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56 初めての訓練

 翌日の昼近く、モーンはウィンデルを呼び出した。


「今日から、正式にお前に風の術を教える。」


 ウィンデルが胸を躍らせなかったと言えば嘘になる。だが同時に、どこか引っかかるものもあった。


 老人がこの日を選んだ理由が、どうしても昨日訪ねてきたあの生徒たちと無関係とは思えなかったのだ。


「……昨日来てたあの人たちのせいですか?」


「違う。ただ、ふと思っただけだ。グレイドは、いつまでも我々に時間をくれるわけじゃない。」


 腑に落ちない気持ちは残ったものの、ウィンデルはそれ以上深く考えるのをやめた。


「じゃあ……僕も、まずは物を動かすところから?」


「当然だ。あの子たちが何度も練習しているのを見てきただろう。今回は自分でやってみろ。」


 そう言って、モーンは拳ほどの大きさの積み木を放ってよこした。


「浮かせてみろ。ただし、想像力は使うな。」


 軽い積み木を手のひらで転がしながら、ウィンデルは、生徒たちが重たい鉄球を使っていたことを思い出す。


 自分が本当に、初心者の中の初心者なのだと改めて思い知らされた。


 現実だと分かっていても、気持ちはどうしても沈む。すると、あのリヴィアスの嘲るような声が、また耳の奥で囁いた。


 ――まさかここまで使えないとはな。


 ウィンデルはぶんぶんと頭を振り、積み木を草地に置いて腰を下ろす。目を閉じ、余計な感情を振り払って、風で積み木を持ち上げることだけに意識を集中させた。


 でも、どうやればいい?


 持ち上げるなら、手を使うのが普通だろう。もし風が手だったら……


 そう考えた瞬間、頭に鋭い衝撃が走った。


「馬鹿者。あれだけ見てきて、すぐ同じ過ちを犯すとは!」


 痛む頭を押さえながら、ウィンデルはようやく気づく。知らないうちに、想像力を使ってしまっていたのだ。


「思ってた以上に難しいですね。」


「当たり前だ。今まで一度もやったことがないんだからな。それに……一つ手順を忘れていただろう?」


「手順を?」


 呟いてから、すぐに理解する。


 最初は、聞く。我らの名の通り。


 再び目を閉じ、思考を完全に空にする。


 そうだ。アルバトルの山頂でも、風域の荒野でもそうだった。全身全霊で、ただ感じる。


 やがて、微かで、どこか悪戯っぽい気配が触れてきた。草の先をすり抜けるその感触は、翼を持つ妖精が、こっそり草原で遊んでいるかのようだった。


 ほとんど聞こえないその風音は、楽しげな囁きであり、笑い終えた後の満足げな吐息でもある。


 風が自分の呼吸に溶け込んだのか、それとも自分の意識が風と一つになったのか。もう区別はつかなかった。考えるのをやめ、ただこの瞬間の不思議な感覚を味わう。


 ゆっくりと目を開く。風の流れの線も、その気まぐれな心までもが、はっきりと見える気がした。


「……ちょっと、手伝ってもらえるかな?」


 心の中でそう告げながら、ウィンデルは草地の積み木を見る。


『これは遊び?』


 聞き慣れない、優しい声が耳に響き、ウィンデルは微笑んだ。


「君たちにとって、遊びじゃないことなんてあるの?」


 風がくすっと笑った。次の瞬間、積み木はゆっくりと浮かび上がり、座っているウィンデルの目の高さで静止する。


『これでいい?』


 ウィンデルは頷き、心の中で礼を言った。すると、宙に浮いていた積み木は、どさりと音を立てて草地に落ちた。同時に意識は現実へと引き戻され、風の笑い声も消える。


 手を握り、確かな身体感覚を取り戻してから、彼はモーンを見上げた。しかし、老人の表情からは、何を考えているのか読み取れない。


「……少し待て。」


 そう言い残して、モーンは倉庫へ向かい、ほどなくして宙に浮かぶ鉄球を携えて戻ってきた。


 普段、生徒たちが使っているものの中でも、確か一番大きいはずだ。


「これで試してみろ。」


 鈍い音を立てて草地に落とされた鉄球を前に、ウィンデルは再び集中し、さっきと同じことを繰り返す。ほどなく、また風の声が聞こえた。


『今度は何?』


「今度は、この鉄球を浮かせてもらえないかな?」


『よく分からないな。このようなゲームはそんなに面白いの? それより、君を空に放り投げてあげようか。』


「え、えっと……それは、遠慮しておきます。」


『そう?残念。とても楽しいのに。』


 そう言うと、風は興味を失ったかのように遠ざかり、気配はすぐに消えた。


 ウィンデルは仕方なく目を開き、モーンに向かって首を振る。


「……無理です。」


 気のせいかもしれないが、できないと告げた途端、モーンの硬い表情がわずかに緩んだように見えた。


「まだ、自分の祈りを信じきれておらんようだな。」


「うーん……そうじゃないと思います。」


「そうじゃない?」


「だって……向こうが、やりたがらなかったですから。」


「は?」


 眉をひそめるモーンに、ウィンデルは先ほどの風とのやり取りをそのまま説明した。聞き終えた瞬間、老人の顔色は一気に沈む。


「……今日はここまでだ。昼食の支度をしてこい。」


 ウィンデルは頷き、右手を地面について立ち上がった。だが、その瞬間、視界が揺らぎ、慌てて一歩踏み出してようやく体勢を保つ。


 どうした?


 一瞬戸惑ったが、長く座っていたせいで体がこわばったのだと判断する。肩をすくめ、菜園へ向かって歩き出す。


 レタスでも抜いて、簡単なサラダにしよう――そう思った矢先、後ろからモーンの声がかかった。


「坊主。」


 呼ばれて振り返ると、老人は鉄球を見下ろしたまま、思索に沈んでいる様子だった。


「一つ、借りを作ったな。質問だ。何を聞くか、あとでじっくり考えておけ。」


 その言葉を聞いた瞬間、ウィンデルは思わず顔をほころばせた。それはつまり、今日の自分の成果を認めてもらえた、ということなのだから。


 ウィンデルがレタスを何株か抱えて家の中へ入っていくのを、モーンは無言で見送った。その表情は、依然として厳しいままだった。


 本来なら、ウィンデルのような初心者ができるのは、せいぜい風の存在をかすかに感じ取る程度のはずだ。だが、彼の話が嘘でないのなら、声を聞き、さらには意思のやり取りまでしてみせたことになる。


 それは、少なくとも二年以上風の術を学んだ者にしかできない程度だ。にもかかわらず、ウィンデルは初めての練習で、そこに踏み込んだ。


 才能を喜ぶ気持ちよりも、モーンの胸に湧いたのは不安だった。


 生徒がこのように突出した才能を示した経験を、彼は過去にも一度している。


「ちくしょう……」


 二度と、同じ悲劇を繰り返すわけにはいかない。


 そう心に誓い、老人は静かに決断を下した。


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