60 誓約
清々しい朝の陽射しが窓から差し込み、雀のさえずりが新しい一日の始まりを告げている。
だが、外の爽やかで活気あふれる空気とは裏腹に、部屋の中の三人は重い表情を浮かべていた。
「念のため、もう一度確認させてくれ。あなたが知りたいのは、誓約の『内容』――それで間違いないな?」
まるで言葉尻を突くかのようなモーンの言い方に、ウィンデルは思わず眉をひそめた。しかし、自分の問いが間違っているとは思えない。
「はい。僕が知りたいのは、あなたがご存じの誓約の内容、そのすべてです。」
「では、どこから話すのがいい?」
「ええと……まずは、今の時点で僕が理解している誓約の内容と、そこから生じた疑問を整理して話します。その上で、足りない部分や間違っている点を補足していただければ、その方が効率的かと。」
「なるほど。それも悪くない。では、始めよう。」
「フレイヤから聞いた話では、未来を予知することへの『一部の対価』として、王室はミラージ村の税収をすべて臨界者に与えた、ということでした。
でも、どうしても腑に落ちない点があります。いくら税収が豊かだとしても、予言という、一国を滅ぼしかねない力と釣り合うとは到底思えません。」
そこでウィンデルは一度言葉を切り、頭の中を整理してから、改めて続けた。
「つまり、もしこれが対等な誓約だとするなら、重要なのは税収以外の『別の報酬』が何なのか、という点になります。
でも、フレイヤはこの誓約は対等ではないとも言っていました。一方で、クリストが誓約を破ろうとしたことからも、臨界者がこの誓約に不満を抱いているのは明らかです。
それなら、なぜ最初からこんな誓約を結んだのか。僕には、王室が臨界者を脅せるほどの力を持っているようには思えません。」
話し終えたとき、気のせいか、隣にいるナイヴもまた、モーンの答えを待ちきれない様子に見えた。
――おかしいな。彼女は臨界者なのだから、すでに知っていても不思議じゃないはずなのに。
モーンは顎鬚を撫でながら言った。
「分析は見事だ。しかし、二つほど誤りがある。
まず最初の間違いだが、ミラージの税収は誓約とは無関係だ。それは我々臨界者が本当に求めた報酬ではない。せいぜい、王室から贈られた『贈り物』に過ぎない。
そして二つ目の誤りなのだが、王室には確かに我々を脅かす力がある。とはいえ、この誓約を提案したのは、王室ではなく臨界者の側なんだ。」
それを聞いたナイヴは、思わず声を上げた。
「じゃあ、本当の報酬って何なの?」
ウィンデルとモーンは同時に彼女を見た。ウィンデルの顔には「どうして知らないんだ?」と言いたげな困惑が浮かび、モーンは「やはりか」と納得したように小さく頷いた。
「やはり……ファロールは、娘にも真実を明かしていなかったようだな。」
「それって、父がずっと私を騙していたってこと?どうしてそんなことを……」
モーンの威厳を前に、ナイヴは感情をあからさまにはしなかったが、その言葉には確かな疑念が滲んでいた。
「……わしが話したところで、君は信じるか?」
「信じないって決めつける前に、ちょっとくらい話してみたらどうですか?」
その強情な態度が癇に障ったのか、モーンは目を剥き、低く叱りつけた。
「小娘、誰に向かって口を利いているのか、わきまえなさい。わしは君に説明する義務などない。ただの『ついでに話している』だけだ。
もしわしを不快にさせるなら、今すぐ家から追い出しても構わない。理解したか?」
その剣幕に怯えたナイヴは、慌ててウィンデルの背後に隠れ、小さく答えた。
「……わかった。」
「それで結構。」
二人に挟まれたウィンデルは気まずさを覚えると同時に、違和感も抱いていた。
モーンが、こんな些細なことで声を荒らげる人物ではないことを、彼は知っている。これはナイヴの態度のせい?それとも……彼女が導き手だから?
モーンは鼻を鳴らし、話題を元に戻した。
「ウィンデル。なぜ臨界者が自ら誓約を持ちかけたのか、少し考えてたか?」
「……正直、見当もつきません。」
ナイヴは恐る恐るモーンを見やり、思い切って口を挟んだ。
「でも、簡単じゃない?もし王室に本当に私たちを脅せる力があったなら、先代のクネイト様が一族を守るために自ら弱みを見せたって、別に不思議じゃないでしょ?」
「違います。それでは筋が通らない。」
ナイヴは不満そうに唇を尖らせた。
「どこが通らないの?」
ウィンデルは小さく息をつき、辛抱強く説明する。
「考えてみて。もし王室が臨界者を脅せる力を持っていたなら、未来予知という恐ろしいほど魅力的な力を前に、向こうから要求を突きつけてくるはずだ。
でも、実際には王室は終始、受け身だった それが意味するのは一つ――王室は、臨界者の存在自体を知らなかった、ということだ。
そして、それはとても自然な話でもある。臨界者は、普通の人間が立ち入れない風の都に住んでいたんだからね。
でも、そうなると今度は、臨界者が自ら誓約を申し出たことが矛盾してくる。存在を知られていないのに、なぜわざわざ自分から名乗り出たのか。まるで、罠があると分かっていながら、自分から飛び込むようなものだ。」
モーンは満足そうに頷いた。
「その通り。王室は当時、臨界者の存在を知らなかった。罠の例えも、あながち間違いではない。結果だけ見れば、我々は愚かにも、自ら罠を踏みに行ったようなものだったのかもしれん。
だが、見方を変えれば、罠に踏み込むことが決しておかしな選択じゃない場合もあるんだ。」
「この世に、わざと罠に踏み込む人なんて……」
ウィンデルの言葉に、ナイヴも大きく頷く。
モーンは静かに溜息をつき、老いた顔に苦笑を浮かべた。
「いるよ。目の前に残された道が、それしかないのなら、たとえ罠があろうとも、進まねばならない時が。」
「唯一の道……臨界者は、王室から一体何を得ようとしたんですか?」
「これまで通りの生活。」
思いがけない答えに、ウィンデルとナイヴは同時に言葉を失った。
「……え?」
「聞き間違いではない。我々臨界者が望んだのは、ただ現状を保つこと。我ら一族が、これからも『臨界者』として生き続けられるようにすること。
言い換えれば、我々が求めたのは……臨界者として生きる権利、そのものだったんだ。」
フレイヤと和者たちが出発してから二時間後。
モーンの家では、ウィンデルとナイヴが、あまりにも衝撃的な事実を前に言葉を失っていた。
「……理解できません。」
「では、どこが分からないのか言ってみなさい。」
「先ほど、当時の王室は臨界者の存在を知らなかったとおっしゃいましたよね。
だとすれば、たとえ王室が臨界者を滅ぼせる何かを持っていたとしても、臨界者が恐れる必要はなかったのでは?風の都に隠れ続けていれば、王室が矛先を向けることもなかったはずです。」
「違う。王室が握っていた『それ』には、標的そのものが必要なかったんだ。正しい人物が、正しい方法で使えば、臨界者が持つ力をすべて一括で消し去ることができる。」
その言葉に、ナイヴが思わず声を荒げた。
「そんなもの、あるわけないだろ!」
「では逆に聞こう。この世に、臨界者などという存在がいること自体、あり得ると思う?」
あまりにも簡潔な返答に、少女は言葉を詰まらせた。
モーンは立ち上がると、ウィンデルのベッド脇の小さな引き出しを開け、中から一本の黒いものを取り出す。
ウィンデルが目を凝らすと、それはフレイヤから借りていた短棒だった。
「これは、あんたが襲われた夜、あんたのそばに落ちていたものだ。クネイトか、フレイヤから渡されたものだろう?」
ナイヴは驚いたように瞬きをし、ウィンデルを見た。
「襲われた?誰に?」
ウィンデルは手振りで、今は口を挟まないでほしいと示す。
「……その通りです。フレイヤから借りました。」
「やっぱりな。その夜、最後に何が起きたか、覚えているかい?」
「最後……?あなたが助けてくれたんじゃないんですか?」
「厳密に言えば、わしは間に合っていなかった。あの時、何らかの特殊な力が一時的にリヴィアスの攻撃を防いでくれた。そのおかげで、わしが駆けつけるための時間が稼がれたんだ。
詳しい仕組みまでは分からないが、あなたを救ったのは多分この短棒だろう。」
ウィンデルは半信半疑のまま、老人の手にある、なんの変なところもない黒い短棒を見つめた。
「……そう判断した根拠は?」
「その短棒こそが、臨界者の能力を消し去るために必要な媒介だからだ。我々はそれを『シルシ』と呼んでる。」
再び言葉を失った二人をよそに、モーンは淡々と続けた。
「もっとも、シルシは短棒だけじゃない。ほかにも、もう一つ何かが含まれている。ただし、それが何なのか、能力を消す具体的な方法が何なのか、わしも知らん。」
「つまり、この短棒が誓約の始まりだった、ということですか?」
「そう言っても差し支えないだろう。
かつて、どのような因果かは分からんが、フレイヤの祖母――すなわち、先代クネイトは王室が近い将来、シルシを用いて臨界者の力をすべて消し去るつもりだと知った。
そこで彼女は自ら王室に近づき、年に一度、未来予知を行うことを条件に、臨界者が能力を保持し続けることを求めた。それが、誓約の真実だ。」
「だったら、なぜシルシを盗み出そうとしなかったんです?シルシさえ奪えば、王室は臨界者を脅せなくなるはずでしょう。」
「理屈の上ではそうだが、当時は……事情が少々複雑だった。
結果として、双方が一方的に誓約を破らないよう、先代クネイトは五組あるシルシのうち、四組を大陸の四隅に封印したんだ。」
「……待ってください。シルシは五組もあるんですか?」
「ええ。そしてわしの知る限り、そのうち一組だけは、臨界者の力を完全には消せない。」
「じゃあ、クリストが言っていた『誓約を破る』って……」
モーンはゆっくりと頷いた。
「無論、王室に知られぬよう、そのシルシをすべて手に入れるつもりだったんだ。」
そのとき、これまで大人しくしていたナイヴが、ついに堪えきれず口を開いた。もっとも、先ほどのモーンの剣幕がよほど堪えたのか、いつもの率直さは影を潜め、慎重な口調だった。
「モーン様……失礼ですが、どうしても腑に落ちません。もし今のお話が本当なら、これまで私たちが聞いてきた誓約の内容と、あまりにも違いすぎます。」
「君の言う『私たち』とは、誰のこと?」
ナイヴは一瞬、言葉に詰まった。
「えっと……少なくとも、私の知る限りでは、友達もみんな、誓約については私と同じ理解でした。」
「『全員』だと?フレイヤも含めて?」
その問いに、ナイヴは気まずそうに視線を逸らす。
「それは……フレイヤはあまり誓約の話をしたがらなくて。だから私も、なるべく触れないようにしてたの。」
「では、フレイヤはさておき。君の友人の中に、聞き手の子はいるかい?」
ナイヴはしばらく黙り込み、やがて小さく答えた。
「……いません。」
「それなら、答えは明白だろう。自分でよく考えてみなさい。」
そう言い残すと、モーンは話を打ち切るかのように立ち上がり、扉へ向かった。それを見て、ウィンデルが呼び止める。
「モーン、まだ質問があります。」
「……何だろう。」
「今回、フレイヤは誓約を破るために、どこへ向かったんです?」
「それは、わしが答える義務のある範囲じゃない。」
ウィンデルは思わず言葉を失った。
「どうしてです?それも誓約の一部じゃないんですか?」
「違う。シルシを封印したのは、あくまで後になって王室の了承を得た『付帯条件』に過ぎない。それは、誓約の『内容』じゃない。」
そう言い終えると、老人は部屋を出て行った。その場には、立ち尽くすウィンデルと、眉をひそめて考え込むナイヴだけが残される。
やがて階下から、鍋や器がかすかに触れ合う音が聞こえてきた。どうやら、モーンは朝食の準備を始めたらしい。
その音を聞いて、ウィンデルはようやく悟った。
会話の冒頭で、老人がまるで言葉尻を突くように問い返してきたあの一言の、本当の意味を。




