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72 意外な遭遇

 春分当日の早朝、フレイヤと和者たちはすでに広場に待機し、季節風が転じるその瞬間を、息を詰めて待っていた。


 風向きが切り替わる正確な時刻は誰にも予測できない。今の彼女たちにできることは、ただ静かに待ち続けることだけだった。


 神殿広場の一角で静かに座っていたグレイスは、フレイヤの表情がひどく強張っていることに気づき、反対側にいるエルへ、彼にしか届かない風語を送った。


「ねえ、フレイヤは本当に大丈夫なの?」


 ほどなくして、わずかな風に乗って、苛立ちを含んだエルの声が返ってくる。


「放っておけ。」


「昨夜、ちゃんと説得したんでしょう?結果はどうだったの?」


「……あの子の心の傷は、思っていたよりもずっと深かった。僕には、彼女のわだかまりを解いてやれなかった。」


「それでも、最後まで支えてあげるべきじゃない?フレイヤは、あなたにとって姪みたいな存在でしょう?」


「……」


 返事がないのを見て、グレイスはさらに語気を強める。


「そうじゃない?」


「わかった、わかったよ。」


 エルはどこか諦めたようにそう返し、フレイヤへと声をかけた。


「姫ちゃん、肩の力を抜け。緊張しすぎだ。」


「そんなの、分かってます!でも……」


 言いかけたところで、フレイヤはふっと言葉を止め、ほかの和者たちへ気まずそうな視線を向けた。


 言いたくても言えない、そんな様子を察したエルは、風に紛れる細やかな囁きを彼女へ送る。


「今でも、歌を使うことには賛成してない。でも、それでも僕は君の和者だ。何か困ってることがあるなら、みんなの前で言いにくいことでも、遠慮なく僕に言え。」


 フレイヤは半信半疑の表情で彼を見つめ、少し迷った末に、ようやく心を開いて風語を返した。


「デライを呼び出すには……楽しい気持ちを保たなきゃいけないんですよね?」


「その通りだ。喜びを歌声に込める必要がある。しかも、それは偽りのない、本当に強い喜びじゃなきゃ、春分点の扉は開かない。」


「でも今は、どうやったら楽しい気持ちになれるのか、全然分からなくて……」


 風語に滲むかすかな無力感を感じ取り、エルは少し考えてから確認する。


「緊張してるから、か?」


「たぶん……それじゃないです。」


「なら話は簡単だ。楽しかった記憶を思い出せばいい。」


「記憶?」


「そうだ。心から幸せだと思えた瞬間を探すんだ。そして今この瞬間、自分がその時の中にいると想像してみろ。」


 フレイヤは目を閉じ、長い時間考え込んだ。だが、最後に心から楽しいと思えたのがいつだったのか、どうしても思い出せない。


「エル……本当の幸せって、どういうものなんですか?」


 あまりにも突飛な問いに、エルは一瞬、笑いそうになった。だが、フレイヤの表情があまりにも真剣なのを見て、その笑みはすぐに消えた。


「……本気で言ってるのか?」


「今そんな冗談を言うように見えますか?」


「……」


 この年頃の少女が、「幸せが分からない」と言うなんて。この数年、彼女の胸にのしかかってきた罪悪感は、一体どれほど重かったのだろう。


 そう思い至り、エルは重いため息をついて、再び風語を送った。


「姫ちゃん。人は本当に幸せを忘れたりしない。特別に気が抜けて、自然体でいられて、できることなら永遠に続いてほしいと思えた時間――それが、幸せだ。」


「……そう、なんですね。」


 不思議なことに、エルがそう言い終える前から、フレイヤの中には答えが浮かんでいた。


 それは、特定の時間ではなかった。彼女が思い出したのは、ある人だった。


 すでに自分は諦めてしまったのに、それでもなお運命に抗い続ける、誰か。


 理由は分からない。けれどフレイヤの胸には、言葉にできない期待がふっと芽生えていた。その感情に導かれるまま、彼女は目を閉じ、最も愛する魔法の言葉を、そっと口にする。


 風よ、どうか我が心の奥へ。


 数秒後、風は二つの謎めいた予感を運んできた。


 一つ目は、『嘘の中には、いつも真実が隠されている』。


「風向きが変わり始めたわ、フレイヤ。」


「大丈夫です。準備はできています。」


 マーガレットの呼びかけに短く答えたあと、なぜか胸騒ぎを覚え、フレイヤは神殿の入口の方へと振り返った。当然、長い回廊には誰の姿もない。


 わずかな寂しさを覚えながら前を向き、サファイアのように広がる無限の海を見据える。


 私は、もうそんなとき、何を期待しているんでしょう?


 二つ目の予感も、そう告げていただろう。『微笑みは、必ず涙を伴うものだ』。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 春分の日、南東の無尽の海から吹き寄せる風は、本来であれば大量の水気を含み、海のホールと呼ばれる神殿を通り抜け、人口の密集するスモウ川流域を越え、幾重にも連なる大東山脈を執念深く乗り越え、やがて初夏、農家たちを恐怖させるフェーンとなって、ふもとの平野の南東部を席巻するはずだった。


 本来なら、そうなるはずだったのだ。


 だが今回は、広大な海を越え、ようやくこの地に辿り着いたはずの南東季節風は、七人の雪白のローブをはためかせたかと思うと、次の瞬間には跡形もなく消え失せてしまった。


 この異変は、ただ一つの歌によって引き起こされたに過ぎない。


「♪~ああ、吐いた息が白く消える


 まるで世界の果てまで一緒に来てくれた君を悼む


 青い瞳の少女よ


 わたしの悔恨は、君に届くだろうか


 果てない白昼の悪夢は


 終わりなき冬の


 絶望的な永夜のようだ……」


 余韻を残すメゾソプラノが最後の旋律を歌い切り、静かな休止符を刻んだ瞬間、フレイヤは力尽きたようにその場へ崩れ落ちた。


「どうして……」


 全ての精神力が、空気に溶けた歌声とともに吸い尽くされたのをはっきりと感じているにもかかわらず、儀式は成功しなかった。


 フレイヤは重たい身体を引きずるようにして顔を上げ、半空を見つめる。


 確かに南東風は止んでいる。空気の奥では、今にも扉を突き破ってこちらの世界へ現れそうな、膨大な力がうごめいているのも分かる。


 それでも、ほんの、わずかに足りなかった。扉は開かず、デライが現れることもなかった。


 フレイヤは下唇を強く噛みしめ、悔しさを隠そうともせずに言った。


「エル……どうして、デライは私の呼びかけに応えてくれなかったんですか?」


「その答えは、君自身が知っているはずだ。さっきの歌を吟じていたとき、君は何を考えていた?」


 エルの厳しい視線にさらされ、フレイヤは気まずそうに視線を逸らす。


「わ、私は……あなたの言った通り、楽しい気持ちを必死に想像してました!」


「ほう?本当にそうか?じゃあ、ここにいる連中に聞いてみるか。君の歌から、そんな感情を感じ取れた者がいたかどうか。マーグ、どうだった?」


「まったく感じませんでした。」


「タフ、お前は?」


 タフは落ち込んだフレイヤをちらりと見て、わずかに眉をひそめる。


「そこまで露骨に彼女の自信をへし折る必要はないだろう。」


「 『感じたかどうか』を聞いている!答えろ!」


「……俺も感じなかった。」


 エルは静かにうなずき、鋭い視線をフレイヤへ突き刺した。


「どうだ?まだ聞き続ける必要があるか?それとも、もっとはっきり言ってやろうか。


 フレイヤ――君の心に、ほんの少しでも罪悪感が残っている限り、デライを呼び出すことは決してできない。


 これは普通の歌じゃない。異界へ通じる門を開く儀式だ。そんな中途半端な覚悟のままなら、今すぐ諦めた方がいい。」


「……つまり、楽しい気持ちが強ければいい、ということですよね?」


「『強い』だけじゃ足りない。絶対的に、純粋でなければならない。」


「……分かりました。」


 フレイヤは歯を食いしばり、ふらつきながらも立ち上がった。和者たちはその姿を見て、思わず顔を曇らせる。


 歌を誰よりも理解している彼らだからこそ、この術が施術者にどれほど重い負担を強いるのか、痛いほど分かっていた。


 グレイスが堪えきれずに声をかける。


「フレイヤ、あなたはまだ若いのよ。今、そこまで無理をする必要はないわ。」


「ありがとうございます。でも……この機会を逃すわけにはいきません。」


「どうして?今回やめたとしても、来年また挑めばいいじゃない。」


「それでは、遅すぎるんです。来る途中で耳にした噂、覚えていますか?」


 グレイスは少し考え込み、困惑した表情で言った。


「二人の王子に関する噂のこと?どうして、今それを……?」


 フレイヤは周囲を見回し、ほかの和者たちも同じように首をかしげているのを確かめてから、ゆっくりと説明を始めた。


「合衆国の王室が王位争いで混乱すれば、たとえテレニであっても、二人の王子に所属する派閥を協力させるのは難しいはずです。


 大兵力を抱える領主たちが足並みを揃えなければ、合衆国は他国への侵攻を続けることもできない。そうなれば、歌の力を使う必要もなくなります。」


「でも、もしどちらかの王子が、もう一方に対して歌の使用を求めてきたら?」


「その可能性は低いと思います。テレニが本気で二人の息子に実力で継承権を争わせるつもりなら、一方にだけ歌という圧倒的な力を与えるはずがありません。


 つまり、王位争いが決着するまでは、王室が誓約の権利を行使しない可能性が高い、ということです。」


「そうなれば……」


「そう。最短で一年、長ければ三年。時間を稼げます。歌い手が一年に一度しか歌を使えないことを考えれば、今こそが、シルシを取り戻す最良の機会なんです。」


 その分析を聞き終え、マーガレットが思わず感嘆の声を漏らした。


「噂を聞いただけで……そこまで考えていたなんて。」


 それはマーガレットだけではなかった。他の和者たちも、驚きと敬意が入り混じった視線を、この美しい少女へと向けている。


「……さすが、クネイト様の娘ね。」


 その言葉に、フレイヤはかろうじて微笑みを浮かべた。褒め言葉だと分かっていても、胸の奥は少しも晴れなかった。


 母は確かに聡明だ。けれど、自分は母と同じようにはなりたくなかった。


 そのとき、エルが口を挟んで会話を遮った。


「無駄話はそこまでだ。姫ちゃん、やると決めたなら急げ。多く見積もっても、残りの機会はあと二回だ。次の二度の歌が失敗すれば、君がどう思おうと、来年まで待つしかなくなる。」


「……すぐに始めます。」


「忘れるな。楽しい気持ちを保て。 できるだけ一度で成功させろ。でないと、身体への負担が大きすぎる。」


「分かっています。」


 白い広場の中央に、風を正面から受けて立ち、フレイヤは大きく息を吸い込んだ。


 広大な蒼の海を真正面に見据え、今度は迷うことなく、胸の奥から自然と溢れ出した旋律を歌い上げる。


「♪~高くそびえる木々は身をかがめ


 かつて青い渓流の上で


 茶と緑のトンネルを織り成す」


 ああ、これが結局は自分の独りよがりだとしても……どうか、彼にも届いてほしい。


 自分の歌声が、ただ一人のためだけに紡がれたこの低吟が。


「――緑深き古の小径よ


 わずかな涼風が


 そっと吹き抜け」


 運命を恐れぬあの少年は、今どこにいるのだろう。きっと、あの強風に囲まれた谷にいるに違いない。


 自分が必死に逃れようとし、それでもなお帰らざるを得なかった、定めの地に。


「――止まることを知らぬ時さえも


 ここでは思わず足を止め、戯れる


 あるいは


 外の世界で千年が過ぎようとも


 この地だけは変わらぬままなのだろうか」


 どうして、考えれば考えるほど、こんなにも胸が締めつけられるのだろう。


 このままではまた失敗するよ。でも、一体どうすれば幸せを感じられるの?


 本当に幸せを求めたとき、誰も私を見てはくれなかった。


 悲しみしか残っていなくなった今になって、人は私に笑えと言う。


 なんて、皮肉な世界なのだろう。


「――時を凍らせる魔法は

 この場所で ひそやかに……」


 最後の一節に差しかかった瞬間、フレイヤの喉が詰まった。涙がそっと目尻から溢れ、頬を伝い落ちる。もはや、次の言葉を紡ぐことはできなかった。


 和者たちは互いに視線を交わす。この様子では、三度目を試みたところで、結果が変わるとは思えなかった。


「フレイヤ、もう無理だ。今の君では、絶対に成功しない。」


 エルの忠告にも耳を貸さず、フレイヤはかすれた声で、再び歌い始める。


「♪~高くそびえる木々は身をかがめ……」


「姫ちゃん、やめろ!それ以上は無駄だ!」


 エルがそう叫んだ、その直後だった。タフが息を呑み、半空を指さす。


「おい……見ろ。」


 指の先に目を向けた和者たちは、琥珀色を帯びた風が、何もない空間から湧き出し、フレイヤの周囲を巡り始めているのを目の当たりにした。しかも、その勢いは刻一刻と増していく。


「くそっ……あの馬鹿な娘、サロを呼び出しやがった!」


 ステドの悲鳴とほぼ同時に、エルは暴走しかけたフレイヤを止めようと駆け出した。だが、二歩と進まぬうちに、琥珀色の風が容赦なく彼を弾き飛ばし、広場の縁へと叩きつける。


「エル!」


 タフとグレイスが慌てて駆け寄り、彼を支えた。立ち上がるや否や、エルは意識を集中させ、風の術で、四風の一つ――サロが形成した固い障壁を突破しようとする。


 だが、いくら呼びかけても、風は一切応えなかった。


 エルの困惑した表情を見て、グレイスはすぐに彼の狙いを悟る。


「無駄よ。四風が現れた瞬間、他の風はすべて消えるって、忘れたの?」


 エルは苛立たしげに頭を掻き、焦燥を滲ませる。


「だが、このままじゃ……ただ儀式が失敗する、なんて話じゃ済まない!」


「要するに、フレイヤを止めればいいんでしょう?」


 仲間の中に状況を把握していない者がいることに、エルは堪えきれず怒鳴りつけた。


「当たり前だろ!そんな簡単なら、俺はとっくに――」


 叫びかけたその途中で、エルは違和感を覚えた。


 ……待て。今の声は、誰だ?


 振り向いた視界に、ひときわ背の高い細身の影が映る。その人物は迷いなくフレイヤのもとへ駆け寄り、少女を包み込もうとする風の繭の手前で足を止めた。


 彼が低く何事かを呟いた次の瞬間、暗い黄の繭を形作っていた無数の風の糸が、ぴたりと動きを止める。


 その一挙手一投足に、六人の和者は信じられないという表情で目を見開いた。


 だが、驚きはそれで終わりではなかった。続いて放たれたその言葉が、はっきりと彼らの耳に届く。


「なあ。前にこの歌を歌ったときは、こんなに悲しそうじゃなかっただろ?」


 かすれた歌声が、途切れた。


 繭の中の少女は、ゆっくりと目を開いた。


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