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42 谷入り

 昏睡したままのウィンデルを含め、クリストたち四人は村へ戻る。途中、クリストは低く呟く。


「この状態が続くようなら、風域の見張る人数を増やさなければならないわね。」


「それだと、皆の負担がかなり大きくならない?」


「それでもよ。臨界者の存在は、決して外部に知られてはいけません。そのためなら、どれだけ苦しくても耐え抜くしかないわ。」


 モーンはその言葉に、どこか諦めにも似た表情を浮かべたが、事の重大さは重々承知していた。だが一方で、フレイヤは少し違う考えを抱いているようだった。


「母さん、そんなに心配しなくてもいいと思う。」


「それは、何か根拠があっての発言?」


 母の声に滲んだ不機嫌さを感じ取り、フレイヤは思わず身をすくめたが、すぐに意を決したように言い切る。


「ない。でも……この状況は、すぐに消えると思う。」


「思うって?フレイヤ、私は何度も言ってきたはずよ。直感に頼らず、自分で考えなさいって。もし、その一瞬の直感が外れたら、どうするの?」


 そこへモーンが、口を挟む。


「それは聞き捨てならんな。多くの場合、一瞬の直感というものは、長々と考え抜いた末の結論より、よほど役に立つし、正確なことも多い。」


 それを聞いたクリストは、即座に言い返した。


「でも、それはあなたたちの才能でしょう。フレイヤや私は聞き手ではないの。私たちにとっては……」


 だが、言い終える前にモーンが遮った。


「聞き手かどうかは関係ない。それは人としての本能だ、リス。」


 いつの間にか、モーンは昔よく使っていた呼び名でクリストを呼んでいた。本人は気づいていない様子だったが、クリストはわずかに目を見開く。


 その名で呼ばれるのは、もうずいぶん久しぶりだった。


 風域と囁きの森の境に近づいた頃、三人は遠くから、森の縁に人だかりができているのを目にした。噂を聞きつけた村人たちが、集まってきているのだ。


 クリストの姿を認めるや否や、彼らは一斉に駆け寄ってくる。


「クネイト様が戻られたぞ!」


「大人、これは一体どういうことなんです?どうして風が止まったんですか?」


「こんな不気味なこと、今まで一度もなかった!何かの前触れじゃないんですか?」


 当然のように、宙に浮かぶウィンデルの存在に気づく者も少なくなかった。


「クネイト様、その少年は……?」


「まさか、今の異変と関係が?」


 矢継ぎ早に飛んでくる疑問の数々に、クリストは思わず頭を抱えたくなる。


 村人が集まるだろうことは予想していたが、ここまでの人数になるとは思っていなかった。


 しかも、風域の異常はまだ完全に解消されたとは言えない。いったい、どう説明すればいいというのか。ウェンデルの正体はばれないように……


 そう考えた矢先、モーンが前に出て、彼女を助けるように声を張り上げた。


「うるさい!野次馬ども、さっさと自分の持ち場へ戻れ!クネイト様は、これはただの偶発的な出来事だと、すでに確認しておられる。くだらん噂を広めるんじゃない!」


 もちろん、それで全員が納得したわけではない。


「でも、風域でこんなこと、今まで一度も……」


「今まで一度もなかった?本当にそうか?」


 モーンはそう言いながら、異を唱えた若い臨界者を睨みつける。


「坊主。お前は、風域がどうやって生まれたか、知っているのか?」


「え……いえ、知りません。」


「では、この土地について、どれほど理解している?」


「……」


 今度は、その青年は一言も返せなかった。モーンは視線を周囲へと巡らせる。


「ここにいる者の中で、風域をよく知っていると胸を張って言える者はいるか?」


 誰一人、答えなかった。


「よし。誰も風域の正体を知らないというのなら、想定外の現象が起きても、何が不思議だ?いいか、いつもの状態を当たり前だと思うな!


 こうした事態に備えるためにこそ、我々は交代で風域を見張っているんだ。よく見てみろ、今はもう風域は元に戻っているじゃないか。」


 最後の言葉に、全員が一斉に風域の方向を振り返る。そこには、巻き上がる黄砂と、唸りを上げる風の音。確かに、風勢はすでに回復していた。


「これで安心しただろう?用が済んだなら、さっさと帰れ。クネイト様は、まだ忙しいんだ。」


 なおも釈然としない表情を浮かべる者はいたものの、事態が収まった以上、村人たちは肩をすくめながら散っていった。


 人々が次々と去っていくのを見届けてから、クリストはようやく息をつき、モーンへ深く頭を下げる。


「……助けていただき、ありがとうございました。」


 モーンは彼女を睨みつけ、苛立ちを隠そうともせず言い放った。


「助けたつもりはない。若造どもが大騒ぎしているのを見て、腹が立っただけだ。」


 そう言いながらも、実のところモーンは、思わず口出ししてしまった自分自身に腹を立てていた。それを察して、クリストは小さく苦笑する。


 どうせ、この人は素直に認めるはずがない。


「それはそうと。風域は、いつ元に戻ったのですか?」


 常に風域の様子に気を配っていたフレイヤが、すぐに答えた。


「ここに着いて、しばらくしてからだよ。」


 まだ怒りの余韻が残るモーンは、鼻を鳴らして吐き捨てる。


「だから言っただろう。直感というのは、お前が思っている以上に役に立つものなんだ。」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ここは、どこだ?


 意識を取り戻した瞬間、ウィンデルの脳裏に真っ先に浮かんだ疑問だった。彼は身を起こしてベッドを降り、窓の外を覗き込む。


 どうやら、ここは丘の上に建つ一軒の小屋。


 窓からは、山々に囲まれた谷が一望できた。


 時刻はすでに夕暮れ。橙と紅が混じった夕陽が南西から谷へ差し込み、全体を柔らかな黄昏色に染め上げている。


 やがて太陽が山の向こうへ沈むにつれ、山影が地面に灰色の影を落とし、ゆっくりと谷全体を呑み込んでいった。


 光と影が交錯するその谷の中に、彼は一つの村を見つける。


 規模は中程度。ハサードよりは大きく、だがミラージほどではない。村の周囲には、牛や羊を放つ牧草地と、すでに刈り取られて地肌を晒した小麦畑が広がっていた。


 だが、ウィンデルの視線を強く引きつけたのは、別のものだった。本でしか見たことのない建造物。


 風車。


 谷の縁には、数多くの風車が点在していた。


 ただし、それらは均等に配置されているわけではなく、大半が谷の北側の山裾に集中して建てられている。


 奇妙なのは、その動きだった。互いにほど近い場所に立つ風車同士でさえ、あるものは異様なほど高速で回転している一方、別のものはぴくりとも動いていない。


 なぜだ?もし北側の風車だけが回り、南側が止まっているのなら、方角による風力の差だと説明もつく。だが、目の前の光景は明らかにそれとは違う。


 しかも、ウィンデルが窓からそっと手を伸ばしてみても、周囲には風らしい風は一切感じられなかった。


「……風車が気になるかい?」


 不意に背後から、陌生で年老いた声が、彼の胸中を言い当てるように響いた。


 驚いて振り返ると、そこには、いつの間に入ってきたのか七十は優に超えていそうな老人が立っていた。


 穏やかな顔立ちで、頭にはわずかに残る銀白色の髪。顎の下には、同じく白銀の、長く整えられた優雅な髭が揺れている。


 ウィンデルと目が合うと、老人はにこやかに微笑み、ゆっくりと肘掛け椅子へ向かって腰を下ろした。


 いや、正確には「腰を下ろそうとした」のだろう。


 老人はしきりに体を動かし、あれこれと姿勢を変えながら、どうにか一番楽な位置を探している様子だった。


 しばらく格闘した末、ようやく納得のいく座り方に落ち着いたのか、深く息を吐く。その一部始終を見つめていたウィンデルに気づき、老人は照れたように笑った。


「すまんな。歳を取ると、あちこち痛んでね。楽に座るのも一苦労でさ。」


 ウィンデルもつられて微笑む。柔らかな口調と温かな笑顔に、自然と好感を抱いてしまう。だが、すぐに目覚めてからずっと胸に引っかかっていた疑問を思い出した。


「ええと……失礼ですが、ここは一体、どこなんですか?」


 老人は、意味ありげに微笑む。


「若者よ。ここは君がずっと来たいと願っていた場所じゃないのか?」


 ウィンデルは眉をひそめ、もう一度窓の外を見やり、そして老人へ視線を戻した。


「……まさか、ここが風の都なんですか?」


「そうだよ。」


「でも……」


 再び外を見たウィンデルの表情には、はっきりとした落胆が浮かんでいた。それを見逃さず、老人はすぐに察したように言う。


「想像していた風の都とは、まるで違った、という顔だね?」


 少し迷った末、ウィンデルは苦笑しながら頷いた。


「ふふふ。残念だが、ここが風の都で間違いない。もっとも、その名自体が、外の人間が勝手に思い描いた神秘の地に付けた呼び名に過ぎんのだがね。実際は、ただの臨界者が暮らす村にすぎない。」


「……そう言われれば、確かに。」


 ウィンデルは納得したように呟き、すぐに次の疑問を口にする。


「ところで、どうして僕はここに?」


「クネイトの娘が君を連れてきた。来た時には、すでに意識を失っていたから、覚えていないのも無理はない。」


 クネイトの娘……それはフレイヤだよな?自分が意識を失っていた?どうして?


 ウィンデルは必死に記憶を辿り始め、やがて風域に入ってから二日目の夜の出来事を思い出す。


 うーん、あの時、確か夢を見ていた。でも、夢の内容は……荒野で、男が二人、女が一人。三人が何かを話していたような気がするが、肝心の会話は思い出せない。


 どれだけ考えても、はっきり覚えているのは、三人の名前と、彼らが互いに別れを告げていたということだけだった。


 表情が刻々と変わるウィンデルを見て、老人が問いかける。


「どうした?」


「いえ……意識を失う前に、何があったのか思い出そうとしていて。」


「思い出せたかね?」


「……はい。まず夢を見て、目が覚めたあと、フレイヤに言われた通り、風の声を聴こうとしたんです。そうしたら、夢に出てきた人物の一人が、僕に話しかけてきて。それから……気づいたら、ここでした。」


 話し終えたウィンデルは、自分でも馬鹿馬鹿しい作り話みたいだと思った。


 だが、老人は少しも疑う様子を見せず、むしろ顔つきを一変させ、真剣な表情になる。


「夢に現れた人物の声を聞き、しかも会話をした、と?」


 その重みのある問いかけに、ウィンデルは不安を覚えながらも、静かに頷いた。


「はい。」


「その人物の姿は覚えているか?名前は?」


「姿はもうほとんど……でも、名前はたしか……グレイヴ。そう、グレイヴです。」


 その名を聞いた瞬間、老人は勢いよく背筋を伸ばした。


「グレイヴだと?まさか……グレイヴ・ミスリ、ではあるまいな?」


「えっ……いえ、苗字までは名乗っていませんでした。」


 答えながら、ウィンデル自身も驚きを隠せなかった。


 ミスリ?それって、フレイヤと何か関係がある名前じゃ……?


 老人は眉を寄せ、しばし考え込んでから、さらに問いを重ねる。


「その夢には、グレイヴ以外、他の人がいたかい?」


「はい。男が一人と、女が一人です。男はノティと名乗っていて、どこか軽薄そうな人でした。彼の妻らしい女性は、見た目は普通ですが、とても鮮やかな赤髪で……腕の中に、女の赤ん坊を抱いていました。」


「女の?男の子ではなく?」


 そう問われ、ウィンデルは言葉に詰まる。


 赤ん坊の性別など、外見だけでは分かりにくい。女の子だと感じたのも、単なる直感に過ぎなかったし、当時はそこまで注意して見ていたわけでもない。


「正直に言うと、はっきりとは……」


 老人は頷き、椅子に深く身を沈めながら、信じられないといった様子で呟いた。


「妙だな。そんなことが、あり得るのか……」


「その人たちをご存じなんですか?」


 老人はさらにしばらく沈黙し、やがてゆっくりと視線をウィンデルへ戻す。


「ノティと名乗った男の本名は、ノティ・ディーゼル。そして、赤髪の女性はおそらく、エリアーナ・ノエル。ノティの妻だ。


 二人は、現在の合衆国王家――ディーゼル家の祖先にあたる人物だ。私の推測が正しければ、彼女が抱いていた赤ん坊は、彼らの息子の一人だろう。


 先ほど君を疑ったのも、文献の記録では、ノティ・ディーゼルに娘はいなかったからだ。」


 そこまで聞いて、ウィンデルは完全に言葉を失った。


 自分は遥か昔に、実在した人物たちの夢を見ていたというのか。


 では、幼い頃から見続けてきた、あの数々の夢は……?


「そして、君と会話をしたという男だが……おそらく、グレイヴ・ミスリだろう。」


 老人はそう言ってから、まるで初めてウィンデルを見るかのように、じっと彼を見つめた。


「我々すべての臨界者の共通の祖先――そして、史上初の臨界者でもある。」


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