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59 前奏

長きにわたる悔恨と

数え切れぬ悲しみが

彼らを導き

世界の果てへと辿り着かせた


大陸の南東に佇む海の神殿よ

絶え間ない波は

まるで告げているかのようだ

引き潮の後に訪れる

計り知れぬ寂しさを


運命の前に

望まずとも

手放せなかったものを

少年は静かに呟く


祭壇の上に

すでに失いながら

決して失わなかったものを

少女は涙とともに差し出す


ああ、心の複雑さを知らぬ悪戯な神よ

その業がどれほど残酷かを

思い知ったことはあるのか


こうして迷いを断ち切った少女は

己の信じる道をためらいなく進む

だが少年はさらに彷徨い

どこへ行くべきかと躊躇する


少年よ

この頑固な老いぼれの偏った言葉に

少しだけ耳を傾けてくれ

迷うことを恥じるな

迷った末の答えこそが

この世界の永遠の真理なのだから


『フェイト・ワインダ、第四曲』

――グレイヴ・ミスリ

 両親の願いどおり、ポレティ・セスは女の子として生まれた。


 それだけで、少なくとも王室が再び徴兵を始めたとき、たった一人の我が子を国家に無慈悲に奪われる心配はしなくて済む。


 世間では、女の子は農作業では男の子ほど役に立たないだとか、どうせ娘は嫁に出るものだとか、そんな声が大半を占めていたが、ポレティの両親はそこまで考えていなかった。


 ただ、生きていてくれればいい。それが、彼らにとって唯一の願いだった。


 だが残念なことに、そのたった一つの願いでさえ、運命は容赦なく打ち砕いた。


 ポレティは大人しく成長し、気づけば領内の実直な農家の少年と恋に落ちてもいた。


 それでも……それでも彼女は、穏やかな人生を手にすることはできなかった。


 なぜなら、彼女は暗殺者だったからだ。


 合衆国の第一王子を暗殺せよと命じられ、そして失敗した暗殺者。


 ポレティは目を開けると、思わず何度も瞬きをした。天井近くの小窓から差し込む陽光が、闇に慣れた牢獄の中ではあまりにも眩しかったのだ。


 どうして、私はここにいる?


 その疑問が真っ先に浮かんだが、考えるまでもなく、すぐに眠気は霧散し、意識は完全に覚醒する。すると、脳裏に冷ややかな声が響いた。


『馬鹿ね。失敗したからに決まってるでしょう。』


 失敗の可能性を考えなかったわけではない。だが、成功まであと一歩というところでの失敗は、さすがに胸に堪えた。


 今になって思えば、王子と一緒に船倉の小部屋に身を潜めていたあの時、さっさと殺しておくべきだったのだ。


 あのとき手を出さなかったのは、王子を殺した直後に外の仲間が押し切られれば、自分は逃げ場を失うと判断したからだった。


 殺して、なおかつ混乱に紛れて逃げられる機会。


 そんな理想的な瞬間を待った結果、最後まで訪れることはなかった。


 ……いや、機会自体は確かにあった。ただ、彼女が掴み損ねただけだ。もっとも、厳密に言えば、それも彼女だけの責任ではない。


 まさか上から派遣された協力者のミットの芝居が、あそこまで下手だとは思いもしなかったのだから。そのせいで、あの忌々しい青い目の小僧に事前に勘づかれてしまった。


 そのことを思い出し、ポレティは隣に横たわる男――ミットを睨みつけた。だが、視線を向けた途端、怒りは萎んでしまう。


 荒くなったり浅くなったりを繰り返す呼吸と、深く寄せられた眉。彼が安らかな眠りについていないことは一目でわかった。悪夢でも見ているのだろう。


 ……無理もない。


 ポレティの視線は、彼の左手へと移る。


 ひどく腫れ上がり、乾いた血にまみれた指先が、小刻みに痙攣していた。


 まったく、誰がこんな悪趣味な拷問を考え出したのだろう。


 鉄棒で指を挟み込まれる、あの「いっそ死んだ方がまし」と思うほどの激痛を想像しただけで、ポレティは背筋に寒気を覚えた。


 彼女自身もその痛みを知っている。もっとも、それは拷問ではなく、組織で『拷問に耐える訓練』として味わったものだったが。


 どっちも同じくらい異常じゃない?


 ポレティは小さく息を吐いた。


 牢の中では、時間だけは腐るほどある。 だから、くだらないことを考えて時間を潰すしかない。人は時間まで潰せるのに、他人を殺せないはずがあるだろうか。


 ましてや、いつでも代わりが利くような暗殺者なら、なおさらだ。自分が百回死んだところで、組織の上層部は眉一つ動かさないだろう。


「あ……」


 その瞬間、ポレティはすべてを悟った。


 そもそも、いつ暗殺を決行しようと、ポレティ・セスは死ぬ運命だったのだ。


 小舟の上で成功していれば、矢の雨に射殺されていた。


 成功直後に川へ潜っても、追いついた組織の仲間に口封じとして殺されていただろう。


 そして今ここでは、自分かミットのどちらかが口を割った時点で、王族暗殺未遂の大罪により即刻死刑だ。


 どうして、私の運命はこうなった?


 あの薄暗い路地へ足を踏み入れ、誰かに渡された短剣を手に取った瞬間から、ポレティ・セスという少女の運命は決まっていたのだろうか。


 いや……もっと前から、すでに決まっていたのかもしれない。


 記憶が、逆流するように次々と蘇る。


 小麦袋を担いで市場へ向かう途中、偶然組織の募集話を耳にしたとき?


 それとも、母が日々涙に暮れ、村人たちが陰で私を指さしていた頃?


 ノアが私の訴えを聞き、怒りに任せて領主の城へ兵士たちに抗議しに行き、三日後、畑脇の用水路で死体となって見つかったとき?


 それとも、必死に抵抗してもなお、酒に酔った領主兵に穀倉の隅へ引きずられ、押さえつけられ、蹂躙されたあのとき?


 あるいは貧しい農家に、女として生まれ落ちたその瞬間から?


 ポレティは大きく息を吐いた。


 不思議なことに、今となっては、もう涙は出なかった。きっと、とうに流し尽くしてしまったのだろう。あるいは……最初から、憎しみしか残っていなかったのかもしれない。


 貧しい両親への憎しみ。


 無力な自分への憎しみ。


 卑劣な兵士たちへの憎しみ。


 彼らを放置した領主への憎しみ。


 領主に権力を与えた王室への憎しみ。


 この国への憎しみ。


 この世界への憎しみ。


 ……そして、この忌々しい運命への憎しみ。


 ポレティは怒りに任せ、床を強く殴りつけた。しばらくして痛みが引くと、ようやく頭が冷えてくる。


 最後の最後に、私は何ができる?せめて、復讐になることを。


 牢の中を行き来し続けるうち、ふと一つの計画が浮かんだ。


 自分が考えたとは思えないほど、妙に冴えた策だった。それでも、ごく自然に脳裏へと形を成して現れたのだ。


 もしかすると、一度も味方してくれなかった神が、最後にくれた施しなのかもしれない。


 そうだ。この言葉を審判長の前で口にすれば、権謀術数に明け暮れる王族どもは、きっと宮廷を大混乱に陥れる。


 運が良ければ、合衆国どころか――いや、この大陸全土が、戦火と混沌に呑み込まれるだろう。


 そうしてやる。


 笑いながら人生を謳歌している連中にも、私が味わってきた痛みを。


 そこまで考えたところで、ポレティは満足そうに口元を緩めると、すぐさま扉の前へ歩み寄り、鉄格子を力いっぱい叩き始めた。


 当然、床に横たわっていたミットは、その騒音で一瞬にして目を覚ます。


「う……何があったんだ?ポレティ?」


 完全に意識が戻ったミットは、慌てて手を伸ばし、ポレティの腕を掴んで制止しようとする。


「正気かよ!こんなことしてたら、看守が来てひどい目に遭わされるぞ!」


「そんなの、知ったことじゃないわ!」


 ポレティは荒々しくミットの手を振り払った。


 そうだ、どうでもいい。むしろ看守が来てくれなければ困るくらいだ。


「おい!誰か来い!お前らの上の人間に伝えなさい、私が自白するって!聞こえないの!?この馬鹿ども!自白するって言ってるのよ!」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 午前三時頃、フレイヤはふと目を覚ました。


 上半身を起こし、眠気の残る目をこすると、ふわりとした金色の髪が無造作に肩へと流れ落ちる。だが、今はそれを整える気分にはなれなかった。


 今日だ。今日が、出発の日。


 そう思った途端、胸の奥に得体の知れない不安が広がった。それは、自分が歌を成功させられないからではない。風の術に関して言えば、フレイヤは自分の力に強い自信を持っていた。


 では、なぜ?


 精神面でも、とっくに覚悟はできているはずだ。これは、いずれクネイトの名を継ぐ者として背負う数多の責務の一つに過ぎない。大したことではない。


 本当に、大したことではないはずなのに。


 しばらくぼんやりしたあと、フレイヤは強く頭を振った。


 どうして、こんなにも胸騒ぎがするのだろう。まるで何か良くないことが起こる前触れのような。


「そんなに早く起きなくてもよかったのに。」


 不意に、静寂を破る懐かしい声が、扉の方から聞こえた。顔を上げると、暗がりの中、扉枠にもたれかかるクリストの姿がかすかに見える。


「母さん、まだ起きてたの?」


「ええ。」


「眠れなかった?」


「いいえ。ただ、急いで片付けておきたい用事が少しあっただけよ。」


「……噓。」


 クリストは答えなかった。しばらくしてから、低く小さな笑い声が聞こえる。


「ふふ、やっぱり隠せないわね。この勘の鋭い子には。それじゃ、起きたついでに準備して、居間に来なさい。エルたちはもう来てるわ。」


「うん、わかった。」


 木の床を踏む足音が遠ざかるのを聞きながら、フレイヤは胸の不安を振り払うことにした。ベッドを降りて手早く身支度を整え、一階の居間へと向かう。


 長机の上にはいくつものオイルランプが並べられ、その淡い光に照らされて、机を囲む七人の姿が浮かび上がっていた。クリストもその中にいる。


 フレイヤの姿に気づくと、実年齢よりずっと若く見える男が、朗らかに声をかけてきた。


「よぉ、姫ちゃん。久しぶりだな。」


 その呼び方を耳にした瞬間、フレイヤの表情がすっと曇る。


「お久しぶりです、エル。でも、その呼び方はおやめください。」


 露骨に拒まれ、エルは気まずそうに頭をかいた。


「悪い、冗談のつもりだったんだ。」


「いえ……それより、右足の具合はいかがですか?」


「右足?」


 唐突な問いに一瞬戸惑ったものの、すぐに思い当たったらしく、エルはぽんと手を打った。


「ああ、十年前に怪我したときのか?あれならもうとっくに治ってる。まったく問題ないよ。」


「そうですか。それなら、よかったです。」


「そんなに心配することでもないさ。それにしても、久しぶりに会って真っ先にその話題が出るとは驚いたな。そんなに印象に残ってたか?」


 そう問われた瞬間、フレイヤの表情がわずかに強張ったが、すぐに平静を取り戻す。


「当時は、とても重傷に見えましたから。だから、覚えていただけです。」


「ははは。そんなふうに言われると、幼い心にトラウマでも残しちゃったみたいだな。悪かったよ。」


 フレイヤは丁寧に微笑んだが、その笑みが心からのものではないことは明らかだった。


 そこへ、クリストが口を挟む。


「はい、そこまで。雑談は後にしてちょうだい。フレイヤ、この六人が、今回あなたを補佐する和者よ。ここ十年、ずっと私を支えてくれていた人たちでもある。だから、歌の前に何か迷いがあったら、まずは彼らに相談しなさい。」


 フレイヤは真剣な面持ちでうなずき、六人に向かって深く一礼した。


「皆さま、歌を詠唱するのは今回が初めてです。至らない点も多いと思いますが、どうかよろしくお願いいたします。」


 長机に座る六人――先ほどまで和やかだったエルも含め、全員が表情を引き締め、簡潔に礼を返した。


 その中で、背の高い痩せた女性が口を開く。


「気にしないで。誰にだって最初はあるわ。ただ、一つだけ、必ず心に留めておいてほしいことがあるの。」


「はい。」


「今回の歌が、私たちが和者として立つ最後の機会になるかもしれない……意味は分かるわね?」


「……はい。」


「それでいいわ。フレイヤ、あなたはもうすぐクネイトになる。対して、私たち六人は風前の灯火のような存在。


 だから、もし今回の儀式で前回のような事態が起きても、私たちの身を案じてはだめ。何よりも、自分の命を最優先しなさい。


 もちろん、私たちも全力であなたを守る。必要とあらば、盾にしてくれて構わない。いいわね?」


 揺れる灯火が、フレイヤの整った横顔を照らし、逆光側には淡い影を落とす。その陰影が、彼女の輪郭をいっそう際立たせていた。


 その清楚で凛とした横顔を見つめながら、エルは一瞬、これが彫刻家が魂を削って彫り上げた傑作ではないのか、と錯覚しそうになる。


 だが、現実は違う。


 芸術品に心はなく、言葉を発することもない。


「……よく分かっています。」


 ましてや、たった一言で、これほどの重みを帯びた言葉になるはずもなかった。


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