65 フレイヤの過去 其の一
その夜、訓練で疲れ切っていたウィンデルは、頭が枕に触れた途端、ほとんど意識が落ちた。そして次の瞬間、目を開くと、そこはどこか見覚えのある居間だった。
「やっぱり、今回は俺がエルの代わりに行ったほうがいいと思うんだ。」
背後から聞こえてきた、聞き覚えのない声に振り返る。方卓の前には、男女が一人ずつ腰掛けていた。男は三十代半ばほど。そして女性のほうは――
(……クリスト?)
すぐに分かった。今よりも、少し若い頃のクリストだ。
「その話は、もう何度もしたでしょう。誓約を破ることが皆の望みだとしても、歌い手を二人同時に失う危険は冒せない。この歌は危険だって、何度も言ったはずよ。」
「君の言いたいことは分かってる。でも、俺も傍にいれば、万が一の確率を限りなく下げられるだろう?それに、何か起きたとしても、二人いれば対処できないはずがない。」
「私は、そこまで楽観できないわ。それより怖いのは……もしもの時に、フレイヤを見てくれる人がいなくなることよ。」
その言葉を聞いた瞬間、ウィンデルの胸に、奇妙な予感が走った。
居間を出てみると、やはり扉がわずかに開いた廊下で、七、八歳ほどの金髪の少女が、膝を抱えて身を縮めている。明らかに、中の会話を盗み聞きしていたのだ。
整った顔立ちを見て、ウィンデルはすぐに確信する。あれは、幼い頃のフレイヤだった。
その時、男の声が再び響いた。
「……縁起でもないことを言うな。」
「ネオ、それはあなたが、フィルの恐ろしさを身をもって知らないからよ。シルシを封印された時、あなたも私と同じ場にいたなら……今、そんなことは言えなかったはず。」
「それでも、俺は君を――」
そこまで言いかけて、ネオは言葉を止めた。直後、木戸が勢いよく開かれる。
扉の外にフレイヤの姿を見つけ、ネオの顔に一瞬、動揺が浮かんだ。だがすぐに取り繕うように微笑み、彼女の前にしゃがみ込む。
「お姫さま、練習はうまくいったかい?」
その優しい声を聞いた途端、フレイヤの目に涙が滲んだ。今にも零れ落ちそうな様子に、ネオは慌てて彼女を抱き寄せる。
「どうした?失敗したって、そんなに落ち込むことはないだろう?」
だが、その温もりが、かえって堪えていた悲しみを溢れさせた。フレイヤは嗚咽を漏らし、泣き出してしまう。
泣き声を聞きつけて、クリストもやって来た。
「ほら、泣かないの。お父さんの言う通り、あなたはまだ七歳よ。気にすることじゃないわ。ママだって、啓を使えるようになったのは九歳の時だったんだから。」
「そうそう。小さな失敗なんて、大したことないさ。パパなんて、啓の修行中、数えきれないくらい失敗してきたんだから。」
両親の言葉を聞いても、フレイヤは鼻をすすりながら、ぶんぶんと首を振った。そして、絞り出すように呟く。
「……わたし、失敗してないもん。」
そう言い残すと、ネオの腕を振りほどき、俯いたまま二階へ駆け上がった。直後、バタン、と大きな音を立てて部屋の扉が閉まる。
残されたクリストとネオは、顔を見合わせた。
「……さっきの話、聞かれてたかしら。」
「たぶんね。」
「でも、内容までは分からないでしょう?」
「……自分の娘を、侮らないほうがいい。あの子は、同い年の子たちより、ずっと大人びてる。」
クリストは小さく息を吐いた。
「そのせいで、あの小さな頭の中で何を考えてるのか、全然分からないのよ。」
「はは、今なら俺の気持ちも分かるだろ?昔、君がよく拗ねてた時、俺も何を考えてるのかさっぱりだった。」
「ふん。あんたみたいな鈍感な人が、よく言うわ。」
「俺が鈍感なら、エルは何だ?超鈍感野郎か?」
「もう……いいから。それより、さっきの話よ。それでもあなたがエルの代わりに行くって言うなら、モーン様に出てきてもらうしかないわ。」
「や、やめてくれ、それだけは。」
ネオは両手を上げ、降参の仕草をした。
「俺からエルと先生に話す。それでいいだろう?だから、この件で先生のところへ行くのはやめてくれ。」
そう言った後、彼は重たく息を吐いた。
「……あのことから、もう五年経つけど。それでも、先生が君を許したとは、どうしても思えない。」
その言葉を最後に、二人は黙り込んだ。長い沈黙の後、クリストが小さく口を開く。
「……分かってるわ。」
両親の会話が止まると、フレイヤは部屋の隅で身を縮めた。気持ちが沈んだ時、いつもそうする癖だ。
こうしていれば、いつの間にか眠って、目が覚めた頃には、たいてい少し楽になっている。
でも、今日はだめだった。
今回、心が沈んでいる理由は、イヴと喧嘩したからでも、ママに叱られたからでもない。未来を、見てしまったからだ。
眠ったくらいでは、変わらない未来。
フレイヤは、何かをしなければならないと分かっていた。
未来は、イヴとは違う。向こうから仲直りしに来てくれることはない。でも自分に、何ができる?どうすれば、パパを助けられる?
そう考えた瞬間、歌の儀式の後、倒れて動かなくなった父の姿が脳裏に蘇り、全身が冷え切った。
その恐怖を振り払うように、フレイヤは自分の頬をぱん、と叩く。
落ち着いて、フレイヤ。ママの口癖を思い出して――少し話して、たくさん考えなさい。
深呼吸し、必死に考え続けた末、ようやく一つの結論に辿り着いた。自分の言葉で、頑固なパパを説得するのは無理。
なら、一番可能性があるのはパパを病気にして、今回の儀式に参加できなくすること。でも……人を突然病気にするには、どうすればいい?
小さな顔をしかめ、必死に考える。
風邪をひかせる?だめ。症状が軽すぎる。きっと、平気なふりをして行ってしまう。
でも、風邪がだめなら……昨日まで元気だった人が、一晩で重い病気になるなんて、聞いたことがない。この方法、無理なのかな……
病気がだめなら、怪我は?ただ転んだ程度の擦り傷じゃ意味がない。でも、あまり大きな怪我をさせるわけにも――
考えれば考えるほど、頭がぐちゃぐちゃになる。その時、コンコン、と控えめなノックの音が、扉の向こうから響いた。続いて、扉の隙間越しに、母の声が聞こえてくる。
「フレイヤ、大丈夫?」
「うん、平気。」
「本当に?」
「ほんとだってば。」
「そう……じゃあね。ママはこれから少し用事で出かけるの。それから、さっき気づいたんだけど、あなたの薬、もう飲み切ってたわね。
特に問題なさそうなら、あとでイヴのおばあちゃんのところへ行って、薬草を分けてもらってきなさい。分かった?」
「分かった。」
「忘れないでね。」
「忘れないってば。」
少し投げやりに返事をした後、フレイヤは不満そうに唇を尖らせた。
まったく、ママったら。よりによって、こんな時にお薬を取りに行けだなんて。今は、それどころじゃないのに……
待って、薬?
その瞬間、フレイヤの頭にひらめきが走った。
そうだ。イヴのおばあちゃんに聞いてみればいいじゃない。
短い間だけ身体の調子を崩すけど、深刻にはならない――そんな薬があるかどうか。
思いついた途端、フレイヤは胸を躍らせ、ナイヴの家へと駆け出した。
今日は誰も診察に来ていないらしく、いつも簡易診察室として使われている居間は、がらんとしている。
じゃあ、多分そこにいる。
そう思い立つと、彼女は迷わず薬品室へ向かった。案の定、老眼鏡をかけたフローラおばあちゃんが、木棚に並ぶ無数の瓶を一つひとつ丁寧に確認しているところだった。
足音に気づき、振り返ったフローラは、フレイヤの姿を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「イヴに会いに来たのかい?」
「ううん、今日はおばあちゃんに用があって。」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待っておくれ。」
フレイヤは言われた通り椅子に腰掛け、フローラが棚から小瓶を取り出すのを眺めていた。
瓶に貼られた〈ディル〉と書かれた札を確認し、栓を開けて香りを嗅ぐ。だが、どうやら納得がいかなかったらしい。
「ちぇっ……イヴの子、またラベルを貼り間違えてるね。」
すっかり慣れっこのフレイヤは、気軽に尋ねた。
「イヴ、またミスをしてしまったの?」
フローラは苦笑いを浮かべる。
「そうなんだよ。時々は、あの子もあんたを見習って、もう少し丁寧になってくれたらいいんだけどね。」
「でも、おばあちゃん。イヴの性格、私は好きだよ。むしろ、私のほうこそ、イヴから学びたいくらい。」
「それだけは、あの子の口からは絶対に出てこないだろうね。」
フローラは困ったように笑いながら、瓶に〈フェンネル〉と書かれた新しい札を貼り直した。
「それで……今日は薬を取りに来たのかい?」
「うん。それもあるけど、聞きたいこともあって。」
「ほう?どんなことだい。」
「しばらくの間、ずっと眠くなっちゃうような薬とか、薬草ってありますか?」
フローラは少し考えてから答えた。
「いくつか心当たりはあるけど……何に使うつもりなんだい?」
フレイヤはごくりと唾を飲み込み、用意してきた言葉を、できるだけ平静に口にした。
「昨日、ロアルおじいちゃんが、最近よく眠れないって、パパに愚痴ってるのを聞いたんです。だから、少しでも眠りやすくなる方法がないかなって思って……」
疑う様子もなく、フローラは頷き、棚から別の小瓶を取ってフレイヤに差し出した。
「これは、バレリアンの根を加工した粉薬だよ。使い方は、ロアル様も知っているはずさ。前にも不眠で、私のところへ来たことがあるからね。とりあえず、これを渡してあげるといい。」
「でも……もうすぐ、おじいちゃんの誕生日なんです。できれば内緒で治してあげて、驚かせたいなって……」
その言葉に、フローラはくすりと笑い、慈しむようにフレイヤの頭を撫でた。
「お馬鹿だねぇ。不眠なんて、数日で治るものじゃないよ。でも、その気持ちは嬉しいね。じゃあ、バレリアンの使い方を教えてあげよう。」
そう前置きしてから、真剣な口調になる。
「よく聞くんだよ。バレリアンには、鎮静と安眠の効果がある。薬性もそれほど強くはない。
それでも、短期間に摂りすぎると、頭痛や胃痛、強い倦怠感……場合によっては、もっと重い副作用が出ることもある。
ロアル様の年齢なら、五日間続けて、一日に一度、白湯に小さじ一杯のバレリアン粉を混ぜて飲ませるだけで十分だ。
覚えておきなさい。小さじ一杯だけ。お湯は、熱すぎちゃだめだよ。」
心の中で何度も復唱し、フレイヤは嬉しそうに頷いた。
「分かりました。ありがとうございます、おばあちゃん!」
「普通なら、五日もすれば効いてくるはずさ。もし効かなかったら、また来なさい……いや、その時は、ロアル様ご本人に来てもらおうかね。」
「はい。」
口ではそう答えながら、フレイヤは心の中で思っていた。
五日経っても効果がなかったら――それでは遅い。なぜなら、五日後こそが、ママたちの出発の日なのだから。
薬瓶を胸元にしまい、部屋を出ようとした時、フローラが不意にフレイヤの腕を引き、真剣な表情を向けた。
「待ちなさい。まだ大事なことがある。粉が余っても、決して他の人に使わせちゃいけないよ。
ロアル様は、この薬草にアレルギーはないけど……体質によっては、短時間でひどく具合が悪くなる。場合によっては、命に関わることもあるんだ。」
一言一言を頭の中でなぞり、きちんと覚えたことを確認してから、フレイヤはそっとフローラを抱きしめた。
「全部、覚えました。本当にありがとうございます、おばあちゃん。」
フローラは手を振って応え、薬棚からもう一包み取り出して差し出す。
「ほら、あんた自身の薬も忘れずにね。」
「ありがとうございます。」
バレリアンの粉と普段の薬草を大事そうに胸に抱き、フレイヤは薬品室を後にした。だが、数歩進んだところで、背後から小さな呟きが聞こえてくる。
「はぁ……本当に、気の利く子だねぇ。あの子も、少しは見習ってくれればいいのに。」
フレイヤは、もちろん言い返しには戻らなかった。けれど、本心では、そうは思っていなかった。
自分のように狡くて、自分勝手な悪い子なんて、イヴの足の指一本にだって、及ぶはずがないのだから。




