74 デライ
「君も感じ取ったのか?」
「当たり前だろ。」
老人のぶっきらぼうな返答にも、クリストは特に気を悪くした様子はなく、ただ小さく呟いた。
「……あの子、ちゃんと辿り着いたみたいね。」
「どうしてデライが現れただけで、ウィンデルがもう到着していると判断できる?」
「エル一人じゃ、フレイヤの心の壁を越えさせられないと思うわ。」
「彼女が、自分の力で影を抜け出す可能性は?」
クリストは静かに息を吐いた。
「もしそれができるなら、私は十年も待つ必要はなかったわ。」
その言葉を耳にした瞬間、モーンの胸に、得体の知れない不快感が広がった。
「つまり君にとって、ウィンデルは娘が心の闇を乗り越えるための道具に過ぎないということか?」
「一部は、ね。否定はしないわ。」
「では、フレイヤは?」
「……どういう意味ですか?」
「とぼけるな。君なら分かっているはずだ。君にとって娘も、デライを呼び出すための道具なのか?自分では成し得ないから?」
「では、他に誰に歌わせるべきだと?私たちの中で、無垢な喜びを歌える者が、まだ残っているとでも?」
「我々には無理でも、これまでの年月で導き手に素質ある奴が一人も現れなかったってのか?」
クリストは苦く微笑んだ。
「仮にいたとしても、十年前、フィルの大斧の前で命を落としています。まさか、そのことをお忘れではありませんよね。」
モーンは言葉を失い、しばらく呆然とした後、深く刻まれた皺だらけの両手で顔を覆った。長い沈黙が、二人の間に横たわる。
やがて、クリストは窓の外に視線を向け、そっと溜息をついた。
「……あなたなら、私の決断に賛成してくれると思っていました。」
「反対はせん。だが、賛成とも言えん……正直なところな。」
指の隙間から漏れるモーンの低い声には、濃い疲労が滲んでいた。
「気持ちが、どうにも割り切れんのだ。」
「……」
「君が、あの忌まわしい誓約に再び挑むと聞いた時な。嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。なぜ嬉しいのかは言うまでもないが……悲しい理由も、君なら察しがつくだろう。」
「……エルたちのことですね。」
「そうだ。あの子たちは、いずれ必ず歌によって命を落とす運命だと分かっていても、それでも一日でも長く生きてほしいと願ってしまう。なにしろ、この社会は……あまりにも彼らに冷酷すぎる。」
「……誰かが、やらなければならないこともあります。」
「分かっている。だがな、あの子たちは、こんな理不尽な世界で大切なものを奪われても、悔いのない笑顔で別れを告げてくる……それが一番胸を締めつける。
最近、彼らの最後の笑顔を思い出すたびに……わしは……」
かすかに震えるモーンの声を前に、クリストは何も言わず、沈黙を選んだ。
「そして最近、ウィンデルがフレイヤを止めに行くと言い出してから、わしの中の迷いはさらに深まった。」
「あの予言を思い出されたからですか?」
モーンはゆっくりと首を振る。
「違う。あの子と過ごすうちに分かったのだ。ウィンデルは、とても孤独な子だ。」
「……どういう意味です?」
「私から話しかけでもしなければ、あの子は一日中ほとんど口を開かん。用件がなければ、何日も一言も発しないのではないかと、疑うほどにな。」
「それは、寡黙な性格というだけでは?」
「それも違う。あれは、孤独に慣れすぎているのだ。」
クリストは納得いかない様子で眉をひそめた。
「無口だからといって、孤独とは限らないでしょう。」
「承知している。だが、あの子は単に人付き合いが苦手なだけではない。ウィンデルは……孤独があの性格を形作り、そしてその性格が、さらに彼を孤独にしている。」
「なぜ、そこまで断言できるの?」
「リヴィアスの小僧に襲われた話は覚えているな?」
クリストは小さく頷いた。
「ええ。」
「怪我をして高熱にうなされていた二日間、あの子が夢の中で、繰り返し口にしていた言葉を知っているか?」
「そんなこと、知るわけ……」
「『父さん』だ。」
その一言に、クリストは思わず顔を背けた。しかし、それでも老人の声は耳から逃れてはくれない。
「彼が目を覚ましたその日、何気なく過去の話をしてみた。あまり語りたがらなかったが、それでも断片的な情報だけで十分だった。
ウィンデルはな……子どもが最も親を必要とする時期を、ずっと一人で過ごしてきた。」
「……長々と語って、結局何が言いたいの?」
苛立ちを滲ませて老人を見るクリストの視線を、モーンは強い責めの色を帯びた眼差しで受け止めた。
「何が言いたいかなど、君が一番分かっているはずだ。今、ウィンデルが心から自然体でいられる相手は、フレイヤしかいない。
理由は分からん。二人とも聡明だからかもしれんし、大切な者を失う痛みと孤独を知っているからかもしれん。だが理由が何であれ、事実は一つだ。
我々臨界者は、あの子から父親を奪い……そして今度は、彼が本当に大切にしている存在まで奪おうとしている。」
「フレイヤは……無事に戻ってきます!」
「問題はな、その時に戻ってくる少女がまだ本来のフレイヤなのか?」
クリストは愕然と目を見開き、言葉を詰まらせた。
「どう……どうして……」
モーンは静かに視線を返した。その老いた双眸には、すべてを見通してきた者だけが持つ、深い諦観が宿っていた。
「リス。まさか、わしが何も知らぬとでも思っていたのか?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
歌声が途切れたその瞬間、青緑色のリボンのような風が、空から一斉に噴き出した。
制御を失った風は四方八方へと荒れ狂い、檻を破って飛び出そうとする猛獣のように広場の外へ突進する。
しかし境界を越えようとした刹那、見えない壁にぶつかったかのように、ぴたりと弾き返された。
その光景が何度も繰り返され、やがて風は諦めたように大人しくなり、エルたちもようやく大きく息をついた。
なるほど。和者の役目の一つは、この緑の風を広場の中に縛り留めること、というわけか。
そう考えながら、ウィンデルは広場の縁に立つナイヴのもとへ歩み寄った。
青緑の風が現れた途端、彼を拘束していた風牢は一瞬で消え去った。だが、それもフレイヤの想定内だったのだろう。
今や自由に動けるとはいえ、すでに始まってしまった儀式を止める術など、ウィンデルにはない。
風の中心に立つフレイヤを見つめ、思わず手を伸ばす。しかし指先が広場の境界を越えた瞬間、強大な力に弾き飛ばされた。
その一触で、彼はこの緑の風の正体を理解した。
喜びを司る四風、春のデライ。
ほんの一瞬触れただけで、風に満ちる喜びがどれほど純粋で激しいものかがはっきりと伝わってくる。理由もなく、ただ叫び出したくなるほどの高揚感。
つまり、こんな風に長時間晒されれば、普通の人間なら正気を失ってもおかしくない。
……こんな存在を前にして、本当にフレイヤは無事でいられるのか?
胸の奥に不安が渦巻いたとき、ナイヴがこちらを振り返る。
「さっき、フレイヤと何を話してたの?」
「……特に、何も。」
「じゃ、私にも教えてくれたっていいでしょ……」
小さく不満をこぼし、反応のないウィンデルに、ナイヴは思わず溜息をついた。
「……説得されたの?」
「まさか。ただ、どうすれば儀式を止められるのか分からないだけだ。」
「さっきサロを消した方法は使えないの?」
「あの琥珀色の風ってこと?無理だ。あれはフレイヤの意志で現れたわけじゃない。制御を失った時の、強すぎる悲しみに引き寄せられただけなんだ。」
「……つまり?」
「だから、フレイヤが正気を取り戻せば、悲しい感情が消えて、自然と去っていった。でも今のデライは、フレイヤ自身の意志で召喚された。そんな簡単に消えるはずがない。」
「そうなんだ……で、そういうこと、モーン様に教わったの?」
その問いに、ウィンデルはわずかに目を見張った。
あれ?どうしてこんなこと知ってるんだ?
「いや……教わったっていうより……直感、かな。」
その時、少し離れた場所から、拍手の音が聞こえてきた。二人が振り向くと、エルが感慨深げな表情で手を叩いている。
「直感だけでそこまで理解するとは……実に恐ろしい才能だね。」
相手がのんきに話しかけてくるのを見て、ウィンデルは思わず眉をひそめた。
「……儀式はまだ続いてるんだろ? そんな余裕があって大丈夫なのか?」
「心配いらない。一度抑え込んだおかげで、デライはもう落ち着いている。今はフレイヤと交渉の真っ最中さ。」
「交渉?何の?」
「決まってるだろ。シルシについてだよ。」
ナイヴは広場の中央で微動だにしないフレイヤを、訝しげに見やった。
「でも……何も聞こえないけど?」
エルは肩をすくめて笑う。
「そんな簡単にデライと話せるなら、歌い手なんて必要ない。異界の風を呼び出した歌い手だけが、四風と直接言葉を交わせる。僕ら和者は、せいぜい会話を聞き取れる程度さ。」
それを聞いたウィンデルは、はっとしてエルに歩み寄った。
「聞こえるのか?なら、何を話しているのか教えてくれ!」
「……本当に知りたい?」
「もちろんだ。」
エルは肩をすくめ、左手を差し出した。その仕草に、ウィンデルは戸惑う。
「……どういう意味だ?」
「手を取れ、ってこと。和者が協力する意思を示せば、儀式に直接参加していなくても、四風の声を聞ける聞き手もいる。君なら……たぶん大丈夫だ。」
差し出された手を見つめながら、なぜかウィンデルは躊躇した。
今この瞬間が、取り返しのつかない別の選択肢を示している――そんな予感が胸をよぎる。この手を握ってしまえば……
迷いを察したのか、エルは静かに言った。
「無理強いはしない。ただ、一つだけ考えてほしい。真実を聞いて後悔するか、それとも真実を聞かなかったことを後悔するか、だ。」
「……真実……」
その言葉で、ウィンデルは今朝出発前に『兆』を使った時のことを思い出した。
良くも悪くもない予感。ただ、謎めいた二つの言葉が脳裏に浮かんだだけ。そのうちの一つが――
『嘘の中には、いつも真実が隠されている』
その記憶を胸に、ウィンデルは決意を固め、エルの手を強く握った。
「……後悔しない選択肢って、ないのか?」
決して笑い話ではないはずなのに、エルはそれを聞くなり、声を上げて笑った。もしかすると、これもデライの影響なのかもしれない。
「あるかもしれないね。でも、それを見つけるのは君自身だ。」
ウィンデルは小さく頷き、目を閉じた。すると次の瞬間、脳裏に――フレイヤの聞き慣れた声が響き渡った。




