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37 難しい初歩

 クリストは右手を上げ、曲げた指が扉を叩こうとしたけど、その寸前で動きを止めた。


 クリストをためらわせることは多くない。だが、彼女が最も会いたくない二人のうちの一人を訪ねるとなれば、その理由は間違いなくその中に入るだろう。


 上げては下ろし、下ろしてはまた上げる。そんな無意味な動作を何度か繰り返したあと、クリストは深く長い溜息をついた。


 だめだ。やるべきことは、結局やるしかない。


 もう一度、彼女は手を上げた。今度は迷わなかった。


 コン、コン。


 指先が扉を叩く音は決して大きくはない。それでもクリストの胸の奥──彼女が永遠に閉ざしておきたい最深部へと、深く響き渡った。微動だにしない木の扉を見つめながら、彼女は思う。


 もし私が訪ねてきたと知れば……あの人には、この小さな音でさえ耳をつんざく騒音に感じるだろう。


 長い時間が過ぎたようにも思え、あるいはほんの数秒だったのかもしれない。やがて扉が引かれ、しかし、その主はクリストの顔を認識した瞬間、反射的に扉を閉めようとした。


 その反応は予想済みだ。クリストはすぐさま手を伸ばし、無理をしない程度の力で扉を押し留めた。相手は老人だ。強く押し返すつもりはない。無礼に映るのも避けたかった。それでも、老人の顔には露骨な不快が浮かぶ。


 ……いや、正確には、訪ねてきたのがクリストである時点で、もう十分に不快だったのだろう。


 沈黙のまま互いを睨み合う時間がしばし流れ、先に口を開いたのはクリストだった。


「こうしてお一人を訪ねるのは、随分と久しぶりですね。」


「ふん。わしはそんな真似を頼んだ覚えはないがな。」


 老人を知る者なら誰でもわかる。人当たりの良いこの男に、ここまで露骨な言葉を言わせるのは並大抵のことではない。


「存じています。でも、今日は私がお願いしたいことがあって参りました。」


「いやはや、クネイト様にそう言われるとは光栄だね……だが、断る。」


「今ここで断れば、きっと後悔しますよ。」


 老人は一瞬だけ黙り込み、やがて乾いた、耳障りな笑いを漏らした。


「後悔なら、もう十分すぎるほどしてきたよ。わしが生涯で一番後悔しているのは……お前を、実の娘のように思ってしまったことだ。」


 その一言に、クリストの胸に鋭い痛みが走る。あまりにも多くの記憶を呼び起こす言葉だったからだ。かつて笑って迎えてくれた面影はどこにもなく、老人はただ冷たく彼女を見つめている。


 クリストが沈んだ目を伏せたのを見て、老人は少しだけ表情を緩めた。


 矛盾した感情だった。彼女を恨んでいる。しかし、できれば恨みたくもない。


 そんな思いが胸の奥で揺れている。


「……まあいい。入りなさい。客は客だ。」


 老人は固く握っていた扉の取っ手を放し、中へ戻っていく。


「だが勘違いするな。お前は『クネイト』として、わしの客なのだ。」


「……はい。」


 言外の意味を理解し、クリストは無言で頷くと靴を脱ぎ、後につづいた。


 一歩、屋内へ足を踏み入れた瞬間、足裏に冷気が這い上がり、思わず視線を落とす。何十年と変わらぬ木の床板が、今はひどく冷たく感じられた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ウィンデルとフレイヤは、切り立った山壁沿いの崩れやすい小石道を、ほぼ一時間かけて降り、ようやく風域の縁へと辿り着いた。


 いまウィンデルは山壁に背を預け、フレイヤの「風の術」の講義を聞いているところだった。ひと区切りついたところで、ウィンデルの眉が曇っているのに気づいたフレイヤが問いかける。


「……さっきの説明、全部わかった?」


「言ってることはわかったけど、僕にできるかどうかは……ちょっと自信ないな。」


「試しもせずに弱音?ふうん。まあいいわ。挑む勇気もないなら、家に帰って木こりでも続けていれば?」


 フレイヤがわざと煽っていることはわかっている。だがウィンデルの胸には、不思議と闘争心が湧き上がった。


「……よくよく考えたら、君にできて僕にできないわけがないよな。」


「へぇ。」


 フレイヤは興味深そうに眉を上げた。こんなふうに大口を叩く者など、もう何年もいなかった。だが不思議と腹は立たず、むしろほんの少しだけ楽しかった。


「ずいぶん言うじゃない。じゃあ、見せてもらおうかしら。あなたの才能を。」


 彼女はくるりと背を向け、軽やかに十歩ほど先へ歩き、ひょいと膝を抱えて座り込む。


「ここまで来てみなさいよ。」


 少女の挑発に、ウィンデルは迷いなく踏み出した。だが、その第一歩を踏んだ瞬間、丘の上よりも数倍は強烈な風が彼を正面から叩きつけた。


 見えない巨人が立ちはだかっているかのように、一歩も前へ進めない。


 もし無理に足を上げようものなら、地面を離れた瞬間、あっさり吹き飛ばされるだろう。


 だが、ウィンデルは退かなかった。そして次の瞬間――


 ドンッ!


 背中が山壁に激突し、そのまま前に崩れ落ちて土煙が舞い上がる。フレイヤは深く溜息をついた。


「……さっき、あんなに説明したのに。ほんとに全部忘れたのね。」


「……ぐ……っ」


 うつ伏せになったウィンデルは痛む背中をさすりながら、しばらく呻くだけで起き上がれなかった。


 その様子に、フレイヤは肩をすくめ、もう一度ため息をこぼす。


「痛いでしょ?無茶苦茶に歩き出すからよ。もう一回言うけど、いい?よく聞いて。


 風は、無数の細い糸でできていると想像するの。そして風が当たった瞬間、その糸を千本、万本にもほどいて、身体の周りを優しくすり抜けさせる。


 細かく分ければ分けるほど、受ける抵抗は小さくなるのよ。」


 言いながら、フレイヤはすっと歩き始めた。


 まるで散歩でもするかのような気軽さで……だが、彼女の周囲には、成人男性をいとも容易く吹き飛ばす暴風が渦巻いている。


 先ほどその威力を身をもって知ったウィンデルには、その光景はもはや信じられないものにしか見えなかった。


「よし、もう一度。」


 励ますというより、命じるような口調だった。


 ウィンデルが身を起こした瞬間、吹きすさぶ突風が容赦なく彼を押し倒す。地面に張り付いたまま身動きできないウィンデルは、思わず苦笑した。


「細い糸っていうより、ここの風は無形の鉄槌だろ……」


「そんなに難しい技じゃないわ。これ、本当に風の術の中じゃ一番簡単なのよ。私の知る限り、臨界者なら誰でもできるような初歩。


 あなたみたいに幼い頃から鍛錬していなくても、一日か二日あれば十分覚えられるはず。」


 二度目の挑戦でも起き上がるそばから倒され、ウィンデルは立つことを諦めた。


 地面に寝転がったまま両手を掲げ、掌や指先を掠めていく風の感触を確かめはじめる。


「想像、ね……」


 一日が過ぎても、ウィンデルはまったく進展がなかった。どういうわけか、フレイヤが簡単と言うほど、彼にはその要領がつかめないのだ。


 原因のひとつは、風域の風があまりにも不安定であることだった。


 綿のように柔らかく撫でる時もあれば、鋼鉄のように硬く叩きつけてくる時もある。しかしその強弱の変化には、これといった規則性がまったくない。


 時に風は強弱を激しく行き来し、彼の重心を揺らして立っていることさえ困難にし、またある時は穏やかな微風が続いた直後、不意に拳のような烈風が吹きつけ、緩んでいた警戒心ごと彼を叩き飛ばした。


 だが、ウィンデルに感じ取れるのはせいぜいその程度で、肝心の「風が無数の細い糸になる」というイメージが一向に掴めなかった。


 特に強風に何十回も吹き倒されるような状況では、風を「優しく」分解するなど想像すらできない。


 そんな彼を見て、フレイヤは眉をひそめる。


「そんなに難しくないはずなんだけど……?」


「じゃあ、君はどれくらいで覚えたんだよ?」


 ウィンデルの声も尖っていた。一日中考え、想像し続け、それでも掴める気配すらないのだ。苛立つのも無理はない。


 フレイヤは小さく首を傾げた。


「わかんない。」


「は?何でわからないんだよ?」


「物心ついた時には、もう食事みたいに当たり前にできていたので。」


 ウィンデルはしばらく口をぱくぱくさせたあと、顔をしかめる。


「……他の風使いも、みんなそんな感じなのか?」


「詳しくは知らないけど、たぶん似たようなものだと思うよ?」


「そっか……」


 その言葉は容赦なく彼の自尊心を叩き潰した。ウィンデルは自分が特別できない側の人間なのではないかと疑いはじめ、目に見えて落ち込んでいく。


 そんな彼を見つめながら、フレイヤは頬杖をつき、不思議そうに首をかしげた。


「でも最初は、あなたなら少し時間があれば出来ると思っていたんですけど。」


「なんでそう思ったんだ?」


「だって、あなた――何の訓練もしていないのに、ラゴン呼び出したでしょ。」


「ラゴン?」


「忘れたの?イテナ川であなたが出した、あの赤い風。私たちは『怒りの風』とも呼んでいる。」


「なんで怒りの風って言うんだ?」


 フレイヤは呆れ顔で肩を落とした。


「……わざと言ってない?」


「本気で知らないんだって。」


「ちょっと思い返せばわかるでしょう。あの時、あなたはどんな気持ちでラゴンを呼んだんです?」


 ウィンデルは眉を寄せ、記憶の底を探った。


「あの時……ああ、なるほど。」


「思い出した?そう。あれは、強烈な怒りがなければ呼べないの。」


「じゃあ、すごく怒ればいつでも出せるってことか?」


 フレイヤは即座に否定した。


「極度の怒りは確かに必要なんだけど、それだけで呼べるほど甘くないのよ。


 具体的にどんな条件なのか……それは私にも分かんない。ただ確かなのは、条件を揃えるのはとても難しいということ。


 そして、臨界者のほとんどは、一生に一度も四風を呼べないんだよ。」


「四風って、なんだ?」


 ウィンデルが食いつくと、フレイヤは小さくため息をついて説明を続けた。


「簡単に言えば、私たち臨界者は、世界が六つあると考えてる。


 人間が住むグレイド、創世神がいるイヤン。そしてデライ、ラゴン、サロ、フィル。


 この後ろの四つの世界から呼び出す風を『四風』って言うの。四風は、普通の風をはるかに上回る威力を持つだけでなく、その扱い方さえまったく別物なんです。」


 ようやく長年の疑問が腑に落ち、ウィンデルは深く頷いた。なるほど、フレイヤ母娘が臨界者を名乗る理由は、こうした世界観にあるのだ。


「どう違うんだ?」


「細かいことは私も分からないが……普通の風は技術がすべて。でも四風は違う。あれは臨界者が自分の感情をどう制御するかに、大きく左右されるんです。」


「感情を操れれば、四風も呼べるってわけか?」


「だから違うってば。そんな単純なら誰でも呼べてるわ。昔から四風を呼べた人は、例外なく臨界者の中でも選ばれた存在だけ――ただ一人を除いてね……」


 意味ありげな視線を向けられ、ウィンデルは顔をゆがめた。


「そんな目で見ても……まあ、わかったよ。もう少しやってみる。」


「うん、頑張ってね。」


 珍しく素直な励ましが飛んできて、ウィンデルは一瞬耳を疑った。しかし次の言葉で、いつもの彼女に戻る。


「十日も二十日も、こんな荒野で馬鹿みたいに付き合う気はないから。」


「……そういうのは心の中だけで言ってくれ。」


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