69 風待ちの亭
風待ちの亭。それは、スモウ川のほとりにある小さな農村で、唯一の宿屋兼酒場だった。
百年以上の歴史を持つその店は、スモウ川中流域では名の知れた存在で、近隣を通る旅人の多くが、わざわざ立ち寄って名物の香り高い焼酎を一杯あおるほどだ。
そのせいで、人々はいつしかこの酒場がある農村の本来の名を忘れ、「風待ち村」と呼ぶようになっていた。
「マスター、もう一杯!」
「こっちもだ、もう一杯頼む!」
名の通った酒場とはいえ、毎晩が今のように賑わうわけではない。
今夜これほど客が多いのは、合衆国から戻ってきた者たちが多く、次の目的地へ向かう途中で、たまたまこの地を通るからだった。
集まっているのは、各地を渡り歩く商人たちがほとんどだ。彼らは、どこかで利益が見込める品を大量に買い付け、遠く離れた都市――時には別の国へと運び、売りさばくことで生計を立てている。
この稼業を続けるには、各地の情勢や相場の変動を即座に把握できる、鋭い情報網が欠かせない。さらに、最短かつ安全な道を見極め、儲け話を確かな金貨へと変える計画性も必要だ。
もっとも、得意とする分野は人それぞれで、彼らの商いのルートも大きく異なっている。とはいえ、一年のうちに、商人であれば決して逃せない好機というものがいくつか存在する。
つい先日、合衆国のイテナ市で開催され、幕を閉じたばかりの春の祭りも、その代表的な例だった。
その祭りで大いに稼いだ商人たちは、今まさに上機嫌で酒をあおりながら、互いに商売の心得や、さまざまな情報を交換している。
話題は、どこかの貴族に娘が生まれたという話から、疫病の流行、今年は不作に終わった葡萄畑の噂まで実に多岐にわたっていた。だが興味深いことに、誰もが必ず同じ出来事に触れていた。
合衆国第一王子の暗殺未遂事件、そしてその後に広がった数々の波紋についてだ。
「なあ、聞いたか?あの暗殺者、死ぬ前の供述がとんでもなかったらしいぞ……」
「そうそう。第一王子が、あそこまで腹黒い奴だったとはな。」
「だが結局、自業自得ってやつだろ。弟に罪を着せるつもりが、仕込んだ暗殺者に噛みつかれたんだから。」
「そもそも、あの暗殺者だって、どうせ汚い手を使って雇ったんだろ?任務を果たした挙げ句、捕まって牢で死を待つ羽目になるなんて、誰が想像する。腹に据えかねて真実を吐いたに違いない。
それにしても、王子様も間抜けだよな。俺だったらその場で始末して証拠を消す。」
「いや、それがな。第一王子も最初はそうするつもりだったらしい。だが、第二王子がどうしても真相を聞き出すと言い張って、こうなったそうだ。」
「それでも腑に落ちないな。何もしなくたって、数年後には王位は安泰だったんだろ?国王の体調も良くないって話じゃないか。」
「ちっ、情報が甘いな。実はその前から、国王は第二王子を王太子に立てるか迷ってたらしい。だから第一王子も危機感を覚えて、あんな芝居を打ったんだろうさ。」
「それが裏目に出たってわけか。……ああ、権力ってのは恐ろしい。」
「それだけじゃない。あの二人、父親に自分の力を示すために、俺たちの摂政選挙にも首を突っ込むつもりらしいぞ。」
「勘弁してくれよ……そんな話、どこから仕入れてくるんだ?」
「へへっ、それは商売の秘訣ってやつだ。」
夜が更けるにつれ、酒場の喧騒も次第に落ち着きを取り戻していった。
語るべき話題も出尽くしたのだろう、十分に飲んだ客たちは互いに「おやすみ」を告げ、それぞれの部屋へと引き上げていく。
その頃になってようやく、店中を駆け回っていた店主のティックも一息つけるようになった。
店内に残る客がわずかであることを確認すると、カウンターの奥にある小さな仕切り部屋で、少し休もうと決める。
だが、狭い部屋に身を滑り込ませた瞬間、ティックは眉をひそめた。中にある唯一の寝椅子は、もう誰かに占領されていたのだ。
しかもその人は、手にした酒瓶を揺らし、いかにも酔っぱらった様子で笑っている。
「悪いな、ティック。勝手に開けて飲んじまった。構わないだろ?」
名を呼ばれた店主は、深いため息をついた。
「私が気にしているのは、あなたが私の休憩場所を奪ったことです。」
「せっかく来てやったのに、椅子一つも貸してくれないのか?」
「冗談ですよ、参謀殿。そんなはずありません。」
その呼び方を聞いた老人は、すぐに眉を寄せた。
「何度言わせる。俺はもう参謀なんかじゃない。名前で呼べ。」
ティックは、白くなり続けるその髪に一瞬視線をやり、胸の内で感慨を覚えながら答えた。
「承知しました、カンベス様。」
「カンベスだ。呼び捨てろ。」
「……ところで、カンベス様。あの噂、もう耳にしましたか?」
かつての部下の頑なさに、カンベスは諦めたように息を吐いた。
「どの噂だ?」
「二人の王子に関する話です。」
「そんなもの、もう大陸中に広まってる。」
「では、その信憑性はどれほどだと?」
カンベスは瓶の底に残った最後の一口を喉へ流し込み、余韻を味わうようにしばらく目を閉じてから、ゆっくりと口を開いた。
「まず、暗殺者の供述そのものが、どこまで真実か疑わしい。」
「つまり、暗殺者が供述した黒幕は第一王子じゃないと?」
「いや、奴がそう証言したこと自体は事実だろう。問題はその証言が、信用に足るかどうかだ。」
「彼が嘘をついているとお考えですか?」
カンベスは迷いなく、はっきりと頷いた。
「第一王子派はもともと勢力が強い。それに、テレニもあと数年しか生きられないのは事実だ。メッシが、わざわざこんな手段で弟を陥れる必要はない。
つまり、立場は逆なんだ。実際に暗殺者を放ったのは第二王子派で、メッシこそが嵌められた側だ。」
「……ということは、第二王子派は暗殺が失敗した場合のことまで想定して、この不利な状況を逆手に取るつもりだった、と?」
「その通りだ。この噂も、連中が意図的にばらまいたものだろう。事実が先に歪められて広まってしまえば、メッシがどれだけ弁明しても効果は薄い。そもそも……」
カンベスは鼻で笑うように言った。
「人間というのは、先入観に簡単に目を曇らされる、愚かな生き物だからな。」
ティックは少し考えてから口を開いた。
「では、テレニが第二王子を王太子に立てるつもりだ、という話はどうなんです?それも第二王子派が流した噂ですか?」
「もちろん、第二王子派が後押ししているのは間違いない。だが、テレニが長年王太子を決めなかったのには、彼なりの理由があったはずだ。」
「彼なりの理由……?」
カンベスはゆっくりと頷いた。
「お前は、テレニがどうやって王位に就いたか知っているか?」
「ええと……王位を巡って、宮廷が大混乱だった、という話くらいしか。」
「それじゃ生ぬるいな。テレニには兄が三人、姉が一人いた。最初から王位に興味のなかったコングルを除いて、残りの二人の兄と、唯一の姉は――すべて、あの争いの中でテレニに殺された。」
「……そんな。そこまでする必要があったんですか?」
「そう思うのは、権力争いがどれほど恐ろしいものかを知らないからだ。あそこは人の心をすり潰す、文字通りの死闘の場だからな。」
少し間を置いて、カンベスは続けた。
「それにもう一つ。テレニは私生児だった。同じ父を持つとはいえ、異母兄弟に、元から大した情もなかったのかもしれん。」
「なるほど……って、ちょっと待ってください。テレニは私生児なんですか?」
思わず声を上げたティックに、カンベスは指を立てて静かにするよう合図した。
「昔、ホーンから聞いた話だ。知っているだけでいい。決して吹聴するな。ここは、まだ俺たちの行動拠点として使う必要がある。」
「すみません。ですが、そうなると……」
ティックは眉を寄せた。
「テレニは、自分がそうしたように、二人の王子にも兄弟同士で命を懸けて争わせ、その結果で王位を決めさせるつもりなんでしょうか?あの人たちは、実の息子ですよ?」
カンベスは肩をすくめ、表情をわずかに引き締めた。
「これはあくまで俺の推測だ。だがそもそも、テレニの思考を常人の尺度で測ること自体が間違っている。
問題は――俺が聞いている限り、第二王子は王に相応しい器じゃないということだ。残忍で暴虐なうえ、王に必要な知恵も度量も欠けている。」
さらに、低い声で続ける。
「それに今回の件で、もともとメッシを支持していた勢力の一部が第二王子側に流れた。このままでは、メッシの立場はますます不利になるだろう。」
ティックは息を呑んだ。
「ということは……仲間たちを集めて、メッシを支援するおつもりですか?」
「必要になるかもしれん。」
カンベスは即答した。
「お前も、皆と連絡は取り続けているな?」
ティックは慌てて頷く。
「はい。必要であれば、ひと月以内に全員に声をかけられます。ただ……」
「ただ?」
「この数年、ザグだけは、どうしても連絡が取れなくて。」
カンベスは手を振り、大きく伸びをしながら立ち上がった。
「構わん。最初から、あいつに声をかけるつもりはなかった。お前も知っているだろう。あいつには、あいつ自身の使命がある。」
「……あの子まで巻き込んでしまうのを、恐れていらっしゃるんですね?」
カンベスが答えるより早く、店内に甲高い声が響いた。
「私、酔ってない!」
どうやら、少女の声だ。
酔客が騒ぎを起こさないよう、ティックは急いで仕切り部屋を出た。すぐに、騒動の原因が、今夜最後に店に入ってきた若い男女だと分かる。
少年が少女の肩を支えながら、ふらふらと店の外へ向かっている。その口調は、明らかに不機嫌だった。
「だから言っただろ。この酒は強いって。」
「でも、みんなあんなに楽しそうに飲んでたから、ちょっと試してみたかったんだもん。それに、頼んだのは一杯だけだよ?ほ~~~んの一杯だよ?そんな量で酔うわけないでしょ。」
「今すぐ鏡を用意して、あんたの泥酔の顔を見せてやりたいな。」
「酔ってない!」
「酔ってるよ、ナイヴ。いいから大人しくして。外で風に当たって、少し醒まそう。ほら、しっかり掴まって。」
顔を真っ赤にした少女の様子に、ティックは思わず苦笑した。この酒場を継いで八年、こうした光景は何度となく目にしてきた。
二人に暴れる様子はなさそうだと判断し、踵を返してカンベスの元へ戻ろうとしたとき、少女の言葉が彼の動きを止めた。
「でも、ウィンデル、これって、ちょ~~~っと良くないんじゃない?」
ウィンデル?
「大丈夫だよ。夜だし、誰にも見られない。」
見られない、だと?
耳の利くティックは、その一言に引っかかりを覚えた。
いや、それ以上に気になったのは、あの少年の名だ。ただの偶然か?
考えるより早く、ティックはカンベスのことなど忘れ、店の外へ駆け出した。
自分が思い浮かべた「あの人」なのかを確かめたかった。
だが、扉を押し開け、左右を見回しても、そこにいたはずの少年と少女の姿は、影も形もなかった。残っていたのは、月光を映してきらめく水田の広がりと、どこか物寂しい満月だけ。
そのとき、店先を強い風が吹き抜け、東南の方角へと流れていく。胸に渦巻く疑念の中で、ティックの脳裏に、ある可能性が自然と浮かび上がった。
「まさか……いや、そんなはずは……」
そして、思わず呟く。
「……あいつら、風の術を使ったのか?」




