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40 夢の影

 ウィンデルは声のする方へ視線を向けた。闇の中に、三つのぼんやりとした人影が浮かび上がっている。


「わかった。じゃあ、ここまで送る。」


 少し離れた場所から、別の低く落ち着いた声が応じる。その直後、夜は再び静寂を取り戻した。


 ウィンデルはすぐさま人影のほうへ近づいた。距離が縮まるにつれ、三人の姿が次第にはっきりしてくる。


 向かい合って立つ、二人の男と一人の女。片側には、夫婦に見える男女が並び立ち、もう一人の男がその正面に立っている。


 よく見ると、女は腕の中に、生後まだ数か月ほどの女の赤ん坊を抱いていた。赤ん坊を抱くその女は、第一印象こそ特別に目を引くほどではない。


 だが、荒々しくも鮮烈な赤い髪だけは、否応なく視線を引き寄せる力を持っていた。その隣に立つ男は、気ままな風来坊といった風体で、どこか掴みどころがない。


 少し軽薄にも見えるが、彼の淡い灰色の瞳を見た瞬間、ウィンデルは言い知れぬ違和感を覚えた。


 その色は、まるで本来そこにあるべきではないかのようだった。


 そして最後の男へと視線を移す。彼の雰囲気は、先ほどの放浪者然とした男とはまるで違う。


 深い彫りの顔立ちと、奥行きを感じさせる蒼い瞳。それらが、容易には近寄れない冷ややかな空気をまとわせていた。


 今この瞬間、誰一人として口を開かない。三人はそれぞれの思いを胸に抱いたまま、荒野の只中に静止していた。


 やがて、赤髪の女が沈黙を破り、向かいの男へ小さく一礼する。


「兄さん、あとはお願いします。」


 その言葉を聞き、二人の顔立ちにこれといった共通点がないことから、ウィンデルは悟った。


 彼女が「兄さん」と呼んだのは、血縁によるものではなく、単に年長者だからなのだろう。


 冷ややかな気配をまとった蒼眼の男は、軽くうなずいて口を開く。


「わかっている、エナ。そこまで改まる必要はない。最初から決めていたことだろう?」


「ええ、そうだけど……ノティと私、どうしても少し不安で。」


「心配することはない。君たちの一族は、必ず私が守ると約束したはずだ。」


 エナは、どこか寂しげに息を吐いた。


「兄さん、私たちが心配しているのは、そこじゃないの。心配なのは……あなたよ。」


「私の何を心配する?」


 そのとき、エナの隣に立つ男が口を挟んだ。


「グレイヴ、本当に大丈夫なのか?」


 蒼い瞳の男――グレイヴは、その言葉に気にも留めないといった表情を浮かべる。


「ノティ、いつからそんなに心配性になった?君らしくないな。」


「そうかもしれない。でも、改めて考えると……僕たちが全部背負わずに去ってしまったら、君の負担が大きすぎる気がしてさ。だったら――」


 言い終える前に、グレイヴの低い声がそれを遮った。


「馬鹿なことを言うな。ここまで長い時間をかけて決めてきたんだ。今さら後戻りする気か?君ほど賢い男が、そんな愚かな判断をするとは思えないが。」


「でも……もっと良い方法があったのかもしれない。ただ、僕たちが短い時間で思いつかなかっただけで……」


 グレイヴは、かすかに苦笑する。


「思いつかなかっただけ、だって? ノティ、十三年だ。私たちが共に過ごしたこの十三年が、短い時間だと言うのか?」


「……」


「君は多くの悲劇を見てきた。だからこそ、私よりも理解しているはずだ。この世界に、誰もが幸せになる結末など存在しない。


 誰かが得れば、必ず誰かが失う。それに、自分たちの意思で選んだ以上、不満を口にする資格はない。


 もし私たちが嘆くなら、選ぶことすらできなかったその子どもたちは、いったいどうなる?」


 灰色の瞳をしたノティは、しばらく黙り込み、やがて深く息を吐いた。


「……君の言うとおりだ。」


 その沈んだ表情を見て、赤ん坊を抱くエナは、空いた片腕でそっと彼の腰に手を回す。グレイヴも歩み寄り、彼の肩を軽く叩いた。


「罪悪感を覚える必要はない。君は力を手放し、私は自由を手放した。それだけのことだ。必ず、あの品々を見つけ出せ。そうして初めて……世界は本来あるべき軌道に戻る。」


「わかっている。任せてくれ。」


 親友の眉間から力が抜けたのを見て、グレイヴは微笑んだ。


「君とエナが世界を旅し終えた頃、もしこの老友のことを覚えていたら……そのときは、旅先での面白い話を聞かせてくれ。」


「もちろんだ。必ず戻ってくる。」


 エナも笑いながら口を挟む。


「その頃には、何日かけても語り尽くせないくらいのお話になってるかもしれませんよ。兄さんが、早く黙らせてくれって頼むくらいに。」


「ははは。それなら、いい酒をたっぷり用意して、こいつを酔いつぶしてもらわないとな。」


 そう言うと、三人は同時に、心からの笑みを浮かべて笑い合った。


 しばらくして、グレイヴは笑いを収め、夜空を仰ぐ。


 夜明け前の空には、まだ無数の星が瞬いている。間違いなく、今日は晴れるだろう。彼は目を閉じ、今この瞬間の風に身を委ねた。


 予想どおり、冬の名残と春の兆しが交わるこの時期特有の風だ。厳冬の刺すような冷たさは影を潜め、代わりに、ほのかな春の冷えを含んだ清涼な空気が漂っている。


 旅には、これ以上ない追い風だ。そう思い、グレイヴは満足そうに微笑んだ。


「今日は、旅立ちにふさわしい日だ。君たちは運がいい。」


「当然だろう?あんたの顔を見ればすぐわかる。それに、たとえ曇り空だったとしても……きっとこっそり雲を吹き払ってくれるんだろう?」


 隣にいたエナも、そのやり取りを聞いて思わず吹き出した。だがその直後、ひときわ強い風が吹き抜け、なぜか三人の胸に、はっきりとした別れの感情が込み上げてくる。


 つい先ほど再会を約束したばかりだというのに、目的を果たすためには……この先、生涯二度と顔を合わせることがないかもしれない。


 その事実を、誰もが心のどこかで理解していた。思索に沈むグレイヴの横顔を見て、ノティが静かに声をかける。


「……その子たちのことを考えているのか?」


「……そこまでわかるのか?」


「難しくないさ。あんたの性格なら、自分のことより他人を優先する。この計画で、いちばん心配なのは、どう考えてもあの子たちだ。」


 グレイヴは、苦笑しながら首を振った。


「残念だが、今回は外れだ。確かに彼らのことを考えてはいるが……心配しているわけじゃない。」


「じゃあ、何を?」


 グレイヴは視線を東へと向ける。遠い空の縁には、すでにかすかな薄明かりが滲み始めていた。


「……後悔しているんだ。こんなにも重い責務を、罪のない子たちに背負わせてしまったことを。」


 ノティは答えなかったが、その沈黙が同意を物語っていた。彼もまた、グレイヴの視線を追うように息を吐き、丘の向こうからわずかに差し込み始めた光を見る。


 もうすぐ、夜が明ける。グレイヴは、いったい何を見ているのだろう。昇りゆく朝日か、それとも、あまりにも遠い未来か。


 わずかに眩しさを帯び始めた光に気づいたのか、エナの腕の中の赤ん坊も、くるりと東を向いた。


 グレイヴはちらりとその顔を見やる。好奇心に満ちた海のような青い瞳は、驚くほど父親に似ていた。


 この瞬間、四人は皆、待っていた。闇の中で、光が大地を照らすその時を。


 ああ、夜明け前の闇というものは、いつだって最も深い。


 グレイヴは、再びあの子たちのことを思い浮かべる。ノティも、今まさに同じ思いを抱いているに違いない。


 彼らは、この闇を耐え抜くことができるのか。


 それとも、朝日が昇るより先に、闇に呑み込まれてしまうのか。


 グレイヴにはわからない。おそらく、あの身勝手な神以外には、誰にも。


 皮肉なことに、二人はそれぞれ予言をしたのに、この世で最も未来を確信できない者であり、そして最も未来を知りたいと願う者でもあった。


「ノティ……俺が本当に知りたいのは、私たちの同胞が生き残れるかどうかじゃない。」


「わかってる。」


 その瞬間、朝日が地平線から姿を現した。ノティの灰色の瞳に、直視できないほどの光が宿る。


「……だって、僕も同じだから。」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ウィンデルは、ゆっくりと目を開いた。最初に飛び込んできたのは、夜明けの太陽ではなく、空いっぱいに瞬く星々だった。起きてから数秒、ようやく今の状況を理解する。


「……ずいぶん、妙な夢だな。」


 夢の中で交わされていた三人の会話は、理解できたようで、どこか噛み合わない。


「まあ、いいや。」


 ウィンデルは軽く頭を振り、これ以上夢の内容を考えるのをやめた。


 淡い星明かりの下、横を見ると、毛布に包まって丸くなったフレイヤが見える。規則正しく、細く長い寝息が聞こえてきた。


 なぜだろう。その光景を見ているだけで、心がすっと落ち着いていく。


「……そうだ。今日は、新しいやり方を試すんだったな。」


 そう思った瞬間、胸の奥に、抑えきれない高揚感が芽生えた。風域という特殊な環境で、自分は風から何を聞き取れるのか――それを確かめたかった。


 結界の外に目をやると、今のところ風はそれほど荒れていないようだ。


 ウィンデルは、眠っているフレイヤを起こさないよう注意しながら、ひとり外に出ることにした。そっと立ち上がり、結界の縁を越えて手を伸ばす。


 夜明け前の冷たい空気が、指先から体の奥へと染み込んでくる。まるで、澄んだ冷水に手を浸したかのようだ。


 大きく息を吸い込み、ウィンデルは意を決して一歩踏み出した。吹き飛ばされる覚悟はしていたが、幸いにも、真正面から受けた風は冷たいだけで、身を打ち倒すほどの力はない。


 これ以上進めば危険かもしれないと判断し、彼は結界のすぐ外で胡坐をかき、静かに目を閉じた。


 ヒュウウゥ――


 不思議なことに、風を無理やり無数の糸に分解しようとしなくなった途端、風がまるで生き物のように感じられた。


 ヒュウウゥ――


 耳に届くのは、風の高らかな唸り声。暗夜に響く、ソプラノの哀切な独唱のようだ。


 時に激しく、時に緩やかに肌を打つ冷気は、久しぶりに再会した友へ向けた、抑えきれない苛立ちのようにも思える。


 ヒュウウゥ――


 そこには、哀しさや怒りだけではない。果てしなく長い時の中で、誰にも想いを打ち明けられなかった孤独が、確かに宿っていた。


 まるで、夢の中で残ることを選んだ、あの冷たい男が、親友と別れた後に抱いた感情のように。


 気づけばウィンデルは、両腕を大きく広げ、深く息を吸い込んでいた。


 この感情を、風ごと肺の奥まで取り込み、自分の身体で受け止めるために。


 そして、静かに言葉を紡ぐ。


「……ひとりじゃない。ちゃんと聞いてるよ。」


 異様な呼吸音を耳にして、フレイヤは目を覚ました。眠たげに目をこすり、音のした方へ視線を向けた瞬間、眠気は一気に吹き飛ぶ。


 ウィンデル本人は気づいていなかったが、周囲の風は彼へと集まり、彼を中心に風の渦を形作っていた。


 フレイヤは声をかけようとしたものの、喉元まで出かかった言葉をすぐに飲み込む。


 ウィンデルの様子からして、明らかに無我の境地に入っている。


 ……何かが起こる。


 フレイヤの直感がそう告げた時、ウィンデルの脳裏にひとつの声が響く。どこか懐かしさを覚える声。


「来たか」


(……誰だ?)


 疑問を口にする前に、その声は彼の意識を読み取ったかのように続けた。


「お前がすでに知っていて、そして永遠に知ることのない存在だ。」


(どういう意味?)


「お前も私も、決して運命からは逃れられない、という意味だ。」


(運命運命って、やめてくれ。そういうのは好きじゃない。)


「奇遇だな。俺もだ。」


 わずかな笑みを含んだその声に、ウィンデルは夢の中で聞いた、あの蒼い瞳の男の笑い声を思い出す。


(まさか……お前はグレイヴ?)


 ウィンデルの動揺とは対照的に、声はあくまで落ち着いていた。


「悪くない推測だが、残念ながら俺は彼そのものではない。ただの残響にすぎない。」


(残響に、意識があるのか?)


「彼がお前の到来を強く願った思念が、風に、そしてこの場所に残ったからだ。」


(……グレイヴは、俺を待っていたのか?)


「彼だけじゃない。多くの者が待っている。しかも、ずっと長い間。」


(どうして?)


「運命だからだ。」


 その声音に含まれた揶揄を感じ取り、ウィンデルは不快感を覚える。すると、それを察したかのように、声はすぐに言葉を継いだ。


「この話題は好みじゃないようだな。まあいい。冗談は得意じゃないし、本題に入ろう。あの少女に導かれてここへ来たということは、お前も彼女も、すでに最初の選択をしたということだな。」


(最初の選択?)


 一瞬、首をかしげたものの、すぐに故郷を離れ、フレイヤと共に行くと決めたことを指しているのだと悟る。


(それがどうした?)


「この先に待つ、より困難な選択を前にして、お前が本当に耐えられるのか――それが気になってな。だから一つ、忠告をしておきたい。」


(忠告?)


「一つ一つの選択に、常に畏れと慎みをもって向き合え。次はないものだと思え。言い換えれば、決断した以上、決して後悔するな。」


 異様なほど真剣な口調にもかかわらず、ウィンデルにはただの当たり前の話にしか聞こえなかった。


(……当然だろ。時間は巻き戻せないし。)


 今度は、その思いに対する返答はなかった。一瞬、声の主が消えたのかと思ったが、すぐに風の中に、ためらいの気配を感じ取る。


(何を言うべきか、迷っている?言いたくても言えないことが、あるのか。)


 そう思った瞬間、再び声が響いた。


「察しの通りだ。本当は話したいことが山ほどある。だが、まだ時ではない。今、私に言えるのは……ただひとつだけだ。」


 一拍置いて、声は告げる。


「ようこそ。我々の世界へ。」


 その言葉を最後に、すべては沈黙に包まれ、ウィンデルを取り巻いていた風の渦も霧散した。


 ウィンデルには分かっていた。今度こそ、あの声は本当に消えたのだと。


 彼が目を開くと、真っ先に飛び込んできたのは、驚きのあまり言葉を失っているフレイヤの姿だった。


 ……なぜ、そんな顔を?


 そう思った直後、周囲の異変に気づく。唸りを上げていた風の音が、消えていた。


 風域の風が……完全に、止まっている。


 その事実を理解した瞬間、激しい眩暈が襲い、ウィンデルはそのまま意識を失った。


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