


『吾が損をする取引なんて、面白くないだろ?』


「……では、何をお望みなのですか?」


『簡単なことさ。』


 青緑色の風が、ぴたりと一瞬だけ静止する。


『これから先、君が得るすべての喜びを、吾がもらう。』


 フレイヤは言葉を失った。


「……期限は?」


『扉が閉じた瞬間から、君が死を迎えるその時まで。』


「それは……二度と喜びを感じられなくなる、という意味ですか?」


『そう。そういう喜びは全部、自動的に吾のものになる。』


 どこか含み笑いを帯びた声が続ける。


『そして、そんな君がどれほど生きていられるのか……それはまた、別の面白い問題だな。』


 その無邪気で、あまりにも残酷な口調に、フレイヤは思わず身震いした。けれど、その震えさえも、風に満ちた喜悦によって、すぐにかき消されてしまう。


「……本当に、恐ろしいお方ですね。」


『そうかな?吾としては、なかなか創造的だと思ってるけど。』


 フレイヤは、かつて母から聞いた話を思い出していた。前代のクネイトが四風にシルシを託した際、彼らはそれぞれ異なる代価を要求したという。


 今回、デライは気まぐれに条件を変えたが、交渉の余地がないことは明白だった。十年前、数十人の命を犠牲にしてシルシを取り戻したことを思えば、今回の代価は、まだ軽い方だ。


「……分かりました。受け入れます。」


 そう口にした瞬間、フレイヤは脳裏にウィンデルの顔が浮かび、苦く微笑んだ。


 いつか、この選択が原因で、あの人は私の元を去るのかもしれない……


『喜びを失うことを選ぶなんて。やっぱり人間って生き物は理解できないな。』


 どこか呆れたように言ってから、デライは続けた。


『まあいい。取引成立だ。』


 その言葉と同時に、青緑の海が激しく揺れ動き始める。フレイヤは、いよいよ代価を取り立てられるのだと思ったが、次の瞬間、デライは楽しそうに笑い出した。


『くくく……本当に来たか。』


 来た?何が?


 意味が分からないままのフレイヤに、突如として、別の圧倒的な力が降り注ぐ。しかもその感覚には、覚えがあった。


『やっぱり人間は面白い。あいつと張り合うのも、久しぶりだな。』


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ウィンデルが突然手を離したことに気づき、エルは目を開いて彼を見上げた。


「どうした?もう聞くのはやめか?」


「……どうして、そんなに平然としていられるんだ。」


「じゃあ、どんな反応を期待してる?僕の使命は、あくまで歌い手を補佐することだけだ。」


 相手の変わらぬ落ち着いた態度に、ウィンデルの胸中で怒りが燃え上がる。


「使命?あんたたち、頭の中どうなってるんだ。自分の意志ってものはないのか?」


「僕の意志は、使命に従うことを選んだ。それはフレイヤも同じだ。」


「恥ずかしいと思わないのか!」


 ウィンデルは声を荒げた。


「使命だの責任だの、そんなくだらないものを毎日刷り込むから、フレイヤは今みたいになったんだ!」


「違う。あの子は元々、責任感の強い子だ。誰に言われなくても、自分の果たすべき義務は理解している。」


「それは、彼女の義務なんかじゃない!」


「いや、そうだ。生まれた時からな。」


 怒りに任せ、ウィンデルはエルの胸倉を掴み上げた。その瞬間、彼の傍らに淡くて赤い光が揺らめく。


「もう話す気はない。儀式を中止する方法を教えろ。」


「はっ。僕が素直に答えると思うか?」


 エルは鼻で笑った。


「歌い手であるフレイヤにはシルシを取り戻す使命がある。和者である僕には、それを完遂させる義務があるんだ。」


 ウィンデルは冷たい視線を向けると、掴んでいた手を離し、そのまま強く突き飛ばした。不意を突かれたエルは、地面に尻もちをつく。


「……あんたはいい人だと思ってた。でも結局のところ、クリストと同じだ。」


「……どういう意味だ?」


「分からないのか?あんたたちは皆、フレイヤの強すぎる責任感を利用して、自分たちみたいな無能な大人の代わりに、一番危険な役目を押し付けてるだけだ!」


 その言葉に、エルの中で確かな怒りが湧き上がった。


「我々のことを、分かったつもりでいるのか?」


「分かる必要なんてない。見れば、君たちが何をしているかくらい分かる。」


 エルは乾いた笑いを漏らし、ゆっくりと立ち上がった。


「なるほどな。君はやっぱり父親そっくりだ。思い上がりが強すぎる。」


「……もう一度言ってみろ。」


 ウィンデルの声音は氷のように冷え切っていたが、その周囲では、先ほどまでかすかだった赤い光が、次第に激しさを増していた。


 それに気づいたエルは、ますます皮肉を込めて彼を嘲った。


「聞いたことがあるぞ。君の父親は王家に逆らおうなんて妄想を抱いて、捕らえられた挙げ句、衆目の前で処刑されたんだろ?


 それで、役立たずの息子である君も、父親を救おうとしながら、結局は何もできず、ただ呆然と見ていただけ……ははっ、笑わせるな!


 まさに蛙の子は蛙だな。親子揃って、夢ばっかり見てられる無能の塊だ!」


「今すぐ……その言葉を撤回しろ!」


 怒りに燃え、今にも火を噴きそうなウィンデルの双眼を見て、エルは冷笑を浮かべた。


「どうした、不服か?なら証明してみせろよ。儀式を止められる力が本当にあるってことをな。口先だけじゃないってところをさ!」


「言われなくてもやる!」


 怒号とともに、赤い風が一気に膨れ上がり、ウィンデルの周囲を渦巻いた。それは炎の環のような幾重もの気流を形作っていた。その光景に、誰もが息を呑む。


 広場へと向き直り、一歩踏み出すごとに、燃えるような気流はさらに激しさと輝きを増していった。その様子を見つめながら、エルの口元に満足げな笑みが浮かぶ。


「……やっぱりな。これが君の狙いだったんだ。」


 声をかけられ、エルが振り向くと、いつの間にかグレイスが隣に立っていた。


「気づいたか?」


「ええ。付き合いの長さを甘く見ないで。どう考えても、あの子をわざと挑発して、ラゴンを引き寄せたんでしょう。フレイヤのためとはいえ……ずいぶん手の込んだことをするわね。」


 グレイスの声に滲んだ棘を聞き取って、エルはからかうように言った。


「なんだ、嫉妬か?」


「……」


 相手が照れ屋だと分かっているエルは、くすりと笑い、それ以上は突っ込まなかった。


「正直に言うとね。これには、少しだけ私情も混じっている。」


「まさか……予言を覆したい、と?」


「それも一因だ。でも正確には、あの二人に、僕たちの代わりをしてほしいんだ。」


「代わり……?」


 グレイスが困惑した表情を浮かべると同時に、ウィンデルが右手を高く掲げた。その動きに呼応し、炎の環は形を変え、赤い霧が凝縮されたかのような長槍へと姿を変える。


 その光景を見つめ、エルは感慨深そうに息を吐いた。


「たぶん、僕は後悔しているんだ。だからこそ、あの子たちには、僕たちが抗うことを諦めた運命に挑んでほしい。」


「……そう」


 複雑な思いを胸に、グレイスはウィンデルへと視線を移し、次いで、広場の中心で微動だにしない少女を見つめた。


「でも……運命が、あの子たちを見逃してくれるとは思えないわ。」


 その言葉を否定するかのように、運命さえも貫きそうな赤の槍が、青緑の海へと突き立てられた。


 次の瞬間、激しい衝撃が走り、大地が大きく揺れ動く。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ウィンデルは、ラゴンによって形作られた長槍を手に、広場へと足を踏み入れた。雪白の石板に足が触れた途端、緑の風が四方から押し寄せ、侵入者を排除しようと襲いかかる。


 理性を失いかねないほどの怒りに必死に耐えながら、ウィンデルは長槍を振るい、円を描くように薙ぎ払って、ひとまずデライを押し退けた。


 今の彼にある目的は、ただ一つ。


 フレイヤを目覚めさせること。


 デライがどのように代価を回収するつもりなのかは分からない。だが、それが始まる前に、フレイヤとデライの繋がりを断ち切れれば、儀式は中断されるはずだ。


「フレイヤ!聞こえるか!」


 叫びながら中央へと進むウィンデル。しかし、デライも易々と道を譲る気はなかった。


 青緑の風は波濤のように次々と押し寄せ、突き払い、断ち切ってもなお、中心へ近づくほど抵抗は増していく。


 デライの圧倒的な力に対抗するため、ウィンデルは怒りを鎮めないよう、何度も心を掻き立てる記憶を呼び起こした。


 彼はすでに直感的に理解していたのだ。ラゴンの力を引き出すのに必要なのは、腕力ではない。純粋で、激しい怒りなのだと。


「ラゴンを操る人間を見るのは……初めてだ。」


「それどころか、デライと拮抗しているぞ……!」


 緑の風に抗うウィンデルの姿に、広場を囲む人々は言葉を失った。


 ナイヴは胸の前で手を固く握りしめ、かつてフレイヤから話を聞いたことはあっても、実際にウィンデルがラゴンを駆る姿を見るのは初めてだった。


 だが、驚き以上に彼女の心を占めていたのは、その疲労と苦痛に歪んだ表情だった。


「グレイド様、どうか……二人とも、無事でいられますように……」


 見ているだけでも、彼がどれほど追い詰められているかが伝わってくる。


 一歩進むごとに動きは鈍くなり、長槍に絡みつく緑の風の糸は増えていく。まるで、巨大な糸の塊を必死に解こうとしているかのようだった。中心へ近づくほど、その無数の糸は、より強固に、より密に絡み合っていく。


 誰もが、ウィンデルがデライの嵐のような猛攻に耐えきれなくなる――そう思った瞬間、少年は大きく息を吸い込み、赤の槍を高く掲げ、豪快な横薙ぎを放った。覆い尽くす緑風を再び切り裂き、全身全霊を込めて叫ぶ。


「この馬鹿野郎!どうして分からないんだ!」


 しかし、固く目を閉じたままのフレイヤは、その叫びに何の反応も示さなかった。その光景を目にして、ウィンデルは思わず力が抜け、膝をつきそうになる。


 あと五メートル。しかしそのわずか五メートルが、彼には地の果てのように遠く感じられた。


 すでにウィンデルは、直感的に理解していた。自分の力だけでは、決してデライの防御網を突破できない。ただその場に立っているだけでも、全力を使い果たしているような感覚だった。


 ウィンデルは再び赤の槍を振るい、力任せに薙ぎ払う。しかし今度は、裂け目一つ生まれない。絶望が胸に広がるのと同時に、手にした長槍は、さらに重さを増していった。


 ダメだ。このままじゃ……


 ほとんど諦めかけたとき、正面から押し潰すようにかかっていた圧力が、ふっと弱まった。


 よく見ると、彼を阻んでいた緑の風の半分ほどが、フレイヤの白衣へと吸い寄せられ、ゆっくりと染み込んでいく。


 代価を、取り立てるつもりだ。


 そう悟ったウィンデルは、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「フレイヤ!目を覚ませ!」


 だが、少女の眉一つ、ぴくりとも動かない。


 もはや猶予はなかった。ウィンデルは残されたすべての意志を槍先に集中させ、盾のように展開する青緑の風へ、渾身の一突きを放つ。


 槍を突き進めるたびに、何枚もの強靭な布を突き破ろうとしているかのような、重く粘つく感触が伝わってくる。


 一層貫くごとに、槍の勢いは確実に削がれていった。そしてついに、槍は完全に止まり、不自然なほど宙に浮いたまま静止する。


 ウィンデルは力尽き、地面に膝をついた。両手を滑らかな石板につき、頭も重く、断続的な激痛が走っていた。そのとき、不意に脳裏、どこか聞き覚えのある声が響いた。


『それが、お前の全力か?また一番嫌いな運命に、負けるつもりなのか?』


 もはや、それが誰の声なのか判別することすらできなかったが、それでもウィンデルはわずかに気力を取り戻す。そして残された最後の力を振り絞り、声の限りに叫んだ。


「フレイヤ!もう一度だけ聞く!僕の知っているフレイヤにとって、『ミスリ』という苗字は、そんなに大事なものなのか!」


 その言葉が放たれた刹那、世界は完全な静寂に包まれた。


 海のざわめきも、人々の息遣いも、彼を阻んでいた緑の風の唸りさえも、すべてが消え去る。だが、その静寂の中で、彼が最も聞きたかった声だけは、ついに届かなかった。


 ウィンデルは力なく頭を垂れ、再び、自分の無力さと臆病さを呪った。


 なぜ、こんな時になって、こんな質問をしてしまったのか。本当は、もっと大切なことを伝えたかったはずなのに……


 悲しみが胸に溢れた瞬間、赤紅の槍は跡形もなく霧散した。ウィンデルは震える唇を開いたが、本当に言いたかった言葉は、胸の奥で静かに反響するだけだった。


 残ってほしい。お願いだから、行かないでくれ。


 吹雪の夜、毛布にくるまりながら窓の外の雪を眺めていた時も、夏の日差しが眩しい晴天の下、風に揺れる広大な草原で父の背中が遠ざかっていったあの日も、同じ言葉を思い浮かべていた。


 そして最後に、身動き一つ取れないまま、二人の兵士が槍を構えて父へと歩み寄っていったその瞬間でさえも……心にあったのは、やはりこの言葉だった。


 行かないでくれ。


 どうしてだろう?僕はただ、単純に願っていただけなのに……


「ウィンデル」


 不意に、聞き慣れた声が現実へと引き戻す。茫然と顔を上げると、緑の風の中に佇む白衣の少女が、こちらを見て微笑んでいた。


 それは覚悟を決めた者の、けれど、どうしても拭いきれない悔いを宿した笑みだった。


 お願いだ。そんな顔で、笑わないでくれ。


「さっきの質問だけど……私の答えは変わらない。ごめん。でもね、ありがとう、ウィンデル。あなたは、私を一人の『普通の女の子』として見てくれた。本当に、あなただけだった。」


 そう告げると同時に、フレイヤの頬を二筋の涙が伝う。次の瞬間、彼女の白衣から淡い青の霧が溢れ出し、ウィンデルの前に立ちはだかる緑の風と溶け合い、天へと昇る激しい気流へと変わった。


 その気流が空中で次第に薄れていくのを見つめながら、ウィンデルの胸には、底知れぬ絶望が広がっていく。


 それが、何を意味するのか――彼には痛いほど分かっていた。


 これで、フレイヤはもう振り返らない。自分のものではない責任を背負い、前だけを見て、歩いていくのだ。


 どうしてだ……どうして、僕の祈りは誰にも届かない?どうして、大切な人はいつも、僕の元から去っていく?


 意識が次第に遠のく中、消えゆく緑の気流から、誰かが呟くような声がかすかに聞こえた気がした。


『気づきなさい、小娘よ。君が本当に失ったものは何か、そして、失っていないものは何かを……』


 それはどういう意味だ?まあ、どうでもいいや。


 結局、残されたのは――


 いつだって、僕一人なのだから。


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