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50 夜襲

 モーンの家がある丘のふもとで、フレイヤはウィンデルに別れを告げた。


「じゃあ、私はここで帰るね。」


「うん、またね。」


 フレイヤは冗談めかすように、ぱちりと片目をつぶる。


「家の前まで送ってあげようか?」


「……十数分の道のりだぞ。子どもじゃないんだよ。」


 フレイヤはくすりと微笑んだ。


 もとより本気で言ったわけではないし、ウィンデルが真に受けないことも分かっている。もう一度軽く手を振ると、彼女は村の方へと歩き出した。


 何事もなかったかのように別れていくその背中を見送りながら、ウィンデルはほっと息をつく。


 あの予言の話題に触れてからというもの、帰り道では彼女は一言も発さなかった。もしかして、聞くべきではないことを聞いてしまったのではないか――そんな不安が、少なからずあったのだ。


 やがてフレイヤの姿が小さくなり、見えなくなる。ウィンデルも踵を返し、モーンの家へ向かおうとしたが、脳裏にはどうしても、あの言葉が蘇ってきた。


 ――臨界者である私たちが……臨界者でなくなる日を、予見しているから。


 どういう意味なのだろう。臨界者が力を失うということなのか?


「最初の予言」というのは、臨界者が初めて未来を視た、という意味だろうか。もしそうだとしたら、その最初に見た未来が、同胞の力の喪失だなんて……あまりにも皮肉ではないか。


 考えれば考えるほど、思考は絡まり、混乱していく。


「はあ……こっちに来てから、分からないことが増える一方だ……」


 歩いているうちに、遠くにモーンの家の灯りが見えてきた。


 まだ起きてるのか。


 その明かりを目にして、ウィンデルは胸をなで下ろす。


 もし老人がすでに寝ていたら、帰宅時の物音で起こしてしまうのではないかと心配していたのだ。


 それにしても、モーンは本当に隠遁者のような生活をしている。村から離れた丘の上に、たった一人で暮らしているのだから。


 一人でいるのが好きなのか。それとも、静かな環境が好きなのか。もし後者なら、この場所を選んだ理由にも納得がいく。


 なにせ、この辺は驚くほど静かだ。夜ともなれば、今のように虫の声も、風の音すら聞こえない。


 むしろ、静かすぎる。


 そう思った瞬間、ウィンデルは異変に気づいた。


「ぐっ……!」


 唐突に、腹部に激痛が走る。まるで、誰かに全力で殴りつけられたかのような衝撃だった。


 重い一撃が腹腔内の空気を一気に押し出し、息が詰まる。ウィンデルは腹を抱え、その場に膝をついた。


 苦しさに耐えながら周囲を見回すが、人影はどこにもない。だが、すぐに理解した。


 殴られたのではない。風の術で極限まで圧縮された、拳のような風……それを叩き込まれたのだ。


 そのとき、闇の中から、嘲るような笑い声が響いた。


「まさかここまで使えないとはな。」


 聞き覚えのある声だった。ウィンデルは顔を上げ、声のした方を見る。


 闇の奥から、ぼんやりとした人影が現れ、十歩ほどの距離で立ち止まった。


「……リヴィアス?」


 名を呼んだ瞬間、腹の痛みがぶり返し、ウィンデルは思わず身を折る。しばらく言葉が続かなかった。


 リヴィアスは彼を見下ろし、冷えた声に、わずかな優越感を滲ませる。


「無様だな。ああ、そうだ。俺だよ。」


 ウィンデルは痛みをこらえながら言った。


「お前……何のつもりだ……?」


「何って?実力を試しただけさ。もっとマシだと思っていたが、想像以上に役立たずだったな。手加減してやったことに感謝しろ。でなければ、死んだことにすら気づけなかったぞ。」


 実力を試す?もし本当なら、なぜわざわざこんな場所で、こんな時間に?


「……こそこそ奇襲しかできないくせに。」


 闇の中の人影は、肩をすくめるような仕草をした。


「奇襲の何が悪い?まさか、奇襲されて負けた後で『それは卑怯だ、不公平だ!』なんて叫んで、正々堂々もう一度やり直せとでも言うつもりか?


 笑わせるな。この世界は敗者に同情なんてしない。手段はどうあれ、勝った者が正義だ。文句を言いたいなら、まず生き残ることだな?」


 ウィンデルは深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。


「言っていること自体は、間違っていない。でもな、犯罪者が人を殺したあと、どれだけ自分の行為を正当化しようと、犯罪を犯した事実は消えない。この意味、説明する必要はないよな?」


 リヴィアスは即座に、遠回しな皮肉だと理解した。反論しようと口を開きかけたとき、ウィンデルが先に言葉を継ぐ。


「それにさ、もし僕の実力がお前より上かもしれないって不安がなかったら、奇襲なんて手段を取る必要はなかったはずだ。


『手加減した』なんて言ってるけど、実際は逃げ道を用意してただけだろ。もし僕がさっきの攻撃を軽々と防いでいたら、こう言うつもりだったんじゃないか?


『誤解しないでくれ。ただ実力を試しただけだ。他意はない。不快にさせたなら謝る』ってな。」


 ウィンデルは、まっすぐ闇の向こうを睨み据える。


「――要するに、やる度胸はないくせに、保身だけは一人前。白状もできない臆病者ってわけだろ?」


 ウィンデルの容赦ない嘲りに、リヴィアスは怒りを通り越したように、かえって笑い声を上げた。


「よく回る口だな。どうやら、お前みたいに吠えることしかできない雑種犬を相手にするには、俺は少し慎重すぎたらしい。だがな、一つだけ忘れてはいないか?」


「ほう?何を忘れたって言うんだ、臆病者。」


 言葉では挑発しつつも、ウィンデルの頭は高速で回転していた。


 どうすれば、この場から生きて抜けられるのか。リヴィアスの口ぶりからして、最初から殺すつもりだった可能性は高い。


 そのとき、リヴィアスが二歩踏み出した。同時に、周囲の空気が歪むような、不祥な違和感が湧き上がる。


「人殺しはな、人を殺しても証拠さえ残らなければ、犯罪ですらないんだよ!」


 風が凝縮され、匕首の形を取る。そして、リヴィアスの高揚した叫びと同時に、それがウィンデルの心臓めがけて放たれた。


「――っ!」


 ウィンデルは反射的に地面を転がり、間一髪で致命の一撃をかわす。


「ほう?反応は悪くないな。」


 一撃で終わるつもりだったリヴィアスは、わずかに驚いた様子を見せたが、すぐに冷笑を浮かべる。次の瞬間、さらに二枚の風刃が形作られた。


 ――来る。


 それはウィンデルにも分かった。今まさに、生死の境目に立たされている。その自覚が、手足をわずかに震わせる。


 くそ……どうすれば生き残れる?


 無意識のうちに、彼は懐へ手を伸ばし、フレイヤから借りていた黒い短棒を握りしめた。


 これで……防げるのか?


 そう考えながらも、全身の神経を極限まで張り詰める。


 賭けるしかない。


 闇の中、リヴィアスからは、ウィンデルの瞳に宿る強烈な意志は見えていなかった。彼の目には、標的がただ立ち尽くし、すべてを諦めたかのように映る。それが、なおさら気に入らなかった。


「もう終わりか?やはり無能なクズだな……死ね。」


 手を振り下ろすと、二枚の風刃が前後なくウィンデルへと放たれる。同時に、ウィンデルは素早く短棒を引き抜いた。


 それを見たリヴィアスが、鼻で笑う。


「そんなもので防げると思ったか?俺の風刃は、鋼鉄すら切り裂くんだぞ!」


 だが、ウィンデルはその言葉に構っている余裕などなかった。意識のすべてを、「生き残る」ことに集中させる。


 そのとき、気づいた。見えないはずの風刃の軌道が、直感的に分かる。


 一本は喉元。もう一本は、下腹部。


 次の瞬間、ウィンデルは身を沈め、両手で短棒を胸の前に構えた。


 頼む、耐えてくれ。


 鋭い風刃が空を切る。一本は頭上を掠め、数房の髪を削ぎ落とし、もう一本は短棒に直撃して、「キィン!」と澄んだ金属音を響かせた。


 命拾いしたウィンデルは、大きく息を吐き、短棒に視線を落とす。


 信じがたいことに、そこには凹み一つ、亀裂一つなかった。


 一方、再び獲物を逃したリヴィアスの顔は、見る間に険しくなる。


「……どこまで運が続くか、見ものだな!」


 吐き捨てると同時に、彼は三日月形の風刃を二枚生み出し、異なる角度からウィンデルへと振り下ろした。


 横薙ぎに迫る二条の細長い刃。


 ウィンデルはすでに筋肉を限界まで緊張させ、全力で飛び上がる。


 下段を狙った一撃は、かろうじて飛び越えた。だが、足裏を掠めた風刃は容赦なく皮膚を削ぎ取っていく。


 痛っ!


 だが、痛みに構っている余裕はない。空中で身体を捻り、どうしても避けられないもう一枚に側面を向け、短棒を体の脇に立てる。


 せめて、直撃を避けるために。


「キンッ!」


 弾く音と同時に、右上腕の短棒で守れなかった部分が、骨が見えるほど深く裂けた。そして、苦難は終わらない。血に濡れた両足が地面に着いた瞬間、さらなる激痛が全身を貫く。


 その場で意識を失いかけながらも、ウィンデルは必死に耐えた。ここで倒れれば、すべてが終わると分かっていたからだ。


 再び、あの嫌な違和感が空気を満たす。血を滴らせる右腕と足裏で、ウィンデルは感じ取った。


 剣の形をした巨大な風刃が、リヴィアスの正面に浮かんでいる。それは、最後の一撃を待つ処刑刀だった。


 地面に崩れ落ちたウィンデルの惨状を見て、リヴィアスは高らかに笑い声を上げる。


「どうした?もう運の神様でも助けてくれないぞ。さあ、見せてみろ!まだ何か手品が残ってるんじゃないのか?役立たずの雑種!」


 だが、意識が朦朧とするウィンデルの耳に、その嘲笑はほとんど届いていなかった。彼の頭に残っていたのは、ただ一つの思いだけだ。


 まさか……ここで死ぬのか?


 その疑問に応えるかのように、柔らかく、そして聞き覚えのある声が、彼の意識の奥に響いた。


 『それは、君の選択次第よ。これまで通り、苦しみながら足掻き続けるか。それとも、ここで……すべてに終止符を打つか。』


 ウィンデルは、思わず力の抜けた笑みをこぼした。


「……言うまでもないだろ。」


 次の瞬間、巨大な剣のような風刃が真っ直ぐ振り下ろされる。


 その刹那、彼の胸元に抱えた何かが、激しく脈打った。


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