39 絕風結界
風域に入って二日目の夕暮れになっても、ウィンデルの状況は相変わらずだった。立ち上がっては吹き飛ばされ、また立ち上がっては吹き倒される。
その繰り返しを眺めながら、地面に膝を抱えて座っていたフレイヤは、つい大きなあくびを漏らす。
「ねえ、ちゃんとイメージしてるの?」
「もちろんだよ。頭の中、もう脳みそが細〜い糸に分解されそうなくらい必死なんだからさ。」
「それって、要するに才能ゼロって言いたいの?」
半日以上も失敗を重ね、いよいよ心が折れかけていたウィンデルは、重く息を吐いた。
「……たぶん、そうなのかもな。」
その弱気な一言を聞いた瞬間、フレイヤは手のひらに小さな球状の風圧を凝縮し、そのままウィンデルの頬めがけて放った。
「そんな簡単に諦めて、男でしょ!」
頬を軽く殴られたような感触に、ウィンデルはきょとんとして周囲を見回す。そして、にやりと笑うフレイヤの表情を見て、犯人が誰かを察した。
もっとも、腹を立てようにも立てられなかった。結局のところ、原因は自分があまりにも覚えが悪いことにあるのだから。
「……はいはい。続けるよ。」
よろめきながら起き上がるウィンデルを見つめつつ、フレイヤの胸中には別の困惑が渦巻いていた。
この子、いったい何なの?風の術に関しては、どう見ても才能があるようには思えない。
それなのに、何の前触れもなくラゴンを召喚し、さらには自分と拮抗するほどの予知を成し遂げ、「運命」まで生み出した。
それだけではない。夢を通して未来を予知できる臨界者など、これまで聞いたこともない。
考えれば考えるほど、目の前の少年は理解不能だった。
あのとき、どうしてウィンデルはラゴンを呼べたのか。
単なる幸運?
それとも、ラゴンを導く上で重要なのは技術ではなく、だからこそ導き手の才能が皆無なこの子が、偶然うまくはまっただけ?
本当にそんな単純な話なの?もしそうなら、すべての聞き手が……
その瞬間、フレイヤは自分が致命的な思い込みをしていた可能性に気づいた。
どうして私は、最初からこの子を「導き手」だと決めつけてたんだろう?
その盲点を意識した途端、フレイヤは鋭くウィンデルへ視線を向けた。
「ウィンデル。さっきまで言ってたこと、忘れて。」
「……はい?」
突然の言葉に、ウィンデルは完全に面食らう。
「えっと、どれを忘れろって?」
「風を何千何万もの糸に分解して考える、あのイメージ。もうやめて。」
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
少しだけ逡巡してから、フレイヤは正直に答えた。
「正直……私にもわからない。」
「……それ、教える側が言うセリフ?」
だが、続くフレイヤの言葉は、さらにウィンデルの予想を裏切るものだった。
「だから、どうすればいいのは――あなた自身を聞いて。」
「急にどうしたんだよ。そんなの、僕がわかるわけないだろ。」
「わからない?じゃあ、ラゴンを導いたときはどうしてできたの?」
「それは……ただの感覚っていうか……」
フレイヤはきっぱりと言い切った。
「だったら、その感覚を信じてみて。直感が、風が何を語ってるのか、どう操ればいいのかを教えてくれるはずだよ。」
言葉にするのは簡単だが、実のところフレイヤ自身、この教え方が正しいのか確信はなかった。ただ、以前母から聞いたことがあるんだ。
多くの聞き手は、心の奥から湧き上がる直感に従ってるって。
もしウィンデルが、導き手としての基礎すら身につけられないのだとしたら、考えられる理由は一つしかない。
彼は正真正銘の聞き手なのだ。
「……わかった。やってみる。」
そう言ってウィンデルは小さくため息をついた。
フレイヤがなぜ急に方針を変えたのか、正直よくわからない。だが、風の術について何も知らない自分に、異を唱える資格もなかった。
それでも、無理やり風を何かに当てはめて想像しなくていい――そう思えたことで、胸の奥が少しだけ軽くなったのを、ウィンデルは確かに感じていた。
だが、彼が言われたとうりにやってみようと決めたその矢先、フレイヤは容赦なく水を差した。
「今すぐ試せって言ってるわけじゃないよ。続きは明日。もうすぐ日が沈むから。」
ウィンデルは空を見上げる。言われてみれば、いつの間にか一日が終わりかけていた。
そういえば昨日も、この時間になるとフレイヤは練習を切り上げさせ、翌日に回していた気がする。
「昨日も同じこと言ってたよな。どうして日が沈んだら続けちゃだめなんだ?」
「夜になると、風域の風は一気に荒れるの。そんなときに下手に試したら、立てなくなるどころの話じゃない。強風に叩きつけられて、文字通り地面に転がされる。
打ち身で済めばまだ運がいい方で、下手したら骨を折ることだってある。」
それを聞いて、ウィンデルは思わず小さく舌を打った。
「そんなに大げさなのか?」
「疑う余地はないよ。事実だから。だから今日はここまで。」
そう言うと、フレイヤは立ち上がって、両腕で自分の肩を抱くようにして、静かに囁いた。
「風よ。どうか、私に安らぎの場を」
次の瞬間、フレイヤを中心に、半径三メートルほどの範囲から風が完全に消え失せた。
初めて見る光景ってわけじゃない。それでもウィンデルは、この技を魔法と呼んでも差し支えないのではないかと思ってしまう。
あれほど激しい風が吹き荒れる中で、微風一つ入り込まない空間を無理やり作り出し、それをいとも簡単そうに維持しているのだから。
「これ、いったいどうやってるんだ?」
「絶風結界のこと?」
「ぜっぷう……結界?」
またしても、聞いたことのない言葉だった。
「そう。実は、今あなたがやってる練習より、ちょっとだけ応用した技術なだけだよ。
最初に言ったでしょ、風を細い糸みたいに分解して、身体の周りをすり抜けさせるって。絶風結界は、それを周囲に広げてるだけ。」
「じゃあさ、それをやるとき、頭の中ではどんなふうに想像してるんだ?」
そう問われた瞬間、フレイヤの頬がわずかに赤くなる。それを誤魔化すように、彼女は視線を落とし、背負っていたバッグから夜用の薄い毛布を取り出し始めた。
「……ある強大な存在がいて、その全身でこの空間を包み込んで、外から吹き込む風を全部防いでくれてる、って想像してる。」
「ふん……で、この結界、最大でどれくらいまで広げられるんだ?」
「それは術者の想像力と技量次第かな。私の場合、半径三メートルならほとんど負担もないし、眠ってる間でも維持できる。でも、数分だけでいいなら……半径五十メートルくらいまでは広げられるよ。」
フレイヤの口調に、誇らしげな響きは一切なかった。ただ事実を述べているだけ――それが、かえってウィンデルに二人の間にある圧倒的な差を突きつける。
その表情を見て、フレイヤは小首を傾げる。
「そんなに驚くこと?母さんと比べたら、私はまだまだなんだけど。」
その夜、二人は簡単に腹を満たすと、早々に眠りについた。
ウィンデルの意識が徐々に薄れていった、その次の瞬間、冷たい風が頬を撫で、思わず身を震わせて目を開く。
周囲は相変わらず闇に包まれている。それなのに、どこか違和感があった。
隣を見ると、そこには誰もいない。理由もなく、何か大切なものが欠けてしまったような、妙な喪失感が胸に広がる。
ここは、どこだ?
そう考えた途端、ウィンデルははっとした。
そうだ。この感覚は知っている。いや、知っているどころじゃない。嫌というほど、慣れ親しんでいる。
ウィンデルは当てもなく歩き出し、本来ここにいるはずの誰かを探し始めた。だが、夜明け前の闇はあまりにも深く、視界は最悪で、探している相手の姿はなかなか見つからない。
困惑し始めた、そのときだった。
遠くの闇の向こうから、ひとつの声が響いてくる。
「ここまででいい。送ってくれてありがとう、グレイヴ。」




