51 二人の振り返り
モーン・ベイルは、こんなにも遅くまで眠れずにいるのは久しぶりだった。
いつもと大差ない時間に床に就いたというのに、ベッドの上で何度も寝返りを打ち、なかなか眠りに落ちることができない。
駄目だな。
ついに諦め、モーンは上体を起こして枕元のオイルランプに火を入れた。
適当に本でも読むとしよう。
そう溜め息をつきながら書棚を探すが、いくら目を走らせても、どうにも心を引く一冊が見つからない。
このまま、眠れぬうえに退屈な夜を過ごすことになるのだろうか。もしそうなら、明日はさぞ骨が折れるに違いない。あのやんちゃな子供たちを相手にして、もし自分が万全な状態でないなら……
やれやれ、ただ想像するだけけで、頭痛を覚える。
やはり、もう一度床に戻って眠れるか試してみるべきか。だが、そもそも……なぜ眠れないのだろう。
答えなら、分かっている。
久しく、何も分からない初心者を一から教えることがなかった。そのことに対する不安が、胸の奥に澱のように溜まっているのだろう。
風の都では、聞き手であれ導き手であれ、ほとんどの親は子に最初の風の術を自ら教える。それは、一般人の家庭で生活の基礎を教えるのと同じことだ。
基礎を一通り身につけてから、ようやく子どもたちは、風の術を専門に教える歌い手のもとへ送り出され、より高度な技を学ぶ。
でも……本当に、それだけが理由なのか?
違う。モーンははっきりと理解していた。
自分は、怖れているのだ。
風の術を最初から教えるという行為が、心の最奥に封じ込めてきた記憶を呼び起こしてしまうことを。
始まりは確かに美しかったのに、最後には苦しみしか残らなかった、あの記憶を。
モーンは首を振った。これ以上考える気はなかった。ここで踏み込めば、堤を切った洪水のように、過去が一気に溢れ出してしまう。そんなもの、受け止めきれるはずがない。
まったく、不眠というのは厄介だ。忘れたはずのことを、こうして容赦なく思い出させるなんて。
モーンは階段の前に立ち、二階の寝室へ戻ろうとするとき、ふと足を止めた。
……そういえば、あの目はよく似ていたな。ずっと胸に残り、もう一度でいいから会いたいと願い続けている、あの人の目に。
すでに踏み出していた右足を引き戻し、モーンは踵を返して扉を押し開け、外へ出た。夜風に当たり、気分を変えるつもりだったのだ。どうせこのまま床に戻っても、眠れぬ夜が続くだけなのだから。
だが、風を受けた瞬間、違和感を覚えた。本来なら柔らかな春風であるはずが、どこか殺気立った秋の気配を帯びている。
俺に向けられたものか?いや、違う。自分にちょっかいを出す者など、ロアルたちくらいだが、彼らの立場で夜襲などあり得ない。それに、この違和感はそれほど強くない。ならば、別の誰かだ。
「どこのガキがこんな時間に……」
そういえば、ウィンデルもまだ戻っていない。まさか……
そう考えた瞬間、胸がざわついた。
本来なら、フレイヤが一緒なら安全なはずだ。でも、もし彼女が先に離れていたとしたら……
モーンはオイルランプを手に取り、違和感の源へと急いだ。
風の助けを借りたモーンの走りは速い。二分も経たぬうちに、闇の中に二つの人影が見えた。
ひとりは立ち、もうひとりは地に座り込んでいる。そして、彼が感じ取っていた違和感の正体は、立つ者の前に生まれた、強烈な殺意を孕む風刃だった。
まずい。死ぬぞ、あれは。
間に合わないと分かっていながらも、モーンは一瞬で意識を研ぎ澄まし、祈りを捧げた。
春風よ、母なる風よ。どうか、その子を守り給え。
呼応するかのように、突風が唸りを上げ、風刃を相殺しようと走る。だがモーンは止まらない。むしろ、さらに速度を上げた。
距離が詰まり、掲げたオイルランプのかすかな反射が、二人の顔を照らす。
立っているのはリヴィアス。地に崩れている少年は……やはり、ウィンデルだった。
「馬鹿者!やめろ!」
迫り来る守護の風を感じ取ったリヴィアスは、ちらりとモーンを見やり、躊躇なく右手を振り下ろす。風刃は勢いを増し、一直線にウィンデルへと落ちていった。
終わった。
ほんの一瞬、モーンの足が鈍る。長年の経験が告げていた。この威力では、ウィンデルは確実に死ぬ。だが、次の瞬間、彼が歯を食いしばり、さらに速く地を蹴った。
まだ終わってなどいない。ここで諦めたら、俺はまた、あの時のように後悔する!
いつの間にか、彼を突き動かしていたのは「ウィンデルを救いたい」という思いだけではなく、過去に囚われ続ける自分自身を、少しでも救いたいという願いだった。
血が飛び散るはずの刹那、なぜか、風刃が空中で一瞬だけ止まった。まるで、ウィンデルの頭の上に透明なマットが現れたかのように。
そのわずかな時間のおかげで、モーンの守護の風が間に合った。
風刃を遥かに上回る強度の守護の風は、それを完全に打ち消し、さらにウィンデルとリヴィアスの二人をまとめて地面へと叩き伏せた。
予想外の展開に驚きと安堵が入り混じる中、モーンは一気に駆け寄り、起き上がろうとするリヴィアスより先に、ウィンデルの前へと立ちはだかった。
「……ちっ」
凛と睨みつけるモーンを見て、リヴィアスは風乗りを発動し、その場から逃げた。モーンは追わない。今ここで彼を捕らえても、事態が好転することはない。
それどころか、聞き手と導き手の対立を深め、ウィンデルが災厄の元凶として見られる危険すらある。それよりも、今はこの子を治療すべきだ。
血を流し続けるウィンデルの右腕を見て、モーンは短く祈る。集まった風が傷を覆い、気圧を高めて出血を止めた。
続いて、ウィンデルの体が重さを失ったかのように宙へ浮かぶ。血に塗れた足裏に気づき、同じように処置を施した。
「……よし。命に別状はない。」
そう呟きながら、モーンは胸の奥で安堵する。
途中で立ち止まっていたら、たとえ風刃を防げたとしても、リヴィアスは確実に追撃していただろう。つまり、今回は諦めなかったからこそ、ウィンデルは生き延びたのだ。
「……あの時も、こうしていればよかったのに。」
かすかに震える老人の声は、深い後悔と、わずかな慰めを含んだまま、月のない夜の闇へと溶けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
コン、コン。
フレイヤのイメージ訓練を見守っていたクリストは、ふと顔を上げ、玄関の方へと視線を向けた。
最初は聞き間違いかと思った。この時間帯に訪ねてくる者など、まずいないからだ。
だがしばらくして、返事がないと判断したのか、再びノックの音が響く。
コン、コン。
今度は、少し苛立ったような叩き方だった。
誰だろう。
好奇心と同時に、またロアルではないかという不安がよぎる。だが扉を開けてみると、そこに立っていた男は老いているものの、亡き夫の父ではなかった。
「……モーン様。こんな朝早く、何かお急ぎのご用件でしょうか。」
やや驚きを含んだ問いかけに、老人は淡々と答える。
「急ぎというほどではない。ただ、ひとつ頼みたいことがあってな。」
クリストは再び目を見張った。モーンが、自分に頼み事をしに来るとは。
「承ります。私にできることでしたら。」
「大したことじゃない。人前に出たくないだけだ。導き手の連中に、伝言してほしい。特にプラットにだ。そう言ってくれ――私の弟子に、手を出すな。」
「弟子……といいますと……?」
「自分で頼んでおいて、もう忘れたのか?」
クリストは一瞬思考を巡らせ、すぐに合点がいった。
「まさか……ウィンデルが襲われたのですか?リヴィアスに?」
相手を憎んでいるが、モーンは内心、彼女の察しの早さを認めざるを得なかった。
「ただの襲撃じゃない。あわや殺されるところだった。幸い、今は意識が戻っていないだけで、命に別状はない。しばらく休めば回復するだろう。」
その言葉を聞き、クリストの表情は一気に引き締まる。
「……分かりました。導き手の方々には、私から警告しておきます。」
「頼む。」
用件を終えたモーンは、何かを感じ取ったように、屋内へちらりと目を向けた。
「フレイヤのために、歌の準備をしているのか?」
クリストは注意深く老人の表情を窺ったが、その無表情な顔からは、賛成なのか反対なのか読み取れない。
「……私の判断に、反対なさいますか?」
「いや、意見はない。ただ少し気になっただけだ。ウィンデルが現れたから、思い立って始めたのか?」
「いいえ。準備自体は、ずっと前からしていました。ただ、あの子を見て、自分の考えがより確かなものになっただけです。」
「……相変わらず強いな。ロアルのやつは、君ほど腹を括れていないだろう?」
クリストは苦笑する。
「ええ。実は昨日も、『話し合い』に来ました。」
モーンは小さく頷き、背を向けて立ち去りながら、ひと言だけ投げかけた。
「驚くことじゃない。人は歳を取るほど、失うのが怖くなる。それに比べて君は、ますます若くなっていくようだな。」
その言葉に、クリストは思わず下唇を噛みしめた。
言い返すことはできない。それは老人なりの、ささやかな仕返しに過ぎないのだから。だが、理解されない苦しみは、確かに胸を刺した。
屋内へ戻ったクリストは、集中している娘の傍に歩み寄り、そっと肩に手を置く。
「少し、休みなさい。」
フレイヤは目を開き、母を見上げた。
「どうしたの?」
「少し問題が起きたの。ウィンデルが襲われて、かなりの怪我をしたわ。」
「……今は、どうなってるの?」
切迫と不安が滲む声に、クリストは落ち着いた口調で応じる。
「大丈夫よ。モーン様がおっしゃるには、命に別状はないそう。ただ、しばらく静養が必要なだけ。」
「いつの話?誰がやったの?」
「フレイヤ……」
「母さん、教えて。」
クリストは小さく溜め息をつき、真実をすぐには伝えないことにした。
「昨夜の出来事よ。でも、犯人はまだ分からないわ。モーン様が駆けつけた途端、その人物は逃げてしまったそう。暗闇の中で、顔までは確認できなかったって。」
それを聞き、フレイヤは俯いた。
「……やっぱり、門まで送るべきだった。」
「それを後悔して、自分を責めてほしくて話したわけじゃない。分かるわね?」
「分かってる……次は同じ失敗をしないための戒めにしろってことでしょ。」
「その通り。」
厳しい教え方ではあるが、いずれ多くを導く立場になるフレイヤには、避けて通れない過程だ。
「分かっているなら、訓練を続けなさい。」
そう言いながらも、ときどきクリストは、自分のやり方が本当に正しいのか、疑わずにはいられなかった。




