67 エルの記憶 其の一
雪を踏みしめる靴音が、ザクッザクッと近づいてくる。
風の術の修練に集中していたエルは、その独特な歩調を聞いた瞬間、来訪者の正体に気づいていた。衣擦れの音とともに、遠慮もなくどさりと隣に腰を下ろされたのを感じ、彼は思わず内心でため息をつく。
「先生、どうやらあの諦めの悪い人が、また押しかけてきたみたいです。」
「今さらだろ。あいつと付き合い始めて、もう一日目でもあるまい。」
「……確かに。じゃあ、どうすれば説得できると思います?」
「仮にそんな方法がこの世にあったとしても、お前には無理だ。」
「では、先生なら?」
「はぁ……たぶん、わしにも無理だな。」
二人のやり取りを聞いて、不意の来客がくすくすと笑った。
「説得できないならさ、いっそ俺に行かせてくれてもいいんじゃない?」
エルが返事をするより早く、先生――モーン・ベイルが、低く重い声で即座に言い切った。
「それはダメだ、ネオ。」
「……エルはともかくとして、先生まで反対する理由は何です?」
「その前に聞こう。なぜエルの代わりに、お前が行くべきだと思う?」
「先生だって、よく分かっているはずでしょう。父がようやく誓約を破る選択を認めて、さらにご自身の弟子たちを今回の儀式に立ち会わせることまで許可した。
彼らの目の前で儀式を成功させれば、導き手たちにも示せるはずです――俺たちの力でシルシを取り戻すことは、不可能じゃないって。
全員が納得すれば、長年続いてきた両方の不和だって、解消できるかもしれない。先生も、そうは思いませんか?」
エルは目を開き、先生がゆっくりと首を横に振るのを見た。
「合意に至る可能性はあるだろう。だが、長年の不和がそう簡単に消えるとは、わしは思わない。」
「試さなければ、始まりすらしない!短期間で導き手と聞き手を一つにできなくても、長い目で見れば、これは転機になるかもしれないんです!」
そのとき、背後から女性の声が割って入った。
「ネオ。あなたの考えには賛成だけど……自分の話が、変な前提の上に成り立っているって気づいてる?」
振り返ると、そこにはいつの間にかグレイスとタフの姿があった。
「変な前提?」
「とぼけないで。あなたの言い方だと、エルが首席の和者を務めれば歌は失敗するけど、あなたがやれば成功する、って前提に聞こえる。
でも、私たちから見れば大差ないわ。エルの実力は、あなたに劣ってないもの。」
その言葉を聞いて、エルの胸にほんのり甘いものが広がる。一方、ネオはからかうように口角を上げた。
「へえ?それって、想い人の肩を持ちに来たってこと?」
思わずグレイスを見ると、彼女もちょうどこちらを盗み見ていて、視線がぶつかった瞬間、二人そろって頬を赤らめた。
「ネオ、今は冗談を言ってる場合じゃない。正直に言って、どうしてそこまでして今回の儀式に参加したがるの?」
先生が核心を突くと、全員の視線がネオに集まった。しばらく沈黙した後、彼は低く言った。
「……啓で、とても恐ろしい光景を見たんです。」
「恐ろしい光景?」
「……二十メートルを超える巨体で、大斧を振るう青い巨人が、雪原でリスと多くの臨界者たちを相手に戦っている光景です。」
その場が、凍りついたように静まり返る。
「青い巨人……それは、フィルが現れたということか?」
「断言はできません。でも、間違いなく……大勢が、そいつの手で命を落としていました。」
「……」
重苦しい不安が場を覆ったとき、それまで黙っていたタフが口を開いた。
「でも……先生はご自身の啓で、儀式の後もクネイトとエルが無事だって言ったよね?」
ネオが驚いたように先生を見る。
「それは本当ですか?先生も啓を?」
先生はタフを一瞥して、まるで「言うべきじゃなかった」と責めるような視線を向けた。
「使ったのは事実だ。ただし、少し誇張されている。わしが見たのは儀式の後、ベッドで静養しているリ……クネイトとその傍らで、右足を痛めて杖をついているエルだ。」
「なぜ、今まで教えてくれなかったんです?」
「お前たちが油断するのを望まなかったからだ。クネイトがこれほど長く準備してきたのは、試練そのものが相当過酷だからだろう。ネオ、お前にとって四風とは何だ?」
「異界から来た風……ですよね?」
先生は静かに首を振った。
「違う。四風は、他の世界を統べる神だ。神とは、俺たちが決して敵わず、理解し合うこともできない存在だ。つまり、四風の前では、俺たちの生死など、すべては一念ひとつに過ぎない。」
「……何が言いたいんですか。」
「ネオ。フレイヤはまだ幼い。お前を今回の儀式に参加させたくないのは、万が一のとき……あの子を守り、育てる者が必要だからだ。」
最愛の妻が死ぬ可能性を示唆され、ネオの頭に血が上る。
「じゃあ、リスを危険に晒せって言うんですか?それとも……先生は内心、彼女がこの儀式で死ぬことを望んでいる?どれだけ彼女を憎んでいようと、それは――」
言い終わる前に、顔に衝撃が走った。気づけばネオは芝生に倒れ、エルが彼の襟元を掴み、怒りを露わにしていた。
「口を慎め!クリストを心配する気持ちは分かる。でも、それを理由に何でも言っていいわけじゃない!」
冷静さを取り戻すにつれ、ネオは自分の言葉がどれほど人を傷つけたかを悟る。
「……ごめん。」
「謝る相手は、僕じゃない。」
先生を見ると、そこには苦い笑みが浮かんでいて、後悔が胸を締めつけた。
「本当に……申し訳ありません、先生。」
モーンは軽く息をつき、手を振った。
「もういい。とにかくだ、分かっただろう。どちらの啓が正しかろうと、お前とクネイトが同時に儀式に参加するべきじゃない。何があっても、ミスリの血脈は残さねばならん。」
「……それでも、俺は納得できません。」
「はあ……まったく、頑固な子だ。」
その言葉を聞こえなかったふりをして、ネオは親友でありライバルでもある相手を真っ直ぐに見据えた。
「エル。力で決めよう。俺が勝ったら、今回の和者は俺が務める。」
「嫌だよ。そんなの、僕に何の得もない。」
「怖いの?」
「……は?」
エルが目を細めた瞬間、ネオは挑発するように人差し指をくいっと動かした。
「ずいぶん長い間、本気でやり合ってないだろ?いい機会だ、久しぶりに一戦やろうじゃないか。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エルは目を開き、満天の星をしばらく呆然と見つめてから、ようやく先ほどの出来事が夢だったのだと気づいた。ゆっくりと上体を起こして、誰かに声をかけられた。
「どうしたの、眠れない?」
エルは首を横に振ると、焚き火のそばで夜番をしていたグレイスの隣へ歩み寄った。
「昔のことを夢で見ただけだよ。」
「昔のこと?」
エルが簡単に夢の内容を話すと、グレイスはしばらく黙り込み、それから静かに口を開いた。
「……それは、誰のせいでもないわ。」
「分かってる。分かってはいるんだ。ただ……あのときネオが、あそこまでこだわらなかったら、今ここに座っているのは僕だったのかな、って。」
「今さら考えても意味はないわ。それより私が心配なのはフレイヤの様子よ。あの子、最近ずっと元気がないでしょう。このままだと、儀式に影響が出かねない。」
エルは毛布にくるまって眠るフレイヤを横目で見やり、小さく声を落とした。
「それなら、それでもいい。正直僕は、彼女が歌えなくても構わないと思ってる。」
「……あなた、甘やかしすぎよ。彼女は次代のクネイトになる身なんだから。」
「それでも、まだ十六歳の少女だ。僕たちは、あまりにも多くの責任を背負わせすぎている。」
グレイスはため息をついた。エルの考えに同意しつつも、この話題を続けても結論が出ないことは分かっている。
「それより、もうすぐ国境よ。ソフィットに入ったら、どの道を行くつもり?」
「どうして急に?今までどおり、スモウ川を下ればいいだろ?」
「今年が選挙年だって、忘れたの?」
「……あ、言われてみれば。確かに、それならスモウ川の流域は避けたほうがよさそうだね。」
「どうして?」
思いがけない問いに、エルとグレイスは同時に振り向いた。いつの間にか、フレイヤが目を覚ましていたのだ。
さきほどの会話を聞かれていたかもしれない――そう思い、二人は一瞬だけ気まずさを覚えたが、エルはすぐに気持ちを切り替え、隣の地面を軽く叩いて彼女を呼んだ。
毛布にくるまったまま腰を下ろしたフレイヤに、エルは問いかける。
「ソフィットの選挙制度について、どれくらい知ってる?」
「ええと……六年に一度選挙があって、国内の九大氏族が話し合って二人の候補者を立てる。それから六か月後に、その二人の中から一人を摂政王に選ぶ……だったよね?」
「じゃあ、どうして候補者を立ててから、わざわざ六か月も空けるかは?」
「候補者が各氏族を回って、支持を集めるため……じゃないの?」
「違う。それは表向きの理由にすぎない。実際、その六か月には別名がある。『緋色の六月』、あるいは『ソフィット王の血の道』だ。」
その言葉を聞いた瞬間、フレイヤは察したように息をのんだ。
「つまり、最後は力づくになるってこと?」
「完全にそうとは限らないけど、避けられない部分も多い。
ソフィット共和国が建国されて以来、この六か月は常に、各勢力が企みを巡らせる時期だった。数え切れない暗殺や、水面下での武力衝突も含めてね。」
そう言って、エルは肩をすくめ、苦笑した。
「皮肉な話だよ。本来は民意を反映した指導者を選ぶための制度なのに、歴代の摂政王がその座に就くまでの過程は、他国の王位継承争いよりも、ずっと血生臭くて暗い。」
「だから、スモウ川を避けるの?」
「そう。九大氏族のうち、五つの主要拠点がスモウ川流域に集中しているからね。」
「……随分、詳しいんですね。」
「前回の選挙年に、ちょっとした厄介事に巻き込まれてさ。その後、色々と調べたんだ。」
あくまで軽い口調だったが、フレイヤにはそれが相当辛い経験だったのだろうと、なんとなく分かった。
焚き火がぱちりと小さく爆ぜるのを見つめながら、彼女はしばらく迷った末、意を決して問いかける。
「エル……あなたは、和者になったことを、後悔したことはある?」
エルはグレイスと一瞬視線を交わし、柔らかく聞いた。
「君は、歌い手になりたくないの?」
「違うの。ただ……ううん、やっぱり何でもない。」
礼を欠いていると分かっていながら、フレイヤは一方的に話を切り上げ、元の場所へ戻って背を向けて横になった。結局、彼女は本当に聞きたかったことを口にできなかった。
フレイヤは胸元から小さな薬瓶を取り出し、栓を開けて中の、あまりにも馴染み深い匂いをそっと嗅ぐ。
その瞬間、胸の奥に奇妙なむなしい心持ちが広がった。まるで、そこにあるはずの何かが、いつの間にか失われてしまったかのように。
「ウィンデルがここにいればいいのに……」
自分にしか聞こえないほどの声で呟き、フレイヤは目を閉じた。
もし彼がここにいたなら、もしかすると、自分がずっと求めてきた答えを……本当にくれるのかもしれない。




