68 フレイヤの過去 其の二
朝から、フレイヤは父の一挙手一投足に注意を向けていた。
けれど、どれだけ観察しても、機嫌があまり良くなさそうなこと以外、いつもと違う様子は見当たらない。
「お父さん、大丈夫なの?」
「どうして急にそんなことを聞くんだ?元気だよ。」
反射的とも言える速さで返ってきた答えに、フレイヤは疑うように目を細めた。
どうやら父自身も、その反応が怪しかったと自覚したらしく、小さくため息をつき、両手を上げて降参のポーズを取る。
「はいはい、ごめん。嘘をついた。」
「じゃあ、気分が悪いんですか?それとも体調が?」
「まあ、両方かな。ここ数日、いつもより疲れやすくて、どうにも集中できなくてね。」
それを聞いた瞬間、フレイヤは思わず飛び跳ねそうになった。だが必死にその喜びを押し殺し、心配そうな表情を作る。
「それなら……今日はエルおじさんと勝負するんですか?いっそやめた方がいいんじゃ……」
「それは駄目だ。せっかく巡ってきたチャンスなんだぞ。戦いもせずに諦めるわけにはいかない。」
そのとき、キッチンから母が姿を現した。
「でも、その状態で無理にやっても、無駄骨になるだけじゃない?」
「……君まで水を差すのか。」
「事実を言ってるだけよ。」
「ちぇっ。君の正直さは、本当に心が冷えるな。まあいい、先生のところへ行く準備をしないと。お姫様、温かいお茶を用意してくれるかい?」
「はい、任せて!」
そう言ってフレイヤは、父がいつも使っている水筒を手に取った。だが母の横を通り過ぎたとき、意味ありげな視線を向けられていることに気づき、胸が少しざわつく。
気づかれた?いいえ、そんなはずはない。もし本当に気づかれていたら、とっくに叱られているはずだ。
キッチンへ駆け込んだ後も、両親の会話は続いていた。
「リス、何か言うことはないのか?」
「まさか、健闘を祈ってほしいとか?」
「……分かってて言ってるだろ。」
フレイヤがぬるま湯にバレリアンの粉を混ぜていると、母のくすくすとした笑い声が聞こえてきた。
「必要ないわ。どうせ、あなたは先生の家にも行かないし、勝負もしないでしょうから。」
「どうして?」
そのとき、玄関の方からコンコンとノックの音が響いた。フレイヤが顔を出すと、母が入口を指さしている。
「だって、エルがもう来てるもの。」
母の言葉どおり、訪ねてきたのはエルだった。父は彼を居間へ通すと、すぐに扉を閉める。それを見て、フレイヤは不満そうに頬を膨らませた。
お父さんのケチ。これじゃ中の話が聞けないじゃない。
扉に耳を寄せてみたものの、分厚い木板越しでは、断片的な単語がぼんやり聞こえるだけ。
焦れたフレイヤは、水筒を持ったまま、近くにあった本を一冊掴み、思い切って扉を開けて中へ入った。
勝手に入ってきた彼女を見て、エルと話していた父は、ぴたりと口を閉ざし、明らかに不機嫌そうな表情になる。
フレイヤは水筒を机に置くと、椅子を引き寄せ、何食わぬ顔で腰掛けて本を読み始めた。その一連の動作を見て、父の顔色はますます険しくなるが、フレイヤは気づかないふりをする。
「フレイヤ」
その名を呼ばれ、彼女の体がわずかに強張った。父が直接名前を呼ぶのは、叱るつもりのときだけだ。
「はい?」
「私とエルおじさんが大事な話をしているの、分かっているのか?」
フレイヤは覚悟を決めて言う。
「でも、居間の方が明るいし、ここで読書したくて……邪魔はしないから、いいですか?」
「それは――」
父が言い終わる前に、エルが口を挟んだ。
「もちろんいいさ、姫ちゃん。そこに座って、静かに本を読んでいなさい。」
理由は分からなかったが、フレイヤはこの好機を逃すつもりはなかった。
「はい!絶対に邪魔しません!」
そう言うと、慌てて本に顔を埋める。すぐに、父が小声で言った。
「エル、何を考えている。あの子を甘やかす気か。」
「大丈夫だよ。フレイヤは分別のない子じゃない。それは君の方がよく分かっているだろう?」
「だが……」
「心配いらない。どうせ、後で彼女も知ることになる話だ。隠す必要はないさ。」
「……分かった。それで、どうして急に来た?」
「……昨夜、先生が言ったんだ。君の挑戦を受けるな、もし今回の儀式に参加したいなら、まず自分を越えろって。」
「先生が、直接俺と?本気?」
そのとき、フレイヤの視界の端で、エルが水筒を手に取り、父と自分の分のお茶を注ぐのが見えた。胸がきゅっと締めつけられたが、彼女は何も言わなかった。
「そうだ。だから君のところに来た。どれだけ先生が強くても、年齢には勝てない。もし手合わせの最中に何かあったら……僕たちは、誰一人として君を許せない。」
「……それは、さすがに卑怯だろう。」
エルは首を横に振り、茶碗を手に取って一口すすった。
「そもそも、君があそこまで意地を張らなければ、先生だってこんな手段を取らなかったはずだ。大人しく村に残っていろ。安心しろ、何があっても、必ずクリストを無事に連れ帰る。」
父は両手の指を組み、俯いたまましばらく沈黙した後、ぽつりと問いかけた。
「……本当に、保証できるのか?」
「命に懸けて誓う。」
「……やめてくれ。君に何かあったら、グレイスに合わせる顔がない。」
そう言うと、父は深く息を吐き、真剣な眼差しでエルを見据えた。
「じゃ、エル、リスのことを頼む。」
「任せておけ。」
そこまで聞いて、フレイヤはそれが父が今回の歌への参加を正式に諦めた証だと悟り、胸の内では花が咲くほど嬉しくなった。エルもまた安堵したようで、父の肩を軽く叩く。
「じゃあ、先生のところへは行かなくていい。僕が今から伝えに行く。」
父は何も答えず、力なく一度だけ頷いた。
その後、フレイヤは「外を少し散歩したい」という口実で、エルと一緒に家を出た。外に出た瞬間、大きく息を吸い込むと、冬の冷たい空気が一気に体の奥まで流れ込んでくる。
普段なら胸の奥まで凍りつくようで苦手な感覚だが、今日に限っては、ただ清々しい冷たさとして感じられた。
「姫ちゃん、どうして急に先生の家まで一緒に来る気になったんだ?」
「別に……高いところから雪景色を見たくなっただけです。」
「気まぐれ?それとも、僕がいなくなった後でお父さんに怒られるのが怖いとか?」
図星を突かれ、フレイヤはわずかに頬を染めた。
「……意地悪。」
「おいおい、さっきは君の味方をしてやっただろ?それで意地悪扱いか?」
「だって、普段から私をからかってばかりじゃないですか。たまに助けてくれるくらい、当然です。」
その理屈に、エルは思わず声を上げて笑った。笑いながら村の中へ入っていくエルを見て、フレイヤは首をかしげる。
「モーン様のお家って、この方向じゃありませんよね?」
「ああ、先にグレイスに知らせておこうと思ってな。ちょうど近くだし。」
「知らせるって?」
「君のお父さんが、ついに諦めたっていう朗報さ。」
それを聞いて、フレイヤも笑みをこぼした。
「本当ですね。私も嬉しいです。」
「ははは、やっぱりな。君、お父さんに行ってほしくなかっただろ?」
「……そんなに分かりやすかったですか?」
「かなりな。そんなに心配だったのか?」
フレイヤは一瞬、予見の中で見た光景を話すべきか迷った。だが、これ以上追及されれば、父にこっそり薬を盛ったことまで露見しかねないと思い、すぐにその考えを打ち消す。
「ただ、儀式に参加したら、何か悪いことが起きそうな気がして……だから今朝、久しぶりに兆を使ったんです。」
「ほう?結果は?」
「今日は良くないことが起きる、って。でも今となっては、ただの取り越し苦労みたいです。だって、お父さんとおじさんの勝負もなくなりましたし……私、今すごく気分がいいです。」
最後の子供らしい一言に、エルは再び笑った。
「姫ちゃん、どうやら君の兆はまだ修行不足だな。おじさんの方がよっぽど正確だ。朝から今日はいいことが起きるって教えてくれてた。」
「ちぇっ、子供相手にそれはずるいです。」
「ずるい?おじさんは昔から小心者なんだよ。」
そんな他愛のない会話を交わしながら歩いているうちに、幼い頃からの癖で、フレイヤは自然とエルの手を取ろうとした。
だが、指先が触れた瞬間、違和感を覚える。
冷たい。氷の塊のように、異様な冷たさだった。
驚いて顔を上げたフレイヤは、さらに息を呑んだ。
いつの間にか、エルの顔色は死人のように真っ青になっており、まるで墓場から這い出てきた屍のようだった。
「おじさん、大丈夫ですか!?顔色が……!」
「正直……あまり良くない。姫ちゃん、悪いが急いでグレイス姉さんを呼んできてくれるか。今朝、何か変なものを食べたみたいだ。」
その言葉を聞いた瞬間、フレイヤの脳裏に、フローラおばあちゃんの忠告が鮮明によみがえった。
ロアル様は、この薬草にアレルギーはないけど……体質によっては、短時間でひどく具合が悪くなる。場合によっては、命に関わることもあるんだ。
思い出した途端、胸がざわつく。
「わかりました!すぐにお姉ちゃんを呼んできます!」
そう言った直後だった。
「うわっ――!」
頭上から、誰かの悲鳴が落ちてくる。
二人が同時に見上げると、雪が止んだ隙に屋根の修繕をしていた中年の男が、足を滑らせ、脇に積んであった分厚い木板にぶつかるのが見えた。
次の瞬間、男と木板の山が、滑りやすい屋根を伝って二人めがけて落ちてくる。
エルは即座に叫んだ。
「姫ちゃん!君は人を守れ、木板は僕が引き受ける!」
「えっ……は、はい!」
日頃の鍛錬の賜物か、フレイヤは即座に風を成形し、透明なクッションのようにして、足を滑らせた男を受け止めた。
ほっと息をついたばかり、突然強い力で抱き上げられ、横へと突き飛ばされた。何が起きたのか理解する間もなく、彼女を抱きしめた人物が、苦しげに呻く声を上げる。
この声は……エルおじさんだ。
エルが手を離すと同時に、フレイヤは慌てて起き上がった。だが、目に飛び込んできた光景に、反射的に口元を押さえる。
「……そ、そんな……」
十枚を優に超える木板が、無秩序に折り重なり、エルの膝下を押し潰していた。
どれも数キロはありそうな重さだ。自分を庇うため、風を使わず、肉体で高所から落下した木板を受け止めた――そう思った瞬間、フレイヤの目に涙が滲んだ。
彼女は中年の男と協力し、風の術で次々と木板を取り除いていく。最後の一枚を持ち上げたとき、エルの右脚――脛と足首の境目から、白い骨が皮膚を突き破り、血に濡れて露わになっているのが見えた。
生まれて初めて目にする凄惨な光景に、フレイヤの全身が激しく震え出す。
「ば、ばか……ばかエル!どうして風の術を使わなかったんですか!こんな……こんな大怪我……ああ……どうしよう、どうしよう……ごめんなさい、全部私のせい……私のせい……!」
取り乱し、言葉も繋がらなくなったフレイヤを見て、エルは痛みに耐えながら、かすかに笑った。
「ごめんな……さっき、どういうわけか集中できなくてさ。だから避けようとはしたんだけど……どうやら、反応が少し遅かったみたいだ。」
その頃には、中年の男が風の術でエルの身体を浮かせていた。フレイヤは呆然と立ち尽くし、男がエルを連れて、フローラおばあちゃんの家の方角へと駆けていくのを見送るしかなかった。
しばらくして、真っ白になっていた思考がようやく動き出し、彼女はこれから起きることを理解してしまう。
「……どうして……」
怪我をしたエルは、もう儀式に参加できない。そうなれば――父が、エルの代わりに和者を務めることになる。
それって……それってつまり、私が……お父さんを殺すことになるんじゃ……?
「う……ああああ……」
激しい罪悪感と恐怖に押し潰され、フレイヤは泣き崩れた。同時に、はっきりと自覚してしまう。
私は、本当に自分勝手な、悪い子だ。
だって、こんな時ですら。本当ならエルの怪我を案じるべきなのに、頭の中は――母に全てが露見したとき、どれほど厳しく叱られるのか、そのことばかりだったのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
温かな光に包まれるようにして、ウィンデルは目を覚ました。窓の外には、夜明けを迎えたばかりの空が広がっている。
夢か。
現実に戻ったと理解した瞬間、胸の奥が静かに引き締まる。
今日は、出発の日だ。
モーンに別れを告げ、荷を背負ったウィンデルは、フレイヤの家の前へと向かった。予想どおり、ナイヴはすでに待っている。
「遅い!どれだけ待たせたと思ってるの!」
「……ちゃんと時間どおりだよ。」
「とにかく遅いの!」
そう言ってナイヴは近づき、彼の背中を思いきり叩く。直後、ぷっと吹き出して笑ったところを見ると、自分でも理不尽だと分かっているらしい。
「でも、約束は守ってくれたわね。」
「……僕は、約束を破ったことはない。」
それを聞いて、ナイヴはにこりと微笑んだ。
「男の言葉は信用できないって言うけどね。さ、行きましょ。」
「うん。」
二人は風乗りを使い、囁きの森を目指して駆け出した。
ウィンデルが難なく速度についてくるのを見て、ナイヴは目を見張る。
「思ったより、ずっと上達してるじゃない。」
「この数日、死ぬほど鍛えられたからね。」
「それでもよ。風乗りを覚えて数日で、ここまで来る人なんて見たことない。」
「……」
「ちょっと、褒めてるんだけど?反応しなさいよ。」
「……ありがとう。」
「ふん、つまらない奴。もしかして、まだ別のこと考えてる?」
ナイヴの勘は正しかった。ウィンデルの意識は、昨夜見た夢――あの過去の光景から、完全には離れられていなかった。
返事がない彼を見て、ナイヴは不機嫌そうに彼の肩を拳で叩く。
「まったく、このバカ。そうだ、さっきクネイト様に会ったんだけど、伝言を頼まれたわ。」
「……?」
「『私は十年前、フレイヤが何をしたのかを知っていた。でも、あの時は叱らなかった。
今思えば、それが私の最大の過ちだったのかもしれない。あの子は今でも、あの時の薬瓶を身につけている』……だって。」
「……それだけ?」
「うん。あとね、『意味が分からなくても構わない。でも、分かるなら、やるべきことは分かるはず』とも言ってた。」
ウィンデルは眉をひそめた。
どうしてクリストが、自分があの過去を見たことまで察しているのか……理解はできない。
だが、そのおかげで。これから何をすべきかだけは、はっきりと分かった。
考え込む彼の様子を見て、ナイヴが問いかける。
「で、その話ってどういう意味?フレイヤが十年前に何をしたの?」
「道すがら、ゆっくり話すよ。」
「今がその『道すがら』でしょ!早く言ってよ!」
何でも率直に口にするナイヴと、本心を奥深くに隠し続けてきたフレイヤ。
二人を思い浮かべ、ウィンデルは、フレイヤがなぜ自分をナイヴより劣っていると思っていたのか、少しだけ分かった気がした。
「……フレイヤは、きっと君のことを羨ましがってたんだろうな。」
呟きながら、ウィンデルは胸の内で、強く祈る。
間に合ってくれ。どうか、間に合ってくれ。
あの愚かな少女が、罪悪感に押し潰されてしまう、その前に。




