5 裂け目の儀式
「まさか忘れたなんて言わないでしょうね。儀式を始める前に、先に『アレ」を渡してもらわないと。」
白いローブの女が右手を差し出すと、年配の王族は数秒ためらったあと、懐から小さなガラス瓶を取り出して彼女に手渡した。女は瓶の中身をちらりと見てから、彼の苦い表情に気づいたのか、口の端で冷たく笑う。それから振り返り、ほかの者たちに言った。
「準備して。風向きが変わるよ。」
若い二人の王族はすぐに後ろへ下がり、残りの六人は前へ出た。白ローブの女と視線を合わせるや否や、七人は一斉に動き始める。女が左右へ腕を広げた瞬間、まるで魔法のように、雪原の一角がすとんと沈み込んだ。
見えない棒を突き立てたように、そこだけが異様に凹む。そしてその凹みはじわじわと広がり、雪を深く削りながら線を描いていく。線は伸び、曲がり、再び伸び、最後には女を中心とした巨大な正六角形になった。
ぽかんと見つめていたウィンデルの前で、六人は示し合わせたように六角形の角へ移動する。七人がお互いを一度だけ見て、そして目を閉じ、腕を広げ、天へ向かって祈るように頭を上げた。ウィンデルは興味と混乱で胸がいっぱいになり、瞬きすら忘れていた。
その時、白ローブの女の歌声が、ふいに森へ溶けていった。その声は空気を震わせるように澄んでいて、深くて、どこか懐かしい。風さえも歌に耳を澄ませるようにぴたりと止まり、世界が息を潜める。
覚えているかい
長く短かった輝かしい歳月を
君が、わたしと共に歩んでくれた
恐ろしく曲がりくねった心の谷を
君が、優しく寄り添ってくれた
あの大雪が舞う午後に
旅は終わりを迎えた
だがわたしは未だに知らない
春風のような君が
どの神から遣わされたのか
ああ、吐いた息が白く消える
まるで世界の果てまで一緒に来てくれた君を悼む
青い瞳の少女よ
わたしの悔恨は、君に届くだろうか
果てない白昼の悪夢は
終わりなき冬の
絶望的な永夜のようだ
森にゆっくり広がる旋律は、その瞬間を永遠みたいに閉じ込めた。歌が抱える哀しみは、その場の誰の心にも染み込んでいく。さっきまで軽蔑の色を見せていた若い王族でさえ、わずかに目を伏せていた。
歌声が空気の中へと溶けていくにつれ、空き地には突然、鋭い悲鳴のような強風が巻き起こった。雪面を引き裂くように吹き荒れ、大量の雪が舞い上がる。その変化に気づいた六人の白衣の者たちは、すぐさま両手を頭上へ掲げ、何かを呟き始めた。純白の袖が風に翻り、まるで嵐の中に取り残された小舟の帆のように、ぱたぱたと揺れ続ける。それでも、不思議と裂けることはない。
やがてウィンデルは、吹き荒れる風が六角形に沿うように、つまり白衣の女を中心に、渦を描き始めているのを感じ取った。
まさか、風を操っている……?こいつら、一体何をしようとしているんだ?
息を呑んだウィンデルの目の前で、巨大な六角形へと流れ込む風が……色を帯び始めた。虹色に輝くつむじ風が女の周りで狂ったように渦を巻き、混ざり、叫び声を上げる。そして、女は迷いなくガラス瓶を地面に叩きつけた。
ぱりん――
砕けた瓶からこぼれた赤が、雪の上にゆっくり染み広がっていく。すると七色の風は一気に整い、視界の中にひとつの映像を描き始めた。
――村だ。
いや、村だった場所だ。
焼け落ちた黒焦げの家々。まだ煙を上げているものもある。そしてなぜか、ウィンデルには見覚えがあった。年配の王族がぽつりと言う。
「ブレット、分かるか?」
「サーチとの国境の村じゃないかな……名前は、たしか……ヴィーゲル。」
……え?ヴィーゲル!?
二人の会話が耳に入った瞬間、ウィンデルは思わず息を呑んだ。
いやいや、この前行った時は普通に元気だったじゃないか。なんで……こんな……?
ウィンデルが住むハサードと一番仲の良い村は国境向こうのヴィーゲルだ。ハサードは合衆国領、ヴィーゲルはサーチ領、本来なら国を跨ぐ交易には、面倒な手続きや許可が山ほど必要になる。だが、北方の辺境に暮らす人々の生活はどこも苦しく、国境を守る兵士たちも、そのあたりの事情はよく分かっていた。だからこそ、彼らはこの手の「違法ではあるが、害のない取引」については、あえて見て見ぬふりをしているのだ。
そうした事情もあって、ハサードの村人にとっては、たまに北地まで商売に来る旅商人を除けば、ヴィーゲルこそが最も大切な取引相手だった。困ったときには互いに助け合い、大きな祭りの時期には一緒に祝うことさえある。そんな関係だったのに、今ウィンデルの目の前に映っているのは、ただの廃墟。
頭が真っ白になり、何も理解できないまま、映像は次々に別の村や町へ切り替わっていく。どれもこれも、戦火で焼け落ちた地獄の光景。
「これはエレック村……次はウッドの町……」
王族二人は映った村の名をひとつずつ控えていく。どうやらすべてサーチ側の町らしい。そして映像が進むにつれ、首都に近づいているようだった。ついに映し出された最後の大都市――それがサーチの首都であることは、ウィンデルにすら分かった。
しかしその首都は、火の海だった。崩れた城門から押し寄せる無数の兵士。その鎧に刻まれているのは、合衆国の紋章。
「……最終的に西の城門から突破したというわけか。」
やがて風は弱まり、映像は薄れていく。七色の渦が完全に消えると、六人は腕を下ろし、疲れ切ったように息を吐いた。年配の王族はしばらく空を見つめ続け、それから白ローブの女に向き直った。
「ご苦労だった。最後に、一つだけ聞かせてほしい。」
「どうぞ。」
「今のところ、僕らの間柄はまだ良好な協力関係ってことでいいんだよな?」
女の表情が一気に冷え込む。
「遠回しな言い方は嫌いよ。私たちが何かしたというなら、証拠を見せなさい。」
「証拠はない。ただ、奇妙な出来事があってね。」
「奇妙な出来事?」
「長いこと追っていた相手がいて、最近ようやく手がかりを掴んだと思ったんだ。だから信頼できる部下を向かわせた。だが……全員、消息を絶った。」
女は鼻で笑った。
「つまり相手に返り討ちにされたんでしょう?部下の無能を私たちのせいにしないで。」
「彼らほど無能から遠い存在はいない。」
「そう?あなたと私では基準が違うみたいね。」
王族の拳がぎゅっと握られた。煽られて怒りがにじむが、必死に抑えこんで話を続ける。
「その相手は、あなたも知っている。名前はザグフィ・フェイト。」
「なるほど。じゃあ、あなたの部下も無駄死にではなかったわけね。」
年配の王族は女を鋭く見据えたが、恐れも罪悪感も見えない。
「……いい。いまのは忘れてくれ。」
「今日いちばんの正しい判断ね。将軍、まだ作戦会議があるんでしょう?ここで時間をつぶしてる場合じゃないわ。早く行きなさい。」
王族たちは一斉に立ち去った。女だけは裂け目のそばに少し残り、そして去り際に、ウィンデルの隠れている茂みをちらりと見た。女が完全に消え、森に静けさが戻った頃、ようやくウィンデルはへなへなと肩の力を抜いた。
だが安堵も束の間、頭の中は新たな動揺でいっぱいになる。だって、あの二人が口にしていたザグフィ・フェイトって名前は、紛れもなく、彼の父親の名前だったからだ。
明日夜12時後続きます!
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