53 村の溝
ウィンデルは一瞬きょとんとしたが、すぐに無意識のうちに頷いていた。
「風に感情がある……うん、信じます。」
老人はわずかに微笑んだ。
「やはり、お前は聞き手だな。そうだ。聞き手にとっては、多くの者が特に疑問も抱かずに、その言葉を受け入れる。
それを『感情』と呼ぶのが正しいかどうかは分からんが、少なくとも我々は、風の囁きを感じ、耳を澄ますことで、風の中に人の感情に近い何かがあることを察することができる。」
「でも……たとえ風に感情があるとして、それがミスリと導き手の違いと、どう関係するんですか?」
「簡単な話だ。想像力を用いて風を操るという行為は、本質的に風の感情を無視している。だからこそ、導き手が風を使うたびに、聞き手は少なからず違和感を覚える。
多くの場合、導き手は、風そのものの感情とは食い違うイメージへと無理やり風を変えてしまうからな。」
「つまり……導き手は風を力ずくで支配している、と?」
「そうだ。支配者と呼ぶなら、ミスリは生まれながらの支配者。一般の導き手は、後天的な支配者に過ぎん。ミスリの一族に対しては、風は大抵、無条件に想像へと従う。
だが、他の導き手相手ではそうはいかない。頭の中のイメージが、風の感情から離れれば離れるほど、それを縛るための力は大きくなる。」
老人はそこで一息置き、続けた。
「だからこそ、多くの導き手は、ある段階で越えられない壁に突き当たる。それが、彼らの能力の限界だ。」
話を聞くほど、ウィンデルの興味は深まっていく。
「じゃあ……聞き手が風の術を使っても違和感が生じないのは、風の感情に逆らっていないからなんですね?」
「その通りだ。聞き手は、風を使う前に、まずその感情を感じ取る。そして、その感情に沿う形で、風の力を借りる。」
モーンは、例えるように言葉を重ねた。
「たとえば、今の風から『喜び』を感じ取ったとしよう。その風を使って、誰かを傷つけることはできん。さっきのお前の言い方を借りるなら、導き手が風の支配者なら、聞き手は風の友だ。」
ウィンデルは、風の術という力が、ますます不思議なものに思えてきた。
「でも……そうなると、聞き手の風の使い方って、かなり制限が多いんじゃ?」
「その通りだ。正直に言えば、想像力で風を操るやり方の方が、我々の方法よりずっと扱いやすい。だから臨界者の大半は導き手になる。」
そう言って、モーンは先ほどの訓練の光景を思い返すように目を細めた。
「見ただろう。まだ、聴くことと祈りによって風を使うことに慣れていないその子たちは、無意識に想像力に頼ってしまう。」
「それでも……想像力の方が便利なのに、どうして聞き手は祈りを通して風の術を使い続けるんです?」
「無論、このやり方にも利点はある。条件さえ整えば、同じレベルの導き手では到底届かない力を、容易く引き出せることもある。だが、一番の理由は……たぶん、我々が名実ともに『聞き手』だからだろうな。」
「……どういう意味です?」
モーンは、どこか困ったように笑った。
「道端で、人が泣いていたらどうする?無理やり笑わせようと、力ずくで声をかけるか?」
ウィンデルは答えず、黙り込んだ。老人の言いたいことは、すぐ伝わっていた。
「さて、他に質問はあるか?」
「……風に、知り合いはいますか?」
予想外の問いに、モーンはわずかに眉をひそめた。
「なぜ、そう思った?」
「その……風に感情があるなら、意識や知恵もあるんじゃないかと思って。だとしたら、彼らもそれぞれ独立した存在なのかな、と。」
モーンは腕を組み、しばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言おう。その問いに、明確な答えは出せん。過去にも、同じような考えを口にした聞き手はいた。だが、それを確かめる術がない。
たとえ風が独立した存在だとしても、彼らは一度として、臨界者に自分の名を告げたことがない。
つまり、風という目に見えない存在を前にしては、こちらがその「名前」すら知らなければ、彼らの違いを見分けることなど到底できないんだ。」
そして、思い出したように付け加える。
「唯一の例外があるとすれば、四風かもしれん。あれらは、明確に識別できる色と特徴を持っているからな。」
ウィンデルは頷きつつ、自然と、あの風のことを思い出していた。時折、柔らかな声で語りかけてくる、あの存在。
リヴィアスに襲われた時、最後に自分へ語りかけてきた風も、きっと彼女だったのだろう。なぜ、あの風は故郷から、ここまで自分についてきたのだろうか。
ウィンデルが黙り込んでいるのを見て、モーンはそれ以上踏み込まず、静かに食事を終えた。口元を拭いながら言う。
「これで、聞きたいことは全部か?」
「……もう一つあります。でも、風の術とは関係ありません。」
「構わん。言ってみろ。」
「どうして……ほとんどの臨界者は僕に強い敵意を向けるのに、あなたの生徒たちは、そうじゃないんですか?」
モーンは少し迷うようにしてから、顎鬚を指でなぞった。
「それは、おそらく……同類としての感覚だろうな。」
「同類?聞き手、という意味ですか?」
老人は小さく溜息をつき、窓の外へ視線を向けた。ウィンデルもそれにならい、谷間の村を見下ろす。家々の煙突からは、昼食の支度を告げる炊煙がゆるやかに立ち上っていた。
モーンはその光景をしばらく眺め、どこから話すべきかを考えているようだった。長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「ある時期を境に、聞き手と導き手は対立するようになった。憎み合うほどではないが、いくつかの事柄について、我々の考えは常に食い違っている。
今朝見たあの子たちの親も、かつてはほとんどがわしの生徒だった。つまり、あの子らの親も皆聞き手だ。」
「……それが、何かおかしいんですか?」
モーンは首を横に振った。
「わしがまだ若かった頃はな、聞き手の親が、子どもに無理やり聞き手になれと強いることはなかった。導き手の親も、我が子が聞き手の技を学ぶことを、頭ごなしに否定したりはしなかった。」
老人は静かに続ける。
「だが、今は違う。向いているかどうかに関わらず、親は自分と同じ風の術の教育を子どもに押しつける。その結果、血脈や系統という考え方が強まり、聞き手と導き手の溝は、年々深くなっていった。
最初は、大人同士のわだかまりに過ぎなかった。だが、いつしか……派閥の違う子どもたちまでもが、互いを遠ざけるようになった。」
そこまで語ると、モーンは乾いた笑いを漏らした。その苦い笑みには、嘆きと同時に、拭いきれない無力感が滲んでいた。
「可笑しいと思わんか?たかが数百人しかいない小さな村で、ここまで深刻な対立が生まれるとはな。」
その言葉を聞きながら、ウィンデルは、かつてフレイヤと森を歩いた時の会話を思い出していた。あの時、彼女が口にした言葉の意味が、ようやく腑に落ちる。
「……だから、すぐに僕のことを『聞き手だ』と、子どもたちに伝えたんですね。」
「ああ。外界にほとんど触れたことのない導き手に比べれば、わしの生徒の親は、外から来た者に対して、そこまで排他的ではない。
それでも……お前が聞き手だとはっきりさせなければ、子どもたちの中に、警戒心が芽生えた可能性はある。」
「待ってください。つまり……聞き手の方が比較的オープンだってことですか?」
「全員がそうだとは言わん。だが、少なくとも多くの成人した聞き手は、外の世界を自分の目で見てきた。その分、常にこの閉ざされた社会で生きてきた導き手とは、物の見方が違ってくる。」
「なるほど……でも、どうして聞き手は外の世界を見に行くのに、導き手はそうしないんですか?もし、彼らも外に出ていたら、ここまで意見が食い違うこともなかったんじゃ……」
モーンは苦笑し、食器を手に取って流しへ向かった。
「まったく……好奇心が強いやつだな。その話は長くなる。いずれ、ゆっくり話そう。」
そう言って肩をすくめる。
「さすがに、少し疲れた。」
そこまで言われてしまえば、ウィンデルも引き下がるしかない。だが同時に、モーンが何かを意図的に伏せているようにも感じられた。
「お前も休め。まだ、怪我は治りきっていないだろう。」
その言葉で、ウィンデルはようやく大切なことを思い出した。深く頭を下げ、一礼する。
「……そういえば、きちんとお礼を言っていませんでした。数日前、命を救ってくださって、本当にありがとうございます。」
「気にするな。生徒を守るのは、教師の務めだ。」
そう答えた瞬間、モーンの脳裏に、数日後に訪ねてくる予定の、あの生徒たちの姿がよぎった。ウィンデルに表情を見せまいと、老人はすぐに踵を返し、寝室へ戻ろうとする。
二階へ続く階段を、一段一段踏みしめるたび、胸の奥に重い鉛を括りつけられたかのように、心が沈んでいく。
ああ。もし、心というものが一つの井戸だとするなら。今、この井戸の底から、こんこんと湧き上がってくる黒い泥……
それこそが、きっと「罪悪感」と呼ばれるものなのだろう。




