32 溶け始める氷
ウィンデルが目を覚ますと、最初に飛び込んできたのは、ベッド脇の椅子に腰掛け、本を読んでいるフレイヤの姿だった。
彼はぼんやりと周囲を見回し、まだ頭の中がはっきりしないまま呟く。
「俺……死んだのか?」
フレイヤは本をぱたんと閉じ、水差しからコップに水を注いで手渡した。
「もしあなたが死んでいたら、私は何なの?勝手に道連れにしないでくれる?」
ウィンデルは礼を言って水を受け取り、ついでに彼女を盗み見る。
相変わらず無愛想な表情ではあるものの、どこか声色が嬉しそうに聞こえる気がした。
「ここ……どこだ?」
彼が山ほど質問したいのを察したのか、フレイヤは淡々と事情を説明していく。
最後の場面でクリストが駆けつけて救ってくれたこと、領主の部隊は壊滅したこと、メッシとボーンは先に王都へ戻ったこと……
だが、一通り説明を聞いても、肝心な部分が語られていない。
「じゃあ……あの時の赤い風は何だったんだ?」
「あれはラゴン。怒りの界から吹いてくる風よ。」
「怒りの界?」
「簡単に言えば、私たちの世界とは別にあるもう一つの世界。いずれ分かるようになるわ。」
「じゃあ、どうして俺がその風を呼べたんだ?」
その問いを聞いた瞬間、フレイヤの表情が妙なものに変わった。
「それはこっちが聞きたいくらいよ。あなた、風の術なんて使えないはずでしょう?なのにどうしてラゴンが呼べるの?」
「えっと……そう言われても、答えようがないんだけど。そのラ……なんだっけ?」
「……ラゴン。」
「そう、それ。呼び出すってそんなにすごいことなのか?」
フレイヤはしばらく無言で彼を見つめ、それから小さく呟いた。
「四風だって、私はまだ一度も……」
「え、何?」
「なんでもないわ。それより、きっとお腹空いてるでしょ?何か持ってくる。」
明らかに話題をそらしたのは分かったが、実際ウィンデルも腹が減っていたので追及を諦めた。
やがてフレイヤは用意していたシチューを運んできたが、ウィンデルは一口食べた瞬間に理解した。
――料理は壊滅的に下手だ。
「……次からは自分で作ろう。」
つい漏れた本音に、フレイヤは氷点下の視線を向ける。
「文句言うなら食べなくていいわよ。」
よし、フレイヤの二つ目の弱点発見。
ウィンデルは心の中でメモしつつ、彼女が皿を取り上げるより先に急いで食べきる。
その様子を見て、フレイヤはほんの一瞬だけ口元を緩めたが、すぐに表情を引き締めた。
「それで、私からも聞きたいことがあるの。」
「ん?」
「あの時……どうして私を庇ったの?ラゴンを呼び出せる確信でもあったの?」
「そんなのあるわけないだろ。あの時は、ラゴンが何なのかすら知らなかったんだ。」
「じゃあ、どうして?どうして命を懸けてまで私を助けようとしたの?」
「それは……」
正直、自分でもよく分からない。あの瞬間、体が勝手に動いた。
ただの強烈な直感と言ってしまえばそれまでだが、そこに理由をつけるのはどこか違う気もする。
「……分からない。ただ、そうすべきだと思っただけだよ。」
フレイヤは数秒黙り込むと、突然彼の皿を奪って背を向けた。
「……まだ食べる?」
「いや、もう十分。ありがとう。」
「ゆっくり休んで。怪我、かなりひどかったんだから。治ったら、また出発しましょう。」
そう言い残し、フレイヤは早足で部屋から出ていった。
去っていく背中を見つめながら、ウィンデルの胸の奥に、なぜか懐かしい温もりがふっと灯った。
数日休んだのち、ウィンデルはようやく普通に動けるほどまで回復した。長居した部屋に少し息苦しさを覚えた二人は、すぐに出発することにした。
支度を整えて外に出ると、フレイヤは新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、西へ向かって元気よく歩き始めた。
だが、数歩進んだところで振り返る。ウィンデルが木の小屋を見つめたまま立ち止まっていたからだ。
「どうしたの?」
「いや……ちょっと気になって。この家の持ち主、誰なんだろうって。知ってる?」
「知らないわ。母さんは昔の知り合いの家としか言ってなかったから。」
「そうか……」
ウィンデルは妙な既視感を覚えていた。家具の配置、部屋の造り、家全体の雰囲気……どれも、どこか見覚えがある。外から改めて眺めて、ようやく理由がはっきりした。
この家は、ハサードにある彼の実家と、驚くほどそっくりだったのだ。
その家を思い出した瞬間、ウィンデルは胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
まだそう長く離れているわけではないのに、まるで何年も帰っていないような気分になる。
旅とは、こういうものなのかもしれない。
ウィンデルは首を振り、フレイヤの後を追った。
二人はしばらく言葉を交わさず歩き続ける。ウィンデルが前を向いて黙々と進む一方、フレイヤはどこか落ち着かず、何度も口を開いては閉じた。
二人きりで歩いている以上、気づかないわけがない。
「……言いたいことがあるなら、言えばいいだろ。」
フレイヤは足を止め、しばし逡巡したのち、ようやく決心がついたように口を開いた。
「この数日、ずっと考えていたの……どうしてあの時、私に言ってくれなかったの?」
あまりに唐突な問いかけに、ウィンデルは思わず眉をひそめた。
「いつの話?何をだよ?」
「……あなたも予知夢で未来を見た、っていうこと。」
「ああ、そのことか。別に隠そうと思ってたわけじゃないんだけど……」
「隠すつもりじゃなかったなら、どうして言わなかったの?私が信じないと思った?それとも……私自身を信じられなかった?」
追い詰めるような口調ではなく、どこか不安げにそう尋ねるフレイヤ。
ウィンデルはしばらく真剣に考え、それから静かに答えた。
「信じるとか信じないとか、そういう問題じゃないよ。君が見た未来は必ず実現する──その言葉を、僕は疑ってなかった。だからこそ、君には言わなかったんだ。」
フレイヤは首をかしげた。理解が追いつかない、といった表情だ。
ウィンデルは続けて説明するしかなかった。
「自信たっぷりで、いつも正確な君に比べると、僕の予知夢にはそこまでの確信が持てなかったんだ。君を説得できる自信もなかったしね。」
「でも、小舟に引っ張り上げられた時……あなた、自分の予感は外れたことがないって言ってたでしょ?」
「確かに言ったけど、それは昔、故郷の伐採隊を手伝ってた頃の話だよ。毎日、天気を予測するってだけのこと。」
「それでも、言ってくれればよかったのに。」
ウィンデルは首をゆっくり横に振った。
「あんな切迫した状況で、どっちの未来が正しいかで言い争いたくなかったんだ。
たとえ君がぼくの言葉を信じて、両方の未来を考慮してくれたとしても……それは違うと思った。判断が難しくなるだけだし、君の負担を増やしたくなかった。」
そこまで言うと、ウィンデルはほんの一瞬、言葉を切り、ぽつりと付け加えた。
「……まあ、今のは全部、二の次の理由かもしれないけどね。」
「じゃあ、一番の理由は?」
すかさずフレイヤが問い返す。ウィンデルは少しのあいだ迷うように沈黙し、ようやく口を開いた。
「多分……君に頼りたくなかったんだと思う。予知夢って形で僕に挑んできた運命に、僕自身の力で立ち向かいたかった。これは、僕の戦いだって……そう思ったんだ。」
フレイヤは瞬きもせず、じっとウィンデルを見つめた。
彼女にとって、自分の強力な予知能力を知ったあとでも頼られない──そんな相手は初めてだった。
驚き、戸惑い、そしてどこかしら胸の奥が少しだけ寂しくなる。
彼女は小さく息を吐いた。
「……あなたがそこまで言うなら、もういいわ。でもね、次に同じようなことがあったら……あなたが見た未来も、ちゃんと教えてほしい。私のこと、もう少しだけ……信じてくれてもいいんだから。」
ウィンデルは何も答えず、ただ歩みを再開した。
「……行こう。」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どうやらあの小屋は、思ったほどイテナ川から離れてはいなかったようだ。
回復したばかりのウィンデルに合わせてゆっくり歩いたにもかかわらず、二人は半日もかからずに川辺へ到着した。
現在地を確かめたあと、二人は上流へ向かって歩く。やがて、馬を預けたあの桟橋が視界に入った。
「じいさん、戻りましたよ。」
ウィンデルが声をかけると、川辺で暇そうに座っていた老船頭が顔を上げた。
「おお、お前さんらか。やっと戻ったな。どこほっつき歩いてたんだ?」
この数日間の出来事を話したら、絶対に信じてもらえないだろう。そう思い、ウィンデルは曖昧に笑った。
「まあ、いろいろあって……話すと長くなるんだ。それより馬を受け取りに来た。」
老船頭が大きな樫の木を指さすと、二頭の栗毛馬が草を食んでいた。
「ほれ、あそこだ。だが……まさかタダ働きさせる気じゃねぇだろうな?」
ウィンデルは後ろのフレイヤを見る。彼女は肩をすくめ、好きにしろと言わんばかりだ。
「……もちろん、お礼はするさ。」
「ほう?そいつはどういう形でだ?」
報酬と聞いた瞬間、老船頭の目がきらりと輝く。
「馬を受け取るついでに、向こう岸まで渡してほしい。相場はいくら?」
「人間は一人銀貨一枚、馬はその三倍だな。」
ウィンデルは一瞬で計算し、すぐに頷いた。
「二人に馬二頭。お礼として半分上乗せして、全部で銀貨十二枚。それと……もし川を渡ってる間、『静かに』景色を楽しませてくれたら、さらに二枚追加で。」
船頭の果てしないおしゃべりを思い出し、ウィンデルは心の底からそう願っていた。せっかく合衆国最大の川を渡るんだから、静かに風景を楽しみたいのだ。
最初は大口の客に喜んでいた老船頭だが、最後の条件を聞いた瞬間、顔がみるみる複雑にゆがんだ。まるで「しゃべりたい自分」と「金を取るべき自分」が激しく戦っているかのようである。
その様子を横で見ていたフレイヤは、思わず吹き出し、楽しそうに笑った。
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