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62 嫌な記憶

 断崖の上に建つ神殿の前で、二人の女性が並んで立っていた。まるで、誰かの訪れを待っているかのように。


 轟音とともに、荒れ狂う波が断崖へと叩きつけられ、無数の白い飛沫となって砕け散る。


 海沿いに延々と続く切り立った断崖。


 その一角には、自然の造形とは思えぬほど海へと突き出た部分があり、まるで巨人が伸ばした指のような姿を形作っていた。


 多くの人々はそれを自然の産物だと信じているが、一方で、古代に海の向こう側へと続いていた橋が崩落し、その名残として残ったものだと考える者もいる。


 ふいに、年長の女性が口を開いた。


「リス。『遠古の道』と『巨人の指』、あなたはどちらの呼び名が好き?」


 名を呼ばれた若い女性――リスは、思わず唇を尖らせた。


「違いなんてあるの?どっちにしたって、人の勝手なこじつけでしょ。」


「違いはあるわ。後者は、ただこの奇観の形を表しているだけ。でも前者には、憧れも込められている。」


「……憧れ?」


「ええ。ここではない、もっと素晴らしい世界があると信じる憧れ。あるいは、この戦乱の絶えない世界から逃れたいという憧れ。」


「……母さん、それはさすがに考えすぎだと思う。」


「そうかしら?」


 母がどこか気にも留めないような口調で問い返した瞬間。長いあいだ胸の内に溜め込んできたものが、リスの中で一気に溢れ出した。


「母さんは、感情に流されすぎなの!何でもかんでも考えすぎて、誰かが犠牲になるかもしれないって思った途端、決断できなくなる。


 だからいつも、一番果断で、最善の判断ができないんだよ!わかってる?私から見たら……母さんは、クネイトとして失格だ!」


 怒りを剥き出しにして言い切ったリスは、母が激昂するものだとばかり思っていた。


 だが、予想に反して、年長の女性はただ苦笑を浮かべただけだった。


「きっと、ずっと前からそう言いたかったのね。」


「……うん。」


 反抗心を宿した娘の視線を受け止め、年長の女性は静かに息をついた。


「実はね、私自身も、ここ数年ずっと考えていたの。自分のやり方は間違っていたんじゃないかって。


 あなたの言う通り、もう少し果断でいられたなら、多くの人は今よりずっと幸せになれたかもしれない。その代わりに、ほんの一握りの人が……取るに足らない代償を払うだけで。」


「だったら、どうして――」


 言い終える前に、母はそれを遮り、断崖の縁にそびえ立つ神殿へと視線を向けた。


「いい?もしあなたが、この神殿を一人で清掃する役目を負っているとするわ。この広さじゃ、一日で全部を掃除するのは不可能。


 でも神殿は開放的な造りで、ここは海風も強い。一日経てば、昨日掃除した場所にも、また砂埃が積もるでしょう。そのとき、あなたならどうする?」


 意図の読めない問いに首を傾げながらも、リスは少し考えて答えた。


「目立つ場所を優先して、毎日そこだけは必ず掃除する。そうすれば、奥まった場所が多少汚れてても、神殿全体は汚く見えないから。」


「じゃあ、目立たない場所は放っておくの?」


「時間が限られてるなら、そうするしかないでしょ。」


「でも、もしあなた自身がその見捨てられた石板だったとしたら?」


 リスは小さく溜息をついた。


「母さん。石には考える心も、感情もない。」


 年長の女性は、静かに頷く。


「ええ、そこが大事なところ。石にはなくても、人間にはある。もしあなたが犠牲にされた側だったら……自分を切り捨てた権力者を、恨まずにいられる?」


「絶対に恨まないとは言えない。でも、為政者の立場に立ったなら、そんな感情論に振り回されるべきじゃない。」


「感情論に振り回されるのは本当に無意味なのかしら?一人の価値が、多くの人の命を合わせたものより低いと、どうして断言できるの?」


「母さん、それは倫理と実務の違いだよ。倫理の話なら、いくらでも時間をかけて議論できる。でも実務では、限られた時間の中で、最大の効果を出す決断をしなきゃいけない。」


「でも、倫理は実務の指針じゃないの?」


 再び投げかけられた問いに、リスの苛立ちは募るばかりだった。


「母さん、実務はいつだって妥協だよ。倫理は、その妥協を決めるための材料の一つに過ぎない。全部じゃない!」


 そのとき、年長の女性はじっと娘の瞳を見つめた。その視線に触れた瞬間、リスは顔を背ける。


 彼女は昔から、母の――優しくて、それでいて心の奥まで見透かすような、その眼差しが苦手だった。


「リス……あなたが自分の考えを正しいと信じるのはいい。でも、覚えておいて……私を見なさい、リス。」


 渋々、リスは母と視線を合わせる。


「人生もまた、妥協の連続なのよ。」


 その言葉が終わると同時に、パカパカ、と馬の走る音が二人の耳に届いた。


 振り返ると、赤髪の少年が馬を駆ってこちらへ全速で駆けてくるところだった。近くまで来たところで手綱を引き、馬を止めると、軽やかに鞍から飛び降り、二人に向かって頭を下げる。


「遅れてしまって、すみません。」


 年長の女性は、穏やかな微笑みを浮かべた。


「構わん。来てくれただけで十分よ。長旅、ご苦労さま。」


 そのやり取りを横で聞きながら、リスは胸の奥に小さな棘が刺さったような気分になった。


 距離で言えば、自分と母はこの場所まで、彼のほぼ倍は歩いてきている。それでも、そんなことで噛みつけば、あまりに器が小さい。そう思い、何も言わずに飲み込んだ。


「では、時間も惜しい。すぐに始めよう。風向きも、変わり始めている。」


 年長の女性はそう告げ、リスと赤髪の少年が頷くのを確認すると、先頭に立って神殿の中へと足を踏み入れた。


 断崖に築かれたその神殿は、すべて白い石材で組み上げられている。


 数十本にも及ぶ古の石柱は、精緻な彫刻によって名を馳せており、大陸各地にはこの神殿を模した建築が数多く存在する。壮麗さで知られる合衆国の王宮――白陵でさえ、その一つに過ぎない。


 三人は白い石柱が連なる回廊を進み、風化して亀裂の入った古いアーチをくぐり抜け、神殿最奥の海に臨む円形広場へと辿り着いた。


 広場の周囲には、一定の間隔で石柱が立ち並び、境界を形作っている。


 だが不思議なことに、それらの柱は何かを支えているわけではなく、まるで白い蝋燭のように、ただ天へと伸びているだけだった。


 年長の女性は広場の中央まで歩み出ると、海に向かって静かに胡坐をかいた。


「……母さん。本当に、私の手伝いはいらないの?」


 娘の不安げな表情に、年長の女性は微笑んで首を振る。


「リス、あなたはそこで見ていて。これは、あくまで私自身が下した決断。だからこそ、責任も私が背負う。私を適任なクネイトだとは思っていないかもしれないけれど……


 一つだけ誇れることがあるとすれば、私は決して、自分の責任を他人に押し付けてこなかった。お願い、最後までこの誇りだけは貫かせて。」


 その言葉に、リスは何も言えず視線を落とし、二歩ほど下がった。赤髪の少年もまた、言葉にできない思いを滲ませた表情を浮かべる。


 年長の女性はそっと目を閉じる。


 やがて、彼女の唇から紡がれた旋律が、古き神殿の隅々へと広がり、海風に乗って、千年の時を刻む石柱の間に反響していった。


「♪~

 我らの運命を導くのは

 見えざる神なんかじゃない

 この町で共に生きること

 それかもしれない


 曲がり角での出会い

 ふとした微笑み

 軽い挨拶ひとつで

 道が繋がっていく


 いったいどんな風の吹き回し

 こんな場所に集まったんだろう

 あまりにもたくさんの偶然か

 それとも たくさんの縁か


 酒に酔ったあなたが

 笑いながら聞いてきた

『運命って、いったい何? 』

 私はグラスを揺らし

 こう答えただけ


 それは複雑で でも単純

 時間と空間を巻き込むから複雑

 でもたった一瞬の出会い

 それだけで単純なんだ~♪」


 母がこの歌を選んだと知り、リスの胸中は複雑に揺れた。


 それが、最初の臨界者――グレイヴ・ミスリが、親友との初めての出会いを記念して作った歌であることを、彼女はよく知っている。そして同時に、母がこの歌を選んだ理由も。


 言うまでもなく、隣に立つ赤髪の少年も理解しているはずだった。


 高らかな余韻が消えた、その瞬間。海風が、ぴたりと止んだ。


 違和感を覚え、リスは反射的に上を見上げる。案の定、半空にいつの間にか裂け目が生じ、そこから淡い翠色の風が、楽しげに広場へと吹き込んできていた。


 その風が気ままに舞う様子を見ているうちに、重かったリスの表情も、いつしかわずかに緩んでいく。


「これが……デライ……」


 そのとき、年長の女性は一度大きく息をつき、赤髪の少年へと手を差し出した。


「タラン、お願い。渡して。」


 デライの影響を受けたのか、少年はいつもより軽やかな足取りで前に進み、懐から黒い短棒を取り出して手渡す。


 女性がそれを受け取り、頭上高く掲げた瞬間、翠の風が唸り声を上げた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……それで、その先は?」


 話を続けないウィンデルに、ナイヴが堪えきれず問いかける。彼はちらりと彼女を見て、肩をすくめた。


「その先はね。僕の部屋に無断で入り込んできた客が、遠慮なく僕を叩き起こしたんだ。」


 ナイヴの頬が、一瞬で真っ赤に染まる。


「で、でも、あのときは本当に緊急事態だったんだよ!」


「別に、起こされたことを責めてるわけじゃない。ただ質問に答えただけさ。」


「……っ。性格悪い。」


 ウィンデルはナイヴを相手にするのをやめ、石像のように固まったままのクリストへと視線を移した。


「これは、実際に起きた過去なんだよね?」


「……ええ。」


 クリストは、喉を絞り出すようにしてその二文字を口にした。まさか、この世に、あの忌まわしい過去を知る第三の人物が存在しているとは、夢にも思っていなかったのだ。


 相手の肯定を受け、ウィンデルは小さく呟く。


「やっぱりそうか……」


 長らく彼を悩ませてきた疑問の一つが、これでようやく繋がった。


 これまで見てきた、あまりにも生々しい夢――その大半は、実際に起きた出来事だったのだろう。


 なぜそれらが夢として甦るのかは分からないが、今は追及すべき時ではない。


「それじゃあ……あの場所がどこだったのか。そして、そのあとに何が起きたのか。どうか、教えてください。」



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