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47 散歩

 広場を離れたあと、フレイヤはウィンデルを連れて、村の南側に建つ二階建ての古い家の前へとやって来た。


「ここは……?」


「私の家。入ろう。母が、あなたに聞きたいことがあるって。」


 そう言って、フレイヤがドアノブに手をかけようとした時、扉は内側から突然開かれ、中にいた人物と目が合う。


 途端にフレイヤはウィンデルの腕を引いて脇へと避け、家の中から三人が姿を現した。先頭に立つ、背の高い痩せた老人が、フレイヤに向かって軽くうなずく。


「久しぶりだな、フレイヤ。」


「お久しぶり、祖父さん。」


 その呼び方を耳にした途端、先ほどまで厳しい表情をしていた老人――ロアル・ビトレットの顔が、ふっと和らいだ。


 だが、その視線が隣に立つウィンデルへ移った瞬間、笑みは跡形もなく消え、代わりに露骨な疑念の色が浮かんだ。


「フレイヤ、この少年は?」


「えっと、この人はウィンデルっていって、私が外から連れて帰ってき――」


 そこまで言いかけて、フレイヤは思わず言葉を止めた。


 ロアルがウィンデルの名を聞いた途端、明らかに敵意を隠そうともせず、鋭い視線で彼を睨みつけたからだ。


 いや、「敵意」では生ぬるい。凶悪と表現しても差し支えないほどの表情だった。


 露骨な敵視を向けられ、ウィンデルもどう反応すればいいのかわからず、ただ立ち尽くすしかない。


「……なるほど、お前がウィンデルか。まあいい、どれほどのものか、見せてもらおうじゃないか。」


 そう言い捨てると、ロアルは冷たく鼻を鳴らし、そのまま村の中へと歩き去っていった。後ろにいた二人の中年男性も慌ててその後を追うが、そのうちの一人が、ふと立ち止まってウィンデルを振り返る。


 ほんの一瞬、視線が交錯して、ウィンデルは見てしまった。


 ロアルの比ではない、何倍もの悪意を。


 三人の姿が遠ざかってから、ウィンデルは口を開いた。


「……今の人、君のお祖父さん?」


「うん。ロアル・ビトレットっていうの。」


「ビトレット?じゃあ、君のお母さんの父親?」


「違う。父方の祖父。」


 その答えに、ウィンデルは首をかしげた。


「じゃあ、君は母方の苗字を名乗ってるってこと?ここでは、それが普通なの?」


「それも違うよ。そうなのは、ミスリ家の血筋だけ。」


「どうして?」


「話すと長くなるから、また今度。先に母に会わせるね。」


「わかった。でも、その前に一つだけいい?さっきの男の人は誰?」


「どの人?」


「金髪で、振り返って僕を睨んできた人。」


 フレイヤは少し眉をひそめてから答えた。


「リヴィアスの父親。プラット・ユースベル。」


「リヴィアス?誰?」


 そう聞かれて、フレイヤは一瞬きょとんとしたが、すぐに思い出した。


 風域でリヴィアスと出会った時、ウィンデルはまだ意識を失っていたのだ。


「私と同い年の臨界者。風の術の腕前は、同世代の中では……私の次くらいかな。」


「そんなにすごいんだ……ってことはさ、君が一番すごいってことだよね?」


 感心したような視線を向けられ、フレイヤは軽く手を振った。


「別に大したことじゃないよ。ミスリ家の人間なら、それくらいできない方が不思議だから。」


「へえ……でも、なんだかその名前、どこかで聞いた気がするんだけど。」


 ウィンデルの言葉に、フレイヤも少し考え込む。


「ミラージ村にいたとき、イヴが話してたと思う。」


「ナイヴ?あのとき、なんて言ってた?」


 色々あったせいか、ウィンデルは本当に思い出せない様子だった。だがその問いを聞いた瞬間、フレイヤの頬がわずかに赤くなる。


「……そんなの、覚えてるわけないでしょ。」


 ◇ ◇ ◇


 足音に気づき、椅子に腰かけて考え込んでいたクリストが顔を上げる。フレイヤとウィンデルだとわかると、彼女はほっと息をついた。


「あなたたちだったのね。てっきり、あの人たちが戻ってきたのかと思ったわ。」


 母の顔色が青白いのに気づき、フレイヤは心配そうに声をかける。


「母さん、何かあったの?」


「何でもないわ。心配しなくていい。」


「じゃあ、さっき祖……ロアル様たちが来たのは、何の用だったの?」


「村の些細なことを話し合っていただけよ。」


 その言葉を聞いた瞬間、フレイヤは嘘だとわかった。


 導き手派の頂点に立つ三人が、些細な用事のためにクネイトを訪ねてくるはずがない。だが、母がそう言う理由も理解できた。これ以上、踏み込ませないためだ。


「……わかった。母さんがそう言うなら、それでいい。そういえば、ウィンデルに聞きたいことがあるって言ってたよね?」


 その一言で、クリストははっとしたように瞬きをした。


「ああ、そうだったわ。言われなかったら、危うく忘れるところだった。」


 その様子を見て、ウィンデルもようやく違和感を覚えた。目の前の彼女は、初めて会ったときの冷静沈着な印象とはまるで違う。目元が、わずかに赤い。


 クリストを見つめながら、ウィンデルの胸に重たいものが沈んでいく。


 理由はわかっている。だが、自分はこの人――間接的とはいえ、父を死に追いやった女性に、どんな感情を向けるべきなのか、まだ整理がついていなかった。


 彼女を憎むべきなのか?


 けれど、憔悴しきったその表情を前にして、最初に湧き上がった感情は、同情しかなかった。


「……大丈夫、ですか?」


「どうしてあなたまでそんなことを言うの。私は本当に、何でもないわ。それより……モーン様は、あなたに何かお話しになって?」


「助手にならないかって言われて、引き受けました。」


 それを聞いたクリストの顔に、まだ血の気は戻らないものの、かすかな笑みが浮かぶ。


「ということは、風の術も一緒に教えてくださるのよね?」


「たぶん、そうだと思います。」


 聴きながら、フレイヤは「やっぱりね」と言わんばかりの表情を浮かべた。


「お母様、モーン様がウィンデルに風の術を教えるということは、つまり……」


「ええ。ウィンデルは『聞き手』よ。」


 だが、当のウィンデルはさっぱり分かっていなかった。


「聞き手って、何ですか?」


 クリストは彼に一度視線を向け、それから窓の外の空模様をちらりと見た。


「フレイヤ、あなたはウィンデルを村の中を少し案内しただけだったわね?まだ時間もあるし、私にも片づけないといけない用事がある。あなた、ウィンデルを連れて村の周りを適当に歩いてきなさい。


 どうせ、しばらくは二人とも顔を合わせる機会がなくなるかもしれないのだから。この機会に、聞き手とは何かをゆっくり説明してあげるといいわ。」


 フレイヤが返事をしようとしたその時、ウィンデルが先に口を開いた。


「待ってください。まだ聞きたいことがあります。」


「何を?」


「僕が知りたい答えを、風の都では誰が知っているんですか?」


「もうモーン様には聞いたのでしょう?あの方は何と?」


「分からないと言っていました。両親のことは知らないけれど、教えられた通りに風の術を修めれば、できる限り答えるつもりだと。」


 その答えを聞き、クリストは小さく苦笑した。


「それもそうね。今のところ、多くのことを知っているのは私だけ、あるいは……私だけが答える気のあることでもある。いいわ、モーン様がそう言うのなら、私も同じルールでいこう。」


「ルール?」


「ええ。簡単だよ。モーン様があなたの質問に一つ答えたら、あなたは同じく私に一つ質問できる。私が答えを知っていれば、必ず教えてあげる。どう?」


 予想外に甘い提案に、ウィンデルは思わず疑念を抱いた。


 何しろ彼女は、以前父さんを救ってほしいという願いをきっぱり拒んだ人物なのだ。


「僕が風の術を身につけることで、あなたに何か得があるんですか?」


「得というより……避けて通れない過程だと思ってちょうだい。」


「……分かりません。」


 クリストは淡く微笑んだ。


「いつか分かるわ。フレイヤ、彼を連れて行きなさい。」


 クリストに別れを告げ、フレイヤはウィンデルを連れて谷地の南へと歩き出した。


「今からどこへ行くんだ?」


「風域よ。」


 ウィンデルは黙ってうなずいた。しばらくしても彼が何も聞いてこないのを見て、フレイヤは横目で彼を見やった。


「あなた、本当に変わってるわね。」


「どういう意味?」


「だって、お母様は村の周りを案内しろと言ったのに、私は風域へ連れて行こうとしているのよ?普通なら『何をしに行くんだ』とか『どうしてそこへ行くんだ』って聞くでしょう。


 私があなたを一人で風域に放り込むかもしれないって、怖くないの?」


 ウィンデルは首をかしげた。


「どうして、君がそんなことをすると決めつけなきゃいけないんだ?」


「だって……考えてみなさい。この二日間、ほとんどの臨界者があなたに強い敵意を向けていたでしょう? 少しは警戒してもいいと思わない?」


 話を聞くほどにウィンデルは混乱した。


 フレイヤの聡明さからすれば、今の理屈はあまりにも無理がある。だが、少し考えを巡らせた瞬間、彼はすぐに気づいた。


「それ、今思いついた言い訳だろう。そんなに僕に『何をしに行くのか』って聞かせたかったんだ?」


 考えを見抜かれ、フレイヤは頬を赤らめた。


「な、何言ってるのよ。興味がないなら別にいいわよ。」


 ウィンデルは苦笑しながら肩をすくめた。この間一緒に過ごしてきて、これが彼女の拗ねたときの言い方だということは、もう分かっている。


 だがしばらくして、フレイヤは表情を引き締め、真剣な口調で言った。


「でもね、正直ちょっと心配なの。みんながあなたへの反発、私の想像よりずっと強いもの。」


「それは仕方ないよな。たぶん、僕がそれだけ嫌われるタイプなんだろう。」


「まったく。私は真面目な話をしてるのに、冗談で返すんだから。それはそうと、そういえばまだ聞いてなかったわね。あなたは何のために風の都へ来ることを決めたの?自分の両親のことを知りたいから?」


「クリストは、君に何も言ってなかったのか?」


「ええ。あのとき母は、あなたの意思を確認して、望むなら風の都へ連れてくるようにと言っただけ。事情の一切は説明されていないわ。」


「そうだったんだ。」


「それで……?」


 探るようなフレイヤの視線を受け、ウィンデルはしばらく逡巡してから口を開いた。


「父が死んだの。でも、僕にはなぜ死んだのかが分からない。」


 いつの間にか、彼の声は普段よりも低く沈んでいた。フレイヤはそれに気づく。


「理由をはっきりさせない限り、たぶん一生、胸の奥に引っかかりが残ると思う。」


 ウィンデルは空を見上げた。今日の空は澄み切っていて、自分の濃い藍色の瞳よりも、ずっと透明に見えた。


「でも、こんなときふと思うんだ。僕は本当に自分勝手だなって。父がなぜ死んだのかを知りたいのも、結局は自分が罪悪感を抱かずに済むためで、父のことを何も知らずにいた自分を許すためなんじゃないかって。」


 フレイヤはしばらく黙り込み、やがて静かに言った。


「分かるわ。」


 普通なら、慰めるなら「そんなことない」と言う場面だろう。


 そう思った瞬間、ウィンデルの胸に溜まっていた重さがふっと消え、思わず吹き出した。


「君は、本当に変わってるよね。」


「お互いさまでしょ。」


 そのとき、そよ風が二人をなでるように吹き抜けた。


 なぜかウィンデルは、はっきりとした直感を覚えた。前を歩き、表情の見えないフレイヤは、きっと今、どこか悲しげな笑みを浮かべているのだろう。


 二人は谷地で唯一、南へと通じる道を進み続けた。およそ一時間ほど歩いた頃、谷地の縁にある森の手前へと着いた。


 これまで比較的広かった道は、ここで森の奥へと続く細く曲がりくねった小径へと変わっていた。


「この小径が、風域から風の都へ入る唯一の道よ。」


 ウィンデルは森の両側にそびえる切り立った山壁を見上げた。


「この森……もともとは、川の谷だったんだよね?」


「ええ。大昔はここに谷川が流れていたそうよ。でも風域の風が強まるにつれて、激しい風砂があっという間に川を埋め尽くしてしまった。もとの流れは地下に染み込み、豊かな地下水になったらしいわ。


 そうして時が経つうちに、かつての河谷は今の森へと姿を変えたの。」


「じゃあ、風の都の人たちも地下水を使っているのか?」


「その通り。谷地の北側に風車がたくさんあるのに気づいたでしょう? あれらの大半は、地下水を汲み上げるためのものよ。」


「でも、水を汲むだけで、あんなにたくさんの風車が必要なのか?」


「あれはほとんどが、グレイヴの時代から残っているものなの。最初に建てられたときは、取水以外の目的もあったらしいけど、具体的に何かまでは分からないわ。」


「ふうん……もう一つ聞いていい?前にモーンの家から見たとき、隣り合っている風車なのに、回っているものとまったく動いていないものがあったよ。それは何で?」


「決まってるでしょう。使われている風車が一部だけだから。」


「使われている?でも風車って、風さえあれば……」


 言いかけたところで、ウィンデルははっとした。


「まさか……ここの風車は、人が動かしているんだ?」


 あまりの驚きように、フレイヤはくすくすと笑った。


「ずいぶん気づくのが遅いわね。風の都の中って、ほとんど風がないでしょう?あんな微風で、どうやって風車が回るというの。だから、普段は導き手が取水を担当しているのよ。」


「……それは気づきが遅いって言えないだろう。普通、人があんな大きな風車を回すなんて思いつかない。そもそも、風使いの存在自体が常識外れなんだから。」


「まるで自分は違うみたいな言い方ね。」


 そう言われ、ウィンデルは言葉に詰まった。


 だが実際、風使いにとっての「当たり前」は、ほんの一か月前までごく普通の生活を送っていた彼からすれば、目の前で見せられでもしない限り、一生想像できない類のものばかりだ。


「そういえば……さっき言っていた導き手と、クリストが言っていた聞き手って、結局どういう意味なんだ?」


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