57 お知らせ
それから数日間、モーンはウィンデルに一切の風の術の訓練をさせなかった。
自分から教えると言い出した張本人が、一度教えただけで突然やめてしまう。ウィンデルにとって、それはどうにも腑に落ちない話だった。理由を尋ねても、返ってくるのは決まって、「数日待て」その一言だけ。
あまりに同じ返答が続くものだから、しまいには「もしかして、自分はもう先の段階に進みすぎたのでは?」などという錯覚まで覚え始めていた。
だが、何を言ってもできることは待つだけだ。しかも不思議なことに、モーン自身も何かを、あるいは誰かを待っているように見えた。
ここ最近、老人は以前にも増して考え込むことが多く、その視線もしばしば、谷間に広がる村の方角へと流れていた。
やることがないせいか、ウィンデルはふと、しばらく顔を合わせていないフレイヤのことを思い出す。
今ごろ、何をしているんだろう。
自分がまだ初歩も初歩の風の術を学んでいると知ったら、あの人は半分冗談めかした顔で、才能がないってからかうだろうか。
そんなことを考えて、ウィンデルはくすりと笑い、すぐに思考を切り替えた。
例の「質問」を、真剣に考えなければならない。
モーンは、修行についていけている限り、できるだけ質問に答えると言っていた。
だが常識的に考えれば、訓練が進むほど難易度は上がり、いずれついていけなくなる可能性も高い。そうなれば、質問できる機会は確実に減っていく。
モーンは自分の両親について詳しくない。ならば、今は質問の機会を温存しておくべきか?
いや、そういえば、クリストも同じ条件を受け入れてくれていたはずだ。ということは、今からでも彼女に質問していい、ということになるのか?
そんなことを考えていると、扉の向こうから、老人の低い声がした。
「ウィンデル、先に休むぞ。」
「うん、おやすみ。」
隣の部屋の扉が閉まる音を聞きながら、ウィンデルは小さく息を吐いた。
気づけば、もう一週間が過ぎている。いったい、いつになったら、モーンは次の段階を教えてくれるのだろう。
月明かりが窓から差し込み、暗い部屋を淡く照らす。その銀白色の光を見つめているうちに、幼い頃の記憶がふと蘇った。
窓辺に一人座り、外の白銀の世界を眺めていた時間。あのときも、ただ待っていた。
黒い軍用コートを着た男が、久しぶりに雪を踏みしめ、遥かな視界の果てに現れるのを。
その夜も、ウィンデルはいつも通り奇妙な夢を見ていた。
だが今回は、登場する人物がすべて見知らぬ者というわけではなく、舞台もどこか見覚えのある海辺の神殿だった。
夢の中で交わされる、意味の掴めない会話に耳を傾けていると、遠くから強引に割り込んでくる声があった。
――おい!ウィンデル!起きろ!
最初は無視して夢に集中しようとしたが、すぐに、さらに切迫した声が響く。
――おい、聞こえてるだろ!起きろって言ってる!
次の瞬間、激しく体を揺さぶられ、ウィンデルは跳ね起きた。そのまま勢いよく頭を突き出し、目の前の「犯人」に直撃する。
「いっ……痛っ……」
「いたたた……なにするのよ……」
その声を聞いた瞬間、まだ寝ぼけた頭に、ひとつの名前が浮かんだ。
「……ナイヴ?」
その通りだった。彼の肩を掴んで揺さぶっていたのは、額を押さえてうずくまる少女――ナイヴだった。
「起きた瞬間に頭突きとか、普通しないでしょ!」
「……ごめん。それで、どうしたの?どうしてこんな時間に?」
窓の外を見ると、空はまだ薄暗い。どう見ても、太陽は昇ったばかりだ。そのとき、隣の部屋からモーンの声がした。
「小僧、どうした?」
まだ眠気の残る声色で、先ほどの騒ぎに起こされたのが明らかだった。
「大丈夫です。起こしてしまって、すみません。」
そう答えてから、ウィンデルは改めてナイヴを見る。モーンがすぐ隣にいると知った途端、ナイヴはどこか落ち着かない表情になった。
なぜか、彼女はモーンをひどく怖がっているようだった。音を立てまいと声を潜め、問い詰めるような視線を向けてくる。
「……どうして、フレイヤの見送りに行かなかったの?」
思いがけない問いかけに、ウィンデルは一瞬言葉を失った。
「……見送り?」
「そうよ。フレイヤ、今日まだ夜が明ける前に出発したの。村の人、ほとんど全員が見送りに行ったのに、あんたは行きもしないで、ここでぐっすり寝てたなんて!あんたたち、仲良かったでしょ?」
ナイヴは言葉を重ねるほどに苛立ちを募らせ、もともと小さく愛らしい顔立ちは、まるで霜を被ったかのように冷え切っていく。
夢と現実の落差にまだ頭が追いついていないウィンデルは、怒りを向けられながらも、必死に状況を整理しようとした。
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて……今、フレイヤが出て行ったって言った?どこへ?」
ナイヴは首をかしげ、怒りの色を疑問に変える。
「……まさか、誰からも聞いてないの?フレイヤ本人からも?」
「何を?」
「歌い手を務めるって話よ。」
ウィンデルはぱちぱちと瞬きをし、驚きを隠せずに言った。
「フレイヤが、歌を?どうして?」
その反応を見て、ナイヴは頭を抱えた。
「はあ……信じられない。村中その話題でもちきりだったのに。」
「えっと……最近、ずっと村に行ってなかったんだ。前に君と会ってから、今まで。」
「どうして?」
「少し前に怪我をしてさ。しばらく動きづらかったんだ。やっと治ったと思ったら、モーンに、まだ自分を守れないうちは一人で村に行くなって言われてて。」
「怪我?なんで?」
一瞬、ウィンデルは言い淀んだ。リヴィアスに襲われた話をするのは、同情を引こうとしているみたいで気が引けたのだ。彼はすぐに話題を切り替えた。
「それはいいから。まず教えて、どうしてフレイヤが歌を使うことになったの?」
ナイヴはため息をつき、ベッドの縁に腰を下ろした。
「……分かった。あんたが本当に何も知らなかったってことは、もう理解したわ。いい?フレイヤは誓約を破るために、歌の儀式を行うつもりなの。それに、彼女が歌を使うのはこれが初めてだ。
でもね、本当の問題はそこじゃない。その儀式自体が、とても危険だってこと。」
「危険?どういう意味?」
「十年前、クネイト様も同じ理由で同じ儀式を行ったの。そのときは、歌い手だったクネイト様と、彼女を補佐する六人の和者を除いて、周囲で待機していた導き手は全員死亡した。」
「……生き残りは、誰も?」
ナイヴは重々しく首を振った。
「一人もいない。儀式の途中で、他の世界から来た怪物が現れたらしいの。そこから一気に大混乱になって……
戦いの中で、事前の指示で遠くに下がっていた和者を除けば、生き残ったのはクネイト様だけ。しかも、命を取り留めたのは本当にぎりぎりだったって。」
「……全部で、何人亡くなったんだ?」
「五十八人。」
ウィンデルの顔から、さっと血の気が引いた。
風の都の住民はせいぜい数百人。その中で五十八人という数字が、どれほど大きいかは言うまでもないことだ。
多数の臨界者を皆殺しにし、あの強大なクリストでさえ死にかけた――そんな怪物の力とは、いったいどれほどのものなのか。
なぜか、ウィンデルの脳裏に、かつて夢で見た青い巨人の姿がよぎった。
「……今回、フレイヤ以外に同行したのは、何人?」
「和者が六人だけ。」
思わず、声が大きくなる。
「はあ!?それじゃ、最初から死にに行けって言ってるようなものじゃないか!」
「……私もそう思う。でも、クネイト様が強く望んだの。」
そう言って、ナイヴは力なく俯いた。実のところ、彼女がウィンデルのもとを訪ねてきた理由は、フレイヤを見送りに行かなかったことを責めるためだけではない。
親友として彼女を案じる気持ちと同時に、何もできない自分自身への無力感に、押し潰されそうになっていたのだ。
誰一人としてクネイトの決定に疑問を呈さない友人や家族に囲まれる中で、ナイヴは薄々感じていた――今、自分を助けてくれるかもしれないのは、ウィンデルしかいない。
沈黙するウィンデルを見つめながら、ナイヴは喉を鳴らし、不安げに尋ねた。
「私たち、どうすればいいの?」
「……儀式が行われる場所、分かる?」
「知らない。フレイヤ、教えてくれなかった。」
ウィンデルは眉を寄せ、しばらく考え込んだ末、ある程度の方針を定めた。視線を扉の方へ向けると、案の定、騒ぎで目を覚ましたモーンが、複雑な表情を浮かべて立っていた。
「モーン。聞きたいことが決まった。」
「……言え。」
「王族と臨界者の間にある誓約とは、いったい何なのか。教えてください。」
モーンは唇を引き結び、ちらりとナイヴを見る。
「……彼女も聞くのか?」
ナイヴに聞かせてはならない理由があるのだろうか。
一瞬そう思ったが、ウィンデルは深く考えなかった。
「はい。」
だが、このときのウィンデルはまだ知らなかった。
この取るに足らないように思えたたった二文字の返事が……
彼の人生において、そして大陸全体の運命において、二度目の分岐点となる選択だったことを。
ごめんなさい、新年休みは毎日3回更新する気満々だったのに、今日気づいたら風邪ひいちゃってて、もう体がガッツリだるだるで動けません……なので、1/4まではなるべく毎日2回更新にチェンジしようと思います。
で、次回からは新しい編「固結び」スタートです。いつも読んでくれて、応援してくれて本当にありがとうございます!




