70 フレイヤの過去 其の三
「ねえ、ウィンデル。」
もう眠ったと思っていたナイヴが不意に声をかけてきて、ウィンデルは反射的に返事をした。
「どうした?」
「ずっと聞きたかったんだけど……どうして、あなたはそんなにフレイヤを止めようとするの?」
相手がだいぶ酔いが醒めてきたのを感じ、ウィンデルは足を止めて彼女を下ろそうとした。だがナイヴはすぐさま彼の肩にぎゅっと腕を回し、どう見てもこのまま背中に居座るつもりらしい。
ウィンデルは小さく肩をすくめ、仕方なく彼女を背負ったまま走り続けた。
「……彼女が間違ってると思ったからだ。」
「フレイヤが、間違ってる?」
「そう思わない?たとえクリストが嘘をついていなくて、今回の儀式が十年前ほど危険じゃなかったとしても、歌を使う以上、フレイヤは寿命を代償にしなきゃならないんだろ。
どうして彼女だけが、そんな犠牲を払わなきゃいけない?それで彼女は、何を得られるっていうんだ?」
その言葉に、ナイヴの声には隠しきれない戸惑いが滲んだ。
「でも……フレイヤはミスリだよ?最初から、見返りを期待する立場じゃないんじゃない?」
「ミスリだから何だっていうんだ。ただの苗字だろ!」
その一言で、ナイヴの声音がきゅっと引き締まる。
「違うよ、ウィンデル。あなたにとっては、ミスリって三文字はただの苗字かもしれない。でも、私たちにとっては全然違う。その名前が持つ意味は、とても大きいの。」
「じゃあ、ミスリの家に生まれたら、無条件で君たちのために尽くさなきゃいけないってこと?」
まだ完全に酔いが醒めきっていなくても、ウィンデルの言葉に込められた強い皮肉は、ナイヴにもはっきり伝わった。
彼女はしばらく黙り込み、やがて小さく首を振る。
「ミスリの一族は、ずっと臨界者の指導者だった。背負う責任が、普通の臨界者とは違うの。
簡単に言えば……臨界者にとってのミスリは、合衆国におけるディーゼル家みたいなもの。そしてクネイトっていうのは、あなたたちの国王に相当する存在かな。
統べる力を持つ以上、より大きな義務を負う必要がある。一族のために歌を使うのも、その一つってだけ。」
「……でもさ。そこから何か特別な恩恵を受けてるのか?正直、前にフレイヤの家に行ったときも、他の臨界者より贅沢な暮らしをしてるようには見えなかったけど。」
「それは、クネイト様個人の考え方じゃないかな。本気で贅沢に暮らそうと思えば、私たちが口出しする余地なんてないし。」
「……やっぱり変だよ。大した見返りもないのに、こんなに多くを求められるなんて。」
「でも、世界ってそういうものでしょ?力のある人は多くを差し出して、力のない人は少しだけ。
払った分だけ必ず同じだけの見返りを求めてたら、人間の社会なんてとっくに成り立たなくなってると思う。」
あまりにも正論だった。それでも、ウィンデルはどうしても納得できなかった。
彼が黙り込んだのに気づき、ナイヴは小さな声で言う。
「……あなた、すごく『公平』を大事にする人なんだね。」
「……」
答えないウィンデルを見て、ナイヴはそっと息を吐いた。ここ最近一緒に過ごしてきて、彼女はうすうす感じていた。
ウィンデルとフレイヤは、どこか似ている。同じ種類の人間だ。
二人とも高い壁を築き、簡単には他人を心の内に入れようとしない。
フレイヤの一番の親友である自分ですら、ほとんどの時間は壁の外側を歩いているだけで、厳重に守られた心の庭に足を踏み入れられることは滅多にない。
それなのに、どうしてフレイヤは、あんな短い時間でウィンデルを受け入れたんだろう。
互いに、同類の匂いを嗅ぎ取ったから……?
そこまで考えたところで、ナイヴの意識は急速に遠のき、無意識のうちにウィンデルの温かな背中に身を預けて眠りに落ちた。
「ナイヴ?」
「……」
「まさか、もう寝たのか?」
「……」
「はあ……」
本当は、ナイヴの酒が抜けるまで待って、夜の闇に紛れてもう少し距離を稼ぐつもりだった。しかし、この様子では無理そうだ。
ウィンデルは足を止め、道端の木の下へ向かうと、慎重にナイヴを幹にもたれさせ、自分のコートを外してそっと彼女に掛けた。
『休むみたいだね?』
風のささやきに、ウィンデルは微笑む。
「うん。今夜は助かった、ありがとう。」
『たまたま通り道だっただけさ。それじゃ……おやすみ?』
「ああ、おやすみ。」
そう心の中で答えた直後、強い夜風が耳元をかすめ、南東へと遠ざかっていった。緊張が解けた途端、激しいめまいと疲労が一気に押し寄せる。
連日の移動が祟ったのかな。
そう思った瞬間、ウィンデルの足から力が抜け、彼はそのまま地面に倒れ込み、深い眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
青い空、白い雲、そして一本のまっすぐな道。
その道は森へと続き、森の奥には、うっすらと蛇行する小径が見えていた。
小径の入口付近で、ウィンデルは大勢の人々の姿を目にした。そのほとんどが、家族と別れを惜しんでいるように見える。
この人たちは、誰なんだ?
戸惑いながら周囲を見回していると、どこか懐かしく、それでいてまだ幼さの残る声が耳に飛び込んできた。
「パパ、行かないで……行かなくちゃだめなの?」
声の方へ振り向くと、小柄な金髪の女の子が、一人の男の服の裾をぎゅっと掴んでいた。
男は少し困ったような表情でしゃがみ込み、慈しむように女の子の頭を撫でる。
「心配しなくていい、お姫様。パパとママは少し出かけるだけだ。ひと月もしないうちに帰ってくるよ。その間はおじいちゃんの家にいなさい。いい子にしてるんだぞ?」
その言葉を聞き、女の子は見るからに落胆した様子で俯いた。
娘のそんな姿に胸を痛め、男は小さくため息をつくと、そばに立つ厳格そうな老人へと向き直る。
「父さん、姫様のこと、頼みます。」
「言われなくても、きちんと面倒は見る。いいから、さっさと行ってこい。」
ぶっきらぼうな返事に、男は苦笑した。
「それじゃ、行ってくるよ。お姫様、パパとママは出発だ。」
しかし、その小さな手は、いっこうに彼の服を放そうとしない。男がそっと指を外そうとした時、女の子が小さな声で言った。
「……パパ、ちょっと来て。」
そう言うと、彼女は手を離し、人だかりから少し離れた木の下へと歩いていく。男は不思議そうに隣の女性と目を合わせ、肩をすくめてから後を追った。
「どうしたんだい、お姫様?」
次の瞬間、女の子は振り向きざま、勢いよく彼に抱きついた。小さな顔は鼻水と涙でぐしゃぐしゃだ。
「パパ……お願い、行かないで……」
戸惑いながらも、男は反射的に娘を抱きしめ、背中を優しく叩く。
「どうしたんだ?今までは、パパが出かける時だってこんなことしなかっただろう?忘れたのかい。お前は、いつかクネイトになるんだ。少しずつ、強くならなきゃいけない。」
「……でも、見えちゃったの。」
「見えた?何が?」
女の子は口を開きかけ、何かを躊躇うように再び唇を閉じた。その様子に、男は小さく息をつく。
「話してごらん。言ってくれなきゃ、パパには分からない。」
「……少し前に、ママが私に啓を教えてくれたの、覚えてる?」
「もちろんだよ。失敗したって言って、ふてくされた顔で部屋に閉じこもっただろ?」
「ちがう。ちゃんと、啓、できたの。」
男は思わず目を瞬かせた。
「え?待って、本当かい?初めての啓で、成功したって?」
「うん。本当。それでね……見えたの。海のそばにある白い広場で……パパが……」
「……パパに、何か悪いことが起きたんだね?」
女の子はこくりと頷き、声を詰まらせる。
「歌を歌い終わって、少ししたら……急に倒れちゃって。そのまま……そのまま、ずっと目を覚まさないみたいで……」
そこまで言うと、女の子は再び声を上げて泣き出した。男はため息をつき、そっと彼女を胸に抱き寄せる。
「大丈夫だ。そんなこと起きないよ。お姫様、いいかい。啓だって、間違うことはあるんだ。」
その言葉に、女の子は涙に濡れた瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「啓も、間違うの?」
「ああ。兆と同じだ。啓だって、いつも正しいわけじゃない。よく聞きなさい。さっきお前が言った、白い広場がある場所は春分点だ。でも、パパが今回行くのは冬至点だよ。
冬至点は雪の山脈の中で、海なんて見えない。それに今回は、パパは歌い手としてじゃない。エルおじさんの代わりに、和者としてママを助けに行くだけだ。
だから心配いらない。お前が言ったようなことは、絶対に起きないよ。」
「……ほんと?嘘じゃない?」
「嘘じゃない。パパは、絶対に嘘はつかない。」
女の子は涙を拭い、右手の小指を差し出した。
「じゃあ……パパとママ、二人とも帰ってくるって、約束して。」
無邪気なその仕草に、男は思わず笑みをこぼす。彼も右手の小指を伸ばし、小さな指と絡めた。
「約束する。パパとママは、必ず無事に帰ってくる。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
瞼の上から差し込む日差しの熱を感じ、ウィンデルは目を覚ました。
身体を起こすと、いつの間にか掛けられていたコートが、はらりと地面に落ちる。
「やっと起きた?」
まだ意識がはっきりしないまま振り向くと、ナイヴが草地に横になり、こちらを見ていた。どうやら、ずっと目を覚ますのを待っていたらしい。
目が合った瞬間、ナイヴの頬がふっと赤くなり、照れたように視線を逸らす。
「連日の移動で、相当疲れてたんじゃない?朝起きたら、あなたが道の真ん中で倒れて寝てて、びっくりしたんだから。」
「……大丈夫。あと七日もない。急がないと。」
そう口では言いながらも、立ち上がった途端、軽いめまいに襲われてよろめく。ナイヴがそれを見逃すはずもなかった。
「ウィンデル。今のペースなら、ここで一日休んでも間に合うと思う。風乗りを覚えたばかりなんだし、無理しすぎだよ。」
「だめだ。もし休んだせいで間に合わなかったら……僕は、きっと一生後悔する。」
「一生……ね」
その言葉を小さく繰り返しながら、なぜかナイヴは、儀式に間に合わなければいいのに、と思ってしまった。すぐにその考えに自分で驚き、ぱん、と頬を叩いて立ち上がる。
「……そうだね。行こう。」
ウィンデルは小さく頷き、南東の彼方を見据えた。まだ遥か遠くにあるはずの大陸の果てが、今すぐ目の前に現れることを、心から願いながら。
絶対に、フレイヤに歌わせてはならない。
ただの女の子が、父を救おうとして過ちを犯しただけで、これほど重い罰を受けなければならないのだとしたら――
そんな世界は、あまりにも不公平すぎる。




