63 ウィンデルの決意
クリストは、まるで質問に答える気など全くない様子だった。
椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外の空を見つめている。まるで自分の世界に沈み込んでしまったかのように、口を開く気配すら感じられない。
しばらくの沈黙が続いた後、彼女は突然立ち上がり、足早にリビングを出て行ってしまった。残されたのは、ウィンデルとナイヴだけ。
二人は顔を見合わせ、互いの目に浮かぶ困惑を読み取った。
「クネイト様、これは……答えたくないって意味ですか?」
ウィンデルは答えなかった。でも、心のどこかで、ナイヴの言うような単純な話じゃない気がしていた。そして、その予感はすぐに正しかったことが証明される。
クリストが再びリビングに戻ってきたのだ。今度は、手に古びた羊皮紙の巻物を携えて。
テーブルに近づくと、彼女は慎重にそれを広げた。ナイヴが内容を見て、確認するように言った。
「これ……大陸の地図ですか?」
クリストは小さく頷き、ちらりとウィンデルに視線を向けた。
「フレイヤがどこへ行ったのか、知りたいんだろ?今から教えてやるよ。」
そう言って、彼女は地図の中央を指差した。南北に大陸を横断する大河だ。
「この川、わかるか?」
「イテナ川……ですよね?」
「正解。」
次に、クリストの指はイテナ川の中流、東側に横たわる東西方向の山脈へと移った。
「この山脈は?」
「えっと……大東山脈、だったかな?」
ウィンデルはぼんやりと思い出した。昔、父親が話してくれた物語の中で、この大陸で二番目に長い山脈として出てきたのを。
「その通り。」
今度は指をさらに南東へ滑らせた。
「この一帯だ。大東山脈の南、イテナ川の東の土地が、全部ソフィット共和国の領土になる。ほら、この川、見えるだろ?」
今度は、大東山脈から真っ直ぐ南下して海へ注ぐ一本の川を指した。
「これがスモウ川だ。スモウ川の河口から海岸沿いに東へ、百三十~四十キロメートルほど行ったところ……それがフレイヤの目的地であり、お前が夢で見た神殿の場所だ。
あの神殿で儀式が行われる。地元じゃ『海のホール』とか『巨人の爪』って呼ばれてるが、私たちは『春分点』と呼ぶ。」
ウィンデルは彼女の指を追って地図を見た。確かに、右下の隅に赤いインクで三角形の印が付けられている。
「どうして春分点って言うんですか?」
「春分の日ってのは、季風が北東風から南東風に切り替わる分岐点だ。あの神殿は大陸中で、一番はっきりその変化を感じられる場所なんだよ。同時に、その日一番風が強い場所でもある。」
「ではなぜそんな場所にシルシを封印しようとしたのですか?」
クリストは当然のように答えた。
「そりゃあ、歌が成功しやすくなる条件が揃ってるからに決まってるだろ。シルシを封印するためだけでなく、春分に歌を使う時は、私たちはあの場所を選ぶんだ。」
それでもウィンデルがまだぽかんとした顔をしているのを見て、彼女は小さくため息をついた。
「詳しい理由は、後でモーン様に聞いてくれ。」
「……とにかく、春分の日にフレイヤはここで歌を使うってことですね?」
「そうだ。」
「それで、私たちの今の場所は?」
クリストはイテナ川の上流、左側に位置する、丘に囲まれたあまり目立たない一帯を指した。
「ここが風域だ。」
「ふうん……結構遠いですね。ここから春分点まで、どれくらいかかるんですか?」
「馬なら大体一ヶ月。でも、風乗りを使って昼夜問わず急げば、十二、三日で着くはずだ。」
ウィンデルは頷き、隣のナイヴに視線を移した。
「君は行く?」
ナイヴは一瞬きょとんとして、それからようやく意味を理解した。
「直接追いかけるつもり?」
「当然だろ。」
「で、春分点に着いたら?」
「もしあの儀式が本当に危険なものなら……フレイヤを止めるよ。」
そう言いながら、ウィンデルはクリストの反応を窺った。意外にも、彼女は驚く様子も不快な表情も見せず、ただ静かに聞いている。それが逆に妙だった。
この儀式は彼女の意思でやっているんじゃないのか?それなのに、儀式を邪魔すると言っても動じないなんて……
クリストは肩をすくめ、まるでウィンデルの心を読んだかのように言った。
「実はな、今回の歌は十年前みたいに危険になるとは思ってない。だからこそ、フレイヤと和者にだけ任せられたんだ。」
「そんな自信があるってことは……フレイヤに何が起こるか、知ってるんですね?」
「…………」
沈黙。答えがないことに、ウィンデルの苛立ちが募る。
フレイヤが危険に晒されるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。
「シルシを封印した後、一体何が起こったんですか?」
「答える必要はない。」
「ありますよ!」
「ない。モーン様は誓約のことだけ答えてくれた。だから私も、一つだけ答えればいい。私が答えることにしたのは、シルシはどこに封印されたという質問よ。」
結局、一番大事な答えが得られなかった。ウィンデルは我慢できず、勢いよく立ち上がった。
「ナイヴ、行こう。ここにいても意味ない。」
「え?でも……」
ナイヴが慌てて声を上げたが、ウィンデルはもう足早に出口へ向かっていた。迷っている彼女は、追いかける前に小さく声を掛けた。
「クネイト様、実は……一つだけ聞きたいことがあるんです。」
「イヴ、遠慮しなくていい。言ってみな。」
「ウィンデルの夢に出てきた、赤髪の少年……タランって子。あれって、合衆國の王、テレニ・ディーゼルのことですよね?」
クリストは少し目を見開き、苦笑いを浮かべた。
「どうしてわかったんだ?」
「えっと……直感?父さんが昔、話してくれたんです。前代のクネイト様が……」
言いかけたところで、クリストは手を上げて制した。
「もういい。そういうことは、心にしまっておくんだ。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
隣の部屋から、ガサガサと慌ただしい物音が聞こえてきた。モーンは再び、避けられないものは結局やってくるのだと思い知らされた。
ドア枠に寄りかかりながら、彼は冷ややかな目でウィンデルが慌ただしく旅支度をする様子を眺め、口を開いた。
「お前ら、さっきクネイトのとこに行ってきたのか?」
「ええ。」
「何を言われた?」
「あなたが教えてくれなかったこと。」
「だから今度は一人で春分点に行くつもりか?」
「ナイヴも一緒に来てくれます。」
モーンは眉を上げ、大きくため息をついた。
「ガキ。お前、本当に俺が黙って見送るとでも思ってるのか?」
「……僕が行くのに、あなたの許可が必要だなんて思ってませんけど。」
「必要だ。」
「理由は?」
「簡単だ。お前は俺の弟子だからな。」
ウィンデルは手を止め、目を細めてモーンを見た。
「じゃあ、僕がもう弟子じゃなくなったら?」
「それでも行かせん。」
「今度はなぜです?」
モーンは皮肉っぽく笑った。
「ただの老いぼれの我儘さ。」
「…………」
言葉に詰まったウィンデルを前に、モーンの表情が一転して真剣になった。
「仮に俺が止めなかったとしても、正直言って今の程度のお前じゃ、フレイヤの役に立てるのか?ましてや止めるなんて話はなおさらだ。」
「でも……悪いことが起こるってわかってて、何もしないでここにいるなんてできないですよ!」
「そういう気持ちはわかる。だがそれは、お前自身にそれ相応の実力があってこそだ。
何もできないまま無謀に春分点へ向かうことだけは、絶対に許さん。ただ同じく、実力はあるのに何もしないなら、俺は厳しく叱るぞ。」
老人のその言葉は、どこか既視感があった。
ウィンデルはふと、かつて自分が父親を救えなかったと悟った時、クリストに言われた言葉を思い出した。
「……つまり、実力が十分に強くなったら、行かせてくれるってことですか?」
「その通りだ。」
「でも春分まで、もう一ヶ月もありません!今から始めたって……」
「それはお前の努力次第だ。もし半月以内に俺が教えるものをマスターできたら、そこから急げば間に合う可能性もある。」
ウィンデルは眉を寄せた。
老人は本当に時間を稼いで儀式に間に合わせないつもりなのか、それとも本気でそう思っているのか、一瞬判断がつかなかった。
だが考えてみれば、もしモーンが本気で止めようとするなら、ナイヴがいても二人の力では逃げ切れないだろう。
つまり、今は素直に提案を受け入れるしかない。
「……わかりました。学びます。」
「かなり厳しいぞ?そのくらいはわかってるよな?」
「これが唯一の方法だって言ったじゃないですか。」
老人はしばらく沈黙して、首を振った。
「どうしてそこまでフレイヤを止めたいんだ?」
ウィンデルは拳を握りしめ、低い声に深い悔恨が滲んだ。
「よく知ってるんですから。こういう他人のためだけの行動が、絶対に良い結末を迎えないってことを!
たとえ誓約を破ることに成功したって、フレイヤは何を得るんですか?彼女がそんなことをするのは、ただ母親の頼みだから、ただ村人たちの望みだから……
いつも他人のことばかり考えてたら、最後に後悔するのは絶対に彼女自身ですよ!」
そう言いながら、ウィンデルの脳裏に父親が処刑される光景が蘇った。
そうだ、こんなことは絶対に、絶対に良い結果になんてならない……
初めて見るほど激昂したウィンデルの姿に、モーンは何か思い出したように、考え込む表情を浮かべた。
「お前の言い分、矛盾してるぞ。フレイヤに後悔させたくないから止めるって言うなら、それこそ他人のためだけの行動じゃないか?それとも、お前自身が何か得られると思ってるのか?」
「それは……」
ウィンデルが言葉に詰まった瞬間、澄んだ声が響いた。
「ウィンデル、荷物できた?」
二人は声の方を見た。窓枠に軽やかに腰掛けたナイヴが、そこにいた。
ウィンデルはモーンをちらりと見て、小さくため息をついた。
「ごめん、どうやら今すぐには出発できなさそうなんだ。」
ナイヴは驚いたように目を瞬かせた。
「今はダメなの?じゃあいつ?」
モーンが咳払いをして代わりに答えた。
「ウィンデルが俺の教えるものを身につけるまでだ。」
ナイヴは少し躊躇い、囁くように言った。
「でもモーン様、それじゃあ……間に合わないかもですよ?」
「間に合わなくても仕方ない。」
「そんな!」
モーンをこれ以上怒らせないよう、ウィンデルは急いでナイヴの耳元に口を寄せた。
「無駄だよ。もうモーンが決めたんだから、僕も従うしかない。」
「……モーン様が何を教えるつもりかはわからないけど、本当に短期間で覚えられるの?聞き手って最初は風の術の習得が遅いって聞くけど……」
「僕にもわからない。でも、絶対に早くマスターするよ。」
そう言って、ナイヴの不安げな表情を見ると、ウィンデルはすぐに期限を決めた。
「三月七日。」
「……え?」
「今から春分まであとほぼ一ヶ月ある。三月七日に出発すれば、あと十五日で急げば間に合う。あの日の朝八時に、フレイヤの家の前で待ち合わせだ。」
「……すっぽかすなんてしないよね?」
「絶対しない。」
そう約束しながら、ウィンデルは心の中で固く決めた。
モーンが教えてくれるものを、最速で身につける。
これからは、もう何もできない無力な自分ではいたくない。




