58 風の思い出 其の二
「ねえ、信じる?」
「え?」
「風ってね、世界と世界のあいだの隙間から吹いてくるんだって。」
「つまり、他にも世界があるってこと?」
「あり得るでしょ。どうしてリンゴの木に、リンゴが一つしかないって思うの?」
「……確かに。」
「でしょ?ただね、私ちょっと考えちゃって……」
「何を?」
「もし風がもっと強かったら、ほかのリンゴも吹き飛ばして、こっちに運んできたりしないのかなって。」
合衆国暦五十八年
大陸最北の地――粉雪が絶え間なく舞う雪の山脈、その北東部の一角。冷杉の森に囲まれた、なだらかな雪の斜面に、六十名余りの人影が集っていた。
これほどの人数がいながら、正直なところ、隣の峰から見下ろしたとしても、そこに人が集まっているとは気づきにくいだろう。
降りしきる雪で視界が悪いこともあるが、何より彼ら全員が、雪景色に溶け込む純白のローブを身にまとっていたからだ。一人の例外もなく。
「リス、準備はいい?風向きが変わり始めたわ。」
その声に、集団の中にいたクリストという名の女性が、はっと我に返ったように顔を上げる。
「ええ、ネオ。始めましょう。」
ネオは小さくうなずき、隣に立つ五人と視線を交わした。
次の瞬間、六人はまるで何度も稽古を重ねてきたかのように、それぞれ自分の持ち場へと散っていく。誰一人として位置を間違えることはなかった。
雪原に六つの人影が等間隔で並び、その配置はまるで巨大な正六角形の頂点をなぞるように整然としていた。
準備完了を確認すると、クリストは他の者たちに向かって声を張り上げた。
「皆さん、少し離れてください。これから儀式を始めます。」
人々は素直に後退し、彼女たちの周囲に十分な空間を空けた。やがてクリストは立ち上がり、ゆっくりと一周するように身体を巡らせる。
その視線は、彼女を囲んで雪の上に座す六人を、一人ひとり確かめるように追っていった。その瞳には、誰もが揺るぎない覚悟と、強固な信念を宿している。
ただ一人を除いて。
彼だけが、意志が弱いわけでも、信念が薄いわけでもない。それらに加えて、彼の目には、別の何かが確かに宿っていた。
その名は、ネオ・ビトレット。
クリストを見返すその眼差しには、彼女への絶対的な信頼と、どんな時も彼女を救い続けてきた、決して変わることのない優しさがあった。
その視線を受け、クリストは決意を固める。
この優しさに、二度と失望させるわけにはいかない。絶対に。
「……皆さん、始めます。」
大きく息を吸い込み、クリストは歌い出した。
最初は、かすかなハミングに過ぎない。
だが、そこに感情を、想像を重ねていくにつれ、澄み渡るようなメロディーが生まれ、風に、そして雪片に乗って、静まり返った銀白の大地へと広がっていく。
――開いて。
心の中で、クリストは祈る。
――私の呼びかけに応えて。冬のフィルよ。
その瞬間、年中吹き荒れていた山風が、ぴたりと止んだ。しかし、彼女を補佐する六人は動じない。彼らが本当に驚愕したのは、その直後に現れた光景だった。
これまでの経験では、風が止めば、和者たちの描く六角形の中央に、華やかな虹色の風が現れるはずだった。
だが、今現れた異界の風は……氷の青だった。
ネオを筆頭とする六人の和者は、即座に目を閉じ、全神経を歌の補佐へと集中させる。
やがて青い風は、クリストの周囲を高速で旋回し始め、降り積もる白い雪と混ざり合って、白と青が交錯する氷の旋風を形作った。
そのとき、鋼鉄のように冷たい声が、突如としてクリストと六人の和者の脳裏に響き渡る。
『グレイドの民よ……汝は、何故我を呼んだ』
思わず身がすくむほどの威圧を帯びた声。
中でも、その重圧を最も強く感じていたのは、他ならぬクリストだった。それでも彼女は、あらかじめ覚悟していた恐怖を必死に押さえ込み、かろうじて平静を保つ。
「……かつて、あなたにお預けしたものを、取り戻すためです。」
しばしの沈黙ののち、再び声が響く。
『では……我があの時、告げた言葉を、汝は覚えているな?』
クリストは喉を鳴らし、意を決して答えた。
「……覚えています。」
その瞬間、異界の風が完全に静止した。六角形の内側では、青い風の筋が宙に張り付いたまま止まり、幻想的でありながら、どこか不気味な光景を作り出している。
異変に気づいたクリストは、即座にネオへ顎で合図を送った。
(他の五人を連れて、下がって。)
ネオは唇だけを動かして問いかける。
(本当に、大丈夫なのか?)
それに対し、クリストは迷いなく、力強くうなずいた。
彼女の決意を信じ、なお残る不安を胸に抱えながらも、ネオは他の和者たちを率いて、少し離れた森の中へと退いた。
『……彼らを守りたいのか』
冷たい声が、そう問う。
「ええ。」
クリストは、はっきりと答えた。
『では、あそこで立っている他の同胞たちはどうだ?彼らは、守るに値しないというのか』
「そうは言いません。ただ、先ほどの六人は、私の村にとって、より重要な存在なのです。」
『ほう?だが我には、彼らの命の価値に、さほど違いがあるようには見えぬがな』
「あなたには、そう映るのでしょう。ですが、『価値』というものの基準が、あなたと私とで同じだとは思っていません。」
それを聞くと、あの声は笑った。しかし、その笑い声ですら、背筋を凍らせる冷たさを帯びていた。
『ふふ……よく喋る女だ。だが考えたことはあるか?お前が“彼らの価値が違う”って線引きした瞬間、もう人間の価値そのものを否定してるだろ?』
「構いません。それ以前に、私はもっと重い罪を、すでに犯していますから。」
クリストの断固とした返答に、その声はしばし沈黙し、やがて再び響いた。
『なるほど……お前は、我が見てきた人間の中でも、ひときわ冷たい部類に入るようだ』
クリストは何も答えなかった。自分ではそう思っていなくとも、この世界の尺度で測るなら、自分は確かに、酷く冷酷な人間なのかもしれない。
「フィル様、私があなたを呼んだのは、価値や人の在り方を論じるためではありません。」
『分かっているさ、冷淡な子よ。だが同時に、お前も知っているはずだ。それを望むなら、相応の代価を支払うことになる……ふむ、“お前の基準”に照らしても、決して小さくはないがな』
「承知しています。」
『よし。ならば無駄話はよそう。条件は単純だ。お前たちが、己の内なる恐怖を乗り越えられたなら――望むものは、自ずと姿を現すだろう』
「問題ありません。」
条件を受け入れたその瞬間、試練が始まることを悟ったクリストは、即座に叫んだ。
「皆さん、構えてください!」
だが、背後から返事はなかった。不審に思い振り返ったクリストは、思わず息をのむ。
ほとんどの者が地に跪き、身体を抱きしめるようにして震えていた。まるで、穏やかな春の日差しの中から、一瞬で極寒の冬へと突き落とされたかのように。
「皆さん、落ち着いて!一体、どうし――」
言い終える前に、クリスト自身の胸にも、言葉にできないほどの恐怖が、底からせり上がってきた。
間違いない。同胞たちを呑み込んでいるのも、まさにこの恐怖だ。
それでも、クリストはクネイトだった。かろうじて自我を保ち、直感に導かれるまま上空を仰ぐ。
そこには、数階層分はあろうかという高さの半空に、一本の裂け目が走っていた。その亀裂から、凄まじい勢いの青い風が、絶え間なく噴き出している。
裂け目がさらに広がった、そして――紺色の巨大な斧を握る、大きな手が異界の向こうから伸びてきた。
その光景に、クリストは思わず息を呑む。
あの斧だけで、五階建ての建物に匹敵する大きさだ。
すると、あの鋼鉄のような声が、愉快そうに、そして恐ろしげに笑った。
『どうやら、お前の同胞たちの恐怖は、お前自身よりも、ずっと深いところに根付いているらしいな』




