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46 癒えぬ傷

「その根拠は?」


 クリストの表情が険しさを増したのを見て、ロアルは自分の推測に、さらに手応えを感じた。


「これはあくまで私の推測で、確たる根拠があるわけではありません。ただ、私が耳にした噂では、その少年の年齢は二十歳前後とのことでした。


 となれば逆算して、彼の生年はあの事件が起きた時期と、おおよそ一致する。そして、その事件の中心にいた人物というのが……」


 そこまで言いかけて、ロアルはふと口をつぐんだ。理由は単純だ。室内の気流が、明らかに異常な揺らぎを見せ始めたのを感じ取ったからである。


 それは彼だけではなかった。脇にいたプラットも、ファロールも、同時にその異変に気づいていた。


 三人は一度クリストに視線を向け、それから互いに目配せを交わす。


 風の力を限界まで極めた臨界者は、感情が昂ぶると、無意識のうちに周囲の気流へ影響を及ぼす。そして、この部屋でそれが可能なのは……言うまでもなく、一人しかいない。


「つまり……私が当時、ペスを自らの手で裁いたにもかかわらず、あなた方はそれでも不十分だと考えている。


 今になってもなお、あの時彼女の子どもとホーンが逃げ延びたのは、私が手加減したからだと疑っている、というわけね?」


 氷のような表情で睨みつけてくるクリスト。その声には、燃え盛る炎のごとき怒りが滲んでいた。


 ロアルは思わず唾を呑んだが、それでも引き下がるつもりはなかった。


「その通りです。我々は――」


 だが、言葉を続けるより早く、ファロールが間に割って入った。彼は場を和らげるように、クリストへと媚びるような笑みを向ける。


「いえいえ、そんなことはございませんよ、クネイト様。ロアル様は少々熱くなりやすい方で、たまたまこの一致に疑念を抱いただけでして。この話は、ここまでにいたしましょう。


 ロアル様、プラット様、お二人とも異論はありませんね?」


 そう言いながら、ファロールはロアルに向けて意味ありげに目配せをする。これ以上、追及するなという無言の圧力だ。


 プラットもロアルの肩を軽く叩き、耳元で低く囁いた。


「ロアル様、お慎みください。この場で私情を持ち出せば、かえって本質を見失います。」


 その言葉に、ロアルは改めてクリストを見た。


 彼女の冷え切った表情は、これ以上口を開けば、事態が取り返しのつかない方向へ転ぶことを、はっきりと示していた。


 下手をすれば、三人まとめて現代最強の臨界者の怒りを、その場で受け止める羽目になる。


「……わかりました。この件は、ひとまずここまでにしましょう。」


 老人が譲歩したのを聞き、クリストは深く息を吐いた。両手で頬を押さえ、必死に気持ちを落ち着かせようとする。


 しばらくしてようやく、空気中に強まっていた揺らぎは、完全に消え去った。


「……話を続けましょう。」


 ロアルとクリストが再び衝突するのを避けるため、今度はプラットが口を開いた。


「次の件も、この少年に関わる話です。我が息子の話によれば、風域の沈黙は、フレイヤがこの少年を連れて風域を横断していた最中に起きたとのこと。これについて、どのようにお考えですかな?」


 導き手の中で第二の地位にある男を見据え、クリストは冷ややかに答えた。


「プラット様。あなたは、私の考えを聞きたいわけではないでしょう?その問いを投げかけた時点で、すでに結論は出ている。遠慮なさらず、思っていることをそのままおっしゃってどう?」


「……じゃそうします。これまで臨界者の歴史において、風域が沈黙した例は一度もありません。


 唯一その可能性に触れているのは、我らの遠祖――グレイヴ・ミスリが予言の後に遺した歌、『フェイト・ワインダー』のみです。」


「ふっ……まさか、あなた方はウィンデルが『予言の子』だとでも?」


 クリストの声には、あからさまな嘲りが込められていたが、プラットはそれを意に介した様子もなく話を続けた。


「その可能性は否定できません。そして、彼を連れ帰ったのも、その点を考慮してのことではないかと、我々は疑っています。」


「それは違うわ。ウィンデルを連れ帰ると決めた時点では、風域に異変が起きるなど想像もしていなかったし、彼を予言の子だと考えたことも一度もない。


 それに、風域の沈黙だけでは決定的な理由にはならないでしょう。それだけを根拠にするなら、『フェイト・ワインダー』の第一曲と第二曲の内容を、どう説明するつもり?」


「もし彼が本当に予言の子であるなら、すべての因果を把握すれば、説明は難しくないと我々は考えています。だからこそ確認したいのです。


 フレイヤがこの少年を連れて戻る途中、何か特別な出来事はありませんでしたか?」


「私の知る限り、何もないわ。」


 無表情のまま、そう断言するクリストを見つめながら、ロアルは心の中でそっと溜息をついた。


 こんな時、自分の息子がまだ生きていれば……彼なら、相手が嘘をついているかどうか、すぐに見抜けただろう。


 だが、その仮定が無意味であることも、老人はよく理解していた。


 なぜなら、もし彼が生きていたのなら……


 彼女との関係が、ここまでこじれることも、きっとなかったはずなのだから。


 話題を強引に打ち切ったクリストを前に、プラットは助けを求めるように仲間へ視線を送ったが、すぐに他の二人も打つ手がないことを悟った。


「……わかりました。では、この件は今後の推移を見て判断するしかありませんな。次が最後の質問です。それでもなお、フレイヤを春分点へ向かわせるおつもりですか?」


「ええ。決めたことよ。」


「フレイヤは、これまで一度も『歌』を使ったことがない。それでも?」


「誰にだって、初めてはあるわ。」


 ロアルが眉をひそめ、横から口を挟む。


「それが、あの子に計り知れない負担を強いることになると分かっていてもですか。場合によっては、取り返しのつかない傷を残すことになる。」


「その子の状態なら、誰よりも私が理解しているわ。それに、どれだけ先延ばしにしようと、ミスリ家の後継者である以上、いつかは歌を使う日が来る。」


「だからといって、今である必要はないだろう?母親であるあなたこそ、できる限り危険から遠ざけるべきじゅないか。


 もし、またあの時のようなことが起きれば、ミスリ一族が血を繋げるかどうかさえ、危うくなる!」


「誓うわ。今回は、あんなことにはならない。」


 その言葉を聞いた瞬間、ロアルの中で堪え込んでいた怒りが、ついに決壊した。


「誓う、だと?よくもそんなことが言えるな!あの歌のせいで、ネオは死んだ。多くの同胞も死んだ。血みどろの戦いの果てに、生き残ったのは誰だった?あなた一人だ!


 皆を守ると誓ったクネイトだけが、生き延びたんだ!」


 あまりにも核心を突いた糾弾に、クリストの身体は思わず震えた。爆発寸前の感情を必死に押し殺し、彼女は両拳を固く握り締める。


「その件について、これ以上説明するつもりはないわ。あの時の私は、確かに力不足だった。でも、それでも私は今もクネイトよ。その現実は変わらない。


 だからこそ、ただフレイヤの母としてだけ、未来を考えるわけにはいかないの。」


 一息置き、彼女は静かに、しかし強い意志を込めて続けた。


「それはフレイヤも同じ。彼女もまた、いずれクネイトとなる存在よ。どの立場から考えても、今回の歌は避けて通れない。」


 聞けば聞くほど、ロアルの怒りは募っていった。老いて痩せた手の甲に、一本、また一本と青筋が浮かび上がる。限界に達した彼は、右拳をテーブルへ叩きつけた。


「この……愚かな女め!フレイヤは、私の孫なんだぞ!」


 一方のクリストも、もはや我慢の限界だった。


 彼女は勢いよくテーブルを叩き、立ち上がる。その動きに呼応するかのように、突如として激しい風が室内を吹き荒れた。


 半開きの窓が激しく揺れ、ガタガタと音を立てる。卓上の陶器のカップはすべて吹き飛ばされ、床に落ちた。澄んだ、しかし無残な音が響き、木の床には砕け散った陶片だけが残った。


 呆然と立ち尽くす三人を前に、目に涙を浮かべたクリストが、嗚咽混じりの鋭い声を上げる。


「……それじゃあ、あの子は私の娘じゃないって言うの!?」


 瞬間、室内は死んだような静寂に包まれた。その沈黙は、あまりにも長く続いた。やがて、ロアルがゆっくりと口を開く。


「……本当に、考えを変えるつもりはないよな。」


 急に老け込んだような声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。それはもはや問いではなく、懇願に近かった。しかし、クリストはなおも首を横に振る。


 その反応を見て、老人はついに決断した。


「ならば、春分の歌……導き手は、いかなる形でも手を貸さない。」


 そう言い残し、ロアルは毅然と立ち上がって扉へと向かう。喉の奥が、ひどく乾いているのを感じた。


 彼はこれまで、あらゆる手を尽くしてこの決断を避けようとしてきた。今回の対話に備え、幾度となく想定を重ねてもきた。


 だが、その努力はすべて無駄だったのだと、今になって思い知らされる。


 運命は、彼らを逃がしてはくれない。


 クリストと自分――この件に対する決定的な価値観の違いが、事態をここへ導いた。


 そうだ。もしかすると、すべては十年前から定まっていたのかもしれない。


 あの時から、クリストは「今」を捨て、ひたすら未来だけを見据えるようになった。


 そして彼は、その逆だ。あの時以来、彼には未来がなく、残されたのは現在だけだった。


 皮肉なことに、十年という歳月を経ても、二人の時間は今なお、あの瞬間で止まったままだ。


「……ロアル様。今回、異界の怪物は現れません。」


 背後から聞こえた力のない声に、ロアルは足を止めた。


「保証できるかな?いや、仮に保証されたとしても、私は信じない。あなたが一番よく分かっているはずだ。神々が与える試練は、常に人が耐え得ぬ代償を伴う。」


「でも、その試練を越えなければ、私たちは明日へ進めない!」


 ロアルは振り返り、クリストを一瞥した。口元に浮かぶ苦笑には、深い哀しみと皮肉がない交ぜになっている。


「クネイト様。掴めるかどうかも分からぬ明日を追い求めるより、私のような老人には、家族と同じ食卓を囲み、笑いながら夕食を取れるだけで十分なのです。


 もっとも、そのささやかな願いも、あなたがとうの昔に打ち砕いたわけですが。」


 そう言って、ロアルは再び歩き出した。


「……あの、氷雪に閉ざされた高山でな。」


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