35 抜けてる少女
「誓約?」
「三十年前、臨界者と王家のあいだで誓約が結ばれた。私たちは王家のために未来を予知する。その見返りとして、王家は報酬を支払う義務を負う。
その報酬の一部が――この繁栄した村、ミラージが納める税の全額を、臨界者のものとすることだった。だからミラージは、いかなる領主の支配も受けていない。」
「なるほど。」
そう口にした直後、ウィンデルは違和感を覚えた。
「……いや、待てよ。それにしても、その誓約は不公平すぎないか?たかが一つの村の税収で、未来予知なんてありえないほどの力を得られるなんて。」
フレイヤは小さく苦笑する。
「最初から、対等な誓約じゃない。
だから王家は、せめてもの代償として、ミラージを徴兵対象から外した。それに加えて、この村の税率も少し引き上げた。どちらも、村が一年で受け取る総税収を増やすための措置だよ。
その結果、ミラージは数十人しかいなかった小さな農村から、今の姿へと変わった。」
「……金持ちが、兵役を逃れるために移り住んできたってことか?」
「その通り。ミラージは陸路、水路ともに交通の要衝にあるし、近くには風域もある。昔から、多くの旅人や商人が通る場所だった。
そこへ王家の伝令官がやって来て、『ここに定住すれば徴兵は免除される』と告げた。その噂は、旅人たちの口を通じて、すぐに合衆国全土へ広まった。」
そこまで聞いて、ウィンデルはすべてを理解した。
「……それで、ほどなくして多くの富豪が集まってきた。税が多少高くなったところで、彼らにとっては痛くも痒くもなかったんだな。」
「そういうこと。それ以前は、王家が徴兵令を厳格に運用していたから、特権階級で関係を持てる者でもない限り、いくら金を積んでも兵役は免除されなかった。」
「でも、高額な税は元から住んでいた人たちを苦しめなかったのか?」
フレイヤは首を横に振る。
「むしろ逆だよ。どれだけ税が上がっても、領主に支配されるよりはずっとましだった。
それに、商才のある地元民の中には、裕福な移住者が一気に流れ込んできたのを好機と見て、大きく稼いだ人も少なくない。
そうして移民が移民を呼び、村はさらに繁栄し、繁栄した村がまた人を引き寄せる。その好循環の末に、ミラージは今の姿になった。この村の税収は、今では私たち臨界者にとって最も重要な収入源だ。」
「……なるほど。でも、一つだけ腑に落ちないことがある。最初に、風域が近いから旅人や商人が多く通るって言ってたよな?その二つは、どう繋がるんだ?」
フレイヤはわずかに微笑んだ。
「風域の気候が、とても特殊だから。その特異な気候から生まれた数々の伝承が、人々を惹きつけるんだ。」
「どんな気候なんだ?」
「強風。」
「……それだけ?」
「それだけ。」
あまりにも簡潔な答えに、ウィンデルは思わず目を瞬かせた。その反応を見て、フレイヤは補足する。
「風域は、常人には立ち入ることすら難しい土地だ。一年中、激しい風に覆われているからね。入れないとなれば、人は憧れる。
その奥に何があるのか、どんな人間や生き物が住んでいるのか……現実離れした妄想が、勝手に膨らんでいく。」
そう言ったフレイヤの表情には、どこか納得しかねる色が浮かんでいた。それが理解できず、ウィンデルは首を傾げる。
「それって、普通じゃないか?そんな場所に住める存在がいるなら、誰だって気になるよ。」
「……わかってるよ。ただ、どこへ行っても、人間は同じだと思っただけ。」
その口調から、ウィンデルは微かな諦観と疲労を感じ取った。彼女の真意を考えかけたそのとき……
「フレイヤ!」
高く澄んだ声が、二人のもとに飛び込んできた。
振り向いた瞬間、白い影が突風のようにフレイヤへ飛び込み、その胸に収まる。よく見れば、それはフレイヤと同じデザインの白いローブを纏った少女だった。
少女はフレイヤにしがみつき、頬をすり寄せる。その動きに合わせて、ポニーテールに束ねた栗色の髪が上下に揺れた。
「……イヴ、これ以上やられると困る。」
眉をひそめてそう言うものの、その様子は困惑というより、甘える妹を持て余す姉そのものだった。
少女は腕を解き、不思議そうに首を傾げる。
「どうして困るの?」
「今、他の人と話してるし……みんな見てるから。」
フレイヤは小さく溜息をつく。ウィンデルも周囲を見回すと、確かに食堂にいた客たちは皆、興味深そうにこちらを見ていた。
少女も同じように一周視線を巡らせたが、他人の目は気にも留めていない様子で、今度はフレイヤの正面に座るウィンデルへと、まっすぐ好奇の視線を向けた。
少女の振る舞いから察するに、ウィンデルは彼女が感情の起伏がはっきりしていて、どこか大雑把――ひょっとすると一本どこか抜けている性格なのだろう、と直感した。
少女がじっとこちらを見つめているあいだに、ウィンデルもまた彼女の顔立ちをはっきりと捉える。
幼さの残る小柄な顔に、ぱっちりと開いた水色の瞳。その愛らしい印象ゆえか、落ち着いた大人びた雰囲気を持つフレイヤと比べると、どうしても年下に見えた。
もっとも、これほどまでに凝視され続けると、さすがに落ち着かない。ウィンデルは空気を切り替えるべく、口を開いた。
「はじめまして。ウィンデル・フェイトです。」
「えっ……あ、うん。こんにちは。」
自分の視線があまりに無遠慮だったと、今になって気づいたのだろう。
少女は視線を引っ込めた。だが名乗り返すことはなく、代わりにフレイヤのほうを向いて、からかうような笑みを浮かべる。
「困ってるって言うから何事かと思ったら、デートの邪魔だったわけ?でもさ、他の男の子とこっそり村の外で逢引きなんてしたら、リヴィアスが妬くよ?」
その言葉に、フレイヤはわずかに頬を赤らめ、気まずそうにウィンデルを一瞥した。
「イヴ、誤解だよ。そんなことじゃない。母に頼まれて、彼を村へ連れて帰るだけ。」
そう言ってから、今度はウィンデルに申し訳なさそうに向き直る。
「ごめんね。彼女はナイヴ・シュレイフ。私の親友なんだけど……ちょっと抜けてるだけ。」
的確すぎる補足だ、とウィンデルは内心で思った。一方のナイヴは、当然ながら納得していない様子で、すぐさま抗議の声を上げる。
「ちょっと!初対面の人にそんな紹介の仕方、ひどくない!?」
「よく言うよ。いきなり飛び込んできて、初対面の人をあんなに失礼なくらい見つめてたのは誰?」
「見つめてなんかないってば!」
「本当に?太陽が西から昇るって言うなら――」
そこまで言いかけて、ウィンデルがいることを思い出したのだろう。フレイヤは慌てて口を閉ざした。だが、二人のやり取りから、彼女たちの仲が相当良いことは十分に伝わってくる。
理が悪いと悟ったのか、ナイヴは不満げに口を尖らせながらも、しぶしぶ認めた。
「……ちょっと見すぎたのは認めるけどさ。でも仕方ないでしょ。フレイヤと普通に会話できる男の人なんて、どんな人なのか気になったんだもん。だって普段のあんたは……」
「イヴ!」
フレイヤに強めの声で遮られ、ナイヴはむっと唇を尖らせる。
「ちぇっ。言わないなら言わないけど。それにしてもさ、村でこんな人見たことないよね?私、同い年くらいの男の子なら大体知ってるはずなんだけど。」
「当然だよ。彼は村育ちじゃない。さっき言ったでしょ、母に頼まれて連れて帰るって。」
「え?てっきり……待って。もしかして、混血?」
その言葉と同時に、ナイヴは一歩後ずさり、ウィンデルを見る目に、露骨な警戒の色が宿った。
その変化を察し、フレイヤは即座に、何気ない調子で話題を変える。
「それは私も知らないよ。母からも何も聞いてない。ところで、買い物に出てきたんじゃないの?」
ナイヴははっとしたように、先ほどフレイヤに飛びつく前、床に置いたままにしていた袋へと視線を落とす。
「ああ、これ?うん。家の分も含めて、これから数か月分の必需品を買いに来てたの。」
「もう済んだ?」
「うん。」
「だったら、早めに帰ったほうがいい。これ以上遅れると、村に着くころには日が暮れるよ。」
ナイヴは外の空模様を確認し、素直に頷いた。
「それもそうだね。あんたもこのあと村に戻るんでしょ?一緒に帰る?」
フレイヤは微笑みながら、やんわりと首を振る。
「ううん。まだ片付けないといけない用事があって、戻るのは数日後になりそう。帰ったら、私から会いに行くよ。」
「うん!絶対来てね!」
まるでウィンデルの存在を忘れたかのように、ナイヴは袋を持ち上げ、笑顔でフレイヤに手を振った。少女は嵐のように現れ、そして同じように、風のごとく去っていった。
彼女の姿が見えなくなるまで、二人はしばらく無言で見送っていたが、やがてウィンデルがぽつりと呟く。
「……どうやら、あまり歓迎されていないみたいだ。」
「うん……臨界者の存在は、外の人には知られちゃいけない。だから村の人たちの多くは、少し排他的なんだ。」
「彼女も、その一人?」
「……正直に言うと、イヴはまだ穏やかなほう。」
「なるほど。」
感情の読めないウィンデルの表情に、フレイヤは彼の胸中が掴めず、もう一度だけ親友を庇うように言葉を添える。
「だから、彼女のことを嫌いにならないでほしい。イヴは思ったことをそのまま口にする子だから、今は少し敵意を持ってるかもしれないけど……ちゃんと知れば、きっとさっきみたいな態度は取らなくなる。」
ウィンデルは首を横に振った。
「気にしてないよ。ああいう単純な性格は嫌いじゃないし、彼女に悪意がないこともわかる。」
その言葉に、フレイヤはわずかに安堵した。しかし、眉間に浮かぶ陰りは消えない。
ウィンデルの最後の一言で、彼女もまた、同じことを思い至ったのだ。
ナイヴに悪意はない。けれど――
他の者たちは、そうとは限らない。




