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71 運命の真相

 海面から突き出た岩礁の上で膝を抱え、フレイヤは黒い波が何度も岩肌を叩くのを静かに見つめていた。やがて靴をそっと脱ぎ、白い足先を海へと浸す。


 冷たい潮が行き来しながら、ふくらはぎと足首を洗っていく感触に身を委ねつつ、彼女は思う。


 今の自分の心もまた、この終わることのない潮のように、寄せては返し、揺れ動いているのだと。


 欲望と責任のあいだで。真実と噓のあいだで。


 顔を上げて夜空を仰げば、無数の星々が、半分だけ姿を見せる下弦の月を囲むように瞬き、本来は闇に沈むはずの夜空を照らし出していた。


 その光景を目にした瞬間、フレイヤの脳裏に、幼い頃の記憶がふと蘇る。あまりにも鮮烈で――父の、あの優しくて低く落ち着いた声さえ、再び耳元に響いた気がした。


「お姫様、知ってるかい?星はね、一つ一つが別の世界を表しているんだってさ。」


 その言葉に、当時の自分がどれほど驚き、そして魅了されたかを、フレイヤは今でもはっきり覚えている。


 振り返ると、そこには父と、幼い自分の姿があった。二人並んで寝転び、夜空を見上げている。


 金色の髪をした無邪気な少女が、大きく澄んだ黒い瞳をぱちぱちと瞬かせ、目を丸くする。


「ほんとに?」


「もちろんさ。」


「じゃあ、どうしたらその世界に行けるの?」


 父は少女の頭をやさしく撫で、温かな笑みを浮かべた。


「残念だけど、人間の力じゃ、あそこまでは行けないんだ。」


「わたしたちでも?」


「行けない。」


「風乗りで、一生走り続けても?」


「一生どころか、何度生まれ変わっても、辿り着けないかもしれないな。」


 その答えに、少女は落胆と戸惑いを隠せない様子だった。


「どうして、そんなに遠いの?」


 父はしばらく考え込み、やがて静かに口を開く。


「正直なところ、パパにもわからない。でもね……あの世界があんなにも遠いのは、もしかしたら、人は死んだあと、そこで生まれ変わるからなのかもしれない。」


 少女は目を見開いた。


「死んだ人が、生き返るの?」


「ああ。だから神さまは、生きている人間が死んだ人を探しに行かないように、世界を遠く隔てたんだろうね。」


「じゃあ、どうして神さまは、星の光を見せるの?もし見えなかったら、あの世界があることもわからないのに。そうすれば、行こうなんて考えなくて済むのに。」


「それは違うよ。星が光るのは、神さまが見せたいからじゃない。」


「じゃあ、なに?」


 父は感慨深げに天を仰ぎ、ゆっくりと言った。


「もし、死んだ人たちが本当にあの世界で生きているなら……星の光は、きっとその人たちの想いなんだ。


 何百万、何千万もの想いが集まって放つ光なら、さすがの神さまでも止められないだろう。


 だからこそ、その強い想いは遠い時空を越えて、私たちが生きるこの世界にまで届いて、こうして瞬いているんだよ。」


 話を聞き終え、少女もまた、数えきれない星々を見上げた。


「……そうなんだ。」


 しかし、少女が物語に浸っていると、横から母が笑いながら口を挟む。


「お父さんの与太話なんて聞かなくていいのよ。星の光と想いなんて、まったく関係ないんだから。」


 容赦なく嘘を暴かれ、父は気まずそうに頭を掻いた。


「でもさ、リス。こういうほうがロマンチックだろ?」


「全然……」


「確かに、ロマンチックだと思う。」


 フレイヤがそう呟いた瞬間、母だけでなく、父と少女の幻影も、ふっと消え去った。


 一瞬きょとんとするも、それが幻想にすぎないことをすぐに思い出す。


 現実では、父は亡くなり、母の笑顔は失われ、あの無邪気な少女も、とうに大人になっていた。


 フレイヤは静かに息を吐き、天の川と細い月を見上げる。


 お父さん。あの星の光の中に、私への想いはありますか?それとも、別の世界で真実を知って、愚かな娘を責めているだけなのでしょうか。


 そんな思索に沈んでいたとき、背後から声がかかった。


「ネオのこと、考えてた?」


「……」


 声の主が誰か分かったからこそ、答えたくなかった。


「黙ってるってことは、肯定だよね?」


「勝手に決めつけないでくれる?」


 そう言うと、エルは口を閉ざし、しばらくしてから、ぽつりと続けた。


「……ネオの死を、まだ自分のせいだと思ってるんだろ?」


 心臓がつよく跳ね、フレイヤは勢いよく振り返る。


「どうして、そう思うの?」


 できるだけ平静を装ったつもりだったが、いつもよりわずかに高い声が、内心を雄弁に物語っていた。エルは苦笑し、軽くため息をつく。


「本気で、僕が何も気づいてないと思った?」


「……何のことか、わかりません。」


 エルはじっと彼女を見つめ続け、やがて視線を外して、闇に沈む海へと目を向けた。


「君は、僕を欺けない。もし僕にすら通じないなら……自分自身を誤魔化せるはずがない。」


「そんなこと……」


「十年前の冬、あれが初めてのバレリアンアレルギーだったわけじゃない。」


「……」


 フレイヤが黙り込むのを見て、エルは言葉を継いだ。


「子どもの頃にも一度、バレリアンで重いアレルギー症状を起こしたことがある。それ以来、僕は食事には人一倍気をつけてきた。


 だから、十年前のあの事故のあと、原因はすぐに思い当たった。あの朝、君の家で飲んだお茶だ。ただ、それでも腑に落ちない点があった。」


 そこまで言って、エルは一度言葉を切る。フレイヤは俯いたまま、まるで判決を待つ罪人のように身じろぎもしない。


 その様子に、エルは内心で小さく息をついた。


「ネオがそんなことをするはずがない。そもそも、彼は僕がバレリアンに弱いことすら知らなかった。


 それにクネイト様は、もともとネオが和者を務めることに反対していた人だ。僕に毒を盛む理由なんてない。


 そう考えると、残る可能性は一つしかなかった。案の定、遠回しに探りを入れたら、ネオはあのお茶を淹れたのが君だと教えてくれた。


 すぐにフローラにも確認したけど……予想どおり、君にバレリアンの薬粉を渡したって言ってたよ。」


「……そのあと、このことをお父さまに話したの?」


「話してない。でも、ネオは鈍くない。すぐに、あの出来事の原因に気づいた。」


「じゃあ、母もきっと……」


「さあな。ただ一つ確かなのは、ネオが君の母親にはこの件を伏せることを選んだ、ということだ。」


 そう告げると、二人のあいだに、再び長い沈黙が落ちた。


 エルは急いで口を開こうとはしなかった。


 乾いた干し草に火種を投げ込めば、煙だけで済むはずがないと、わかっていたからだ。


「……どうして?」


 案の定、先に耐えきれなくなったのはフレイヤだった。


「何が?」


 感情を抑えきれなくなり、彼女の声はいつの間にか高くなっていた。


「どうして……あなたも、お父さまも、誰も私を責めなかったの?」


「責める?ネオを心配して、あれほど尽くしたことを?」


 その瞬間、フレイヤの胸中は、後悔に押し潰されそうになっていた。エルが怒鳴りつけてくれたほうが、まだ楽だったかもしれない。それなのに、彼は決してそうしない。


 堪えきれず、彼女は十年ものあいだ心の奥底に封じ込め、自分を蝕み続けてきた言葉を、鋭く叫んだ。


「でも……私がお父さまを殺した!」


 言葉にした途端、罪悪感と苦痛と悲しみが入り混じった感情が、一気に胸に溢れ出す。エルは小さく息を吐き、彼女の隣に腰を下ろした。


「……やっと言えたね。」


「……」


「わかるかい?一番怖かったのは、君がそれを胸の内に押し込めたままでいることだ。そんな状態が続いたら、本当に心を病んでしまう。


 それに、姫ちゃん。君は父親を殺してなんかいない。それどころか、君は僕があの儀式に参加するのを止めた。結果的に、僕の命を救った可能性だってある。」


「そんなつもりじゃ……」


 言いかけて、フレイヤは言葉を詰まらせた。苦悶の表情を浮かべる彼女を見て、エルは柔らかな声で言う。


「わかってる。君が生き残ってほしかったのは、僕じゃなくてネオだったんだろう。立場が逆でも、僕だって同じことを思う。」


 答えられず、フレイヤは黙り込んだ。エルはそれを咎めることなく、静かに頷く。


「いいんだ。理解してる。ただ、一つだけ知っておいてほしい。ネオの死は、彼自身が選んだ結果だ。」


 フレイヤははっと顔を上げ、驚きと怒りが入り混じった視線をエルに向けた。


「……それ、どういう意味?」


「言葉どおりだよ。君は、十年前の儀式で本当は何が起きていたのか、知らないだろう?」


「シルシを取り戻すために、多くの族人が命を落とした……そうじゃない?」


「それも事実だ。でも、あのとき起きたのは、それだけじゃない。


 もし、ある予想外の人物が突然現れなければ、ネオはその場で命を落としていた可能性が高い。クネイト様も、シルシを取り戻せなかったかもしれない。」


 次々と明かされる事実に、フレイヤは思わず問い詰めた。


「……いったい、何があったの?」


「怪物が現れたことは知っているよね?」


「ええ。」


「ネオの話では、彼はその怪物に殺されかけた。だが、文字どおり間一髪のところで、さっき言ったその人物に助けられたそうだ。」


「その人は誰?どうしてそこにいたの?」


「ホーン・ノエルという名だ。当時、合衆国では知らぬ者のない筆頭将軍だった。ただ、なぜ彼があの場所に現れたのかまでは、僕にもわからない。」


「ホーン・ノエル……」


 フレイヤは小さくその名を反芻する。


 何度も耳にしたことのある名だったが、まさか十年前の出来事と結びついているとは、思いもしなかった。


「それなら、どうして父の死が『彼自身の選択』だと言ったの?」


「君もよく知っているはずだ。ネオが死んだのは、翌年の春分に、もう一度儀式に参加したからだ。あのときの歌が、何のために使われたのか……わかっているかい?」


「王室から義務を果たすよう求められたからでしょう?だとしたら、十中八九、どこかの国を併呑するため……」


「じゃあ聞くけど、その結果、併呑された国はあったか?」


「えっと……あれ?」


「気づいたね。そう、その年、大陸から消えた国は一つもない。あのとき王室が歌を要求した理由は、反旗を翻したホーン・ノエルを討つためだった。」


 そこまで聞いて、父の性格を誰よりも知るフレイヤは、すでに薄々察していた。


「じゃあ、あのとき父が歌い手を務めた理由は……」


「そのとおりだ。ネオはわかっていた。臨界者の力を借りれば、ホーンという男は必ず敗れ、命を落とすことになる。


 だから彼は必死に考えた――恩人を生かす道はないのか、と。だが、どれほど手を尽くしても救う術は見つからなかった。


 そして最後に、『自分の命をもって彼の命を償う』という考えに至り、春分の歌い手になることを選んだんだ。」


 エルは一呼吸置き、静かに続ける。


「君も知っているだろう。ネオは冬至の儀式で、すでに致命的とも言える重傷を負っていた。


 それから、わずか三か月後に再び歌を使う――それ自体が、あまりにも危険な行為だった。」


「……それなのに、どうして誰も父を止めなかったの?」


「当時、村にいる歌い手全員の状態を考えた結果だ。ネオは、その中で最も生還の可能性が高いと判断された。」


 そこまで聞いて、フレイヤは完全に言葉を失った。


「もうわかっただろう?ネオの死は、君のせいじゃない。あれは、完全に彼自身の選択だ。だからもし、罪悪感から今回の儀式に志願したのなら……今からでも辞退していい!


 君はまだ、クネイトを継ぐ年齢にも達していない。今ここで歌い手を拒んだとしても、誰も責めはしない。」


 エルは、その言葉で十分に説得できたと思った。だが、しばらく沈黙したフレイヤは、痛ましいほどの表情で、ゆっくりと首を横に振った。


「……私は、辞められない。」


「どうしてだ!ネオの決断だったって、今言っただろう!」


「違う、エル。事実は変わらない。もし私がいなければ……父は、あんなに苦しい選択を迫られなかった。」


「そんなふうに考えるべきじゃない!姫ちゃん、もう一度言う――」


 だが、フレイヤはそれ以上、耳を貸そうとはしなかった。


 彼女は礁岩を蹴り、二、三十メートルもの距離を一気に跳び越えて岸へ戻ると、そのままキャンプの方角へ歩き出した。


 その頑なさに、エルは怒りと焦りを滲ませながら立ち上がり、叫ぶ。


「フレイヤ!君は傲慢すぎる!なぜかわかるか?自分が運命を握っていると思い込んでいるからだ!」


 だが、フレイヤは聞こえていないかのように、歩みを止めない。


「でも、それは間違いだ!運命を支配できる人間なんて、どこにもいない!この世の出来事は、善も悪も、無数の要因が絡み合って生まれる。十年前の出来事だって、例外じゃない!」


 そのとき、フレイヤの足が、ふと止まった。それを見て、エルの胸に小さな希望が灯り、声を張り上げる。


「考えてみろ!先代のクネイトが誓約を立てなければ、そもそも起きなかった!


 君の母親が誓約を破ることを諦めていれば、これも起きなかった!


 ネオが和者になることに固執しなければ、なおさらだ!」


 フレイヤは黙ったまま、星が散りばめられた夜空を仰ぐ。その背中に、エルの叫びが、静まり返った闇を切り裂くように降り注ぐ。


「それだけじゃない!もしあの日、僕が君の家を訪ねなければ、あの薬入りの茶を飲まなければ……あるいは、屋根を修理していたあいつが、怠けずにその日のうちに作業を終えていれば……


 この中の『もしも』が、たった一つでも現実になっていれば、すべては起きなかった!」


 声を荒らげたまま、エルは続ける。


「それでも、起きてしまったんだ!それが、何を意味するかわかるか?」


「……」


「わからない?なら教えよう。これは、僕たち皆が選んだ結果であり、逃れられない運命だった、ということだ!」


 その瞬間、ずっと沈黙していたフレイヤが、勢いよく振り返り、叫んだ。


「人はいつまでも自分の過ちを、運命のせいにしていいわけじゃない!」


 鋭く張り裂けるその声は、行き場を失った悲鳴のようで、エルの胸を深く刺した。


 それでも、ここで引くわけにはいかなかった。彼女の心を縛る固い結び目を、誰かが解かなければならない。


「じゃあ聞く。この悲劇は、いったい誰の責任なんだ?君か?僕か? ネオか?それとも、屋根を修理していたあの男か?」


「……」


「答えられないだろう。もう、自分を欺くのはやめろ!君自身わかっているはずだ。これは誰の罪でもない。


 僕たちは皆、それぞれの立場で、最善を尽くそうとしただけだ。なら、誰も責められるべきじゃない!」


 岸辺で、フレイヤは石像のように立ち尽くしていた。その姿を見て、エルの声は、自然と柔らいでいく。


「姫ちゃん……そろそろ、自分を許すことを覚えるべきだ。」


 それから、長い沈黙が続いた。天地のあいだには、ただ風と波の音だけが残る。


 千年を越えて吹き続ける風の呻きと、悠久の時を湛えた海のざわめき。


 やがて――フレイヤが、ふっと微笑んだ。


 エルは、その笑顔を見て、ついに説得できたのだと思いかけた。だが次の瞬間、それが生涯で目にした中で、最も哀しい微笑みだと悟る。


 フレイヤは、再び背を向けて歩き出した。


 細い背中が闇に溶けていくにつれ、少女の唇からこぼれ落ちた悲しみは、夜の陸風に溶け込み、彼が立ち尽くす礁岩へと、静かに運ばれてきた。


「……もう、すべてが手遅れなの。エル。」


ごめんなさい、最近現実が本当に忙しくて、しかも風邪がなかなか治らなくて……毎日連載するのはどうしても無理でした。なので、これからはしばらく週末中心の更新になります。

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