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30 川面の生死

 二つの思考が、ウィンデルの脳裏を駆け抜けた。


 まず、あの男の船客は確かに先ほど追手の船を盗み見るように一度だけ視線を向けていた。


 そしてもう一つ──自分が「大船に伏兵が潜んでいる可能性」を口にした時、あの男は鋭い警戒の色を隠しもしなかった。


 つまり、伏兵がいなかったのではない。まだチャンスを待っていただけなのだ。


 ウィンデルが反射的に振り返ると、小舟の左後ろ――大船の甲板に、いつの間にか現れた黒装束の三人が弓を静かに引き絞り、フレイヤを狙っていた。


 だが、対岸の弓矢を受け止めることに集中している彼女は、その存在にまったく気づいていない。この位置は、風壁では死角になる角度だった。


 しまった!


 右腕の激痛を気にしている暇などなかった。ウィンデルは身を投げるように跳び出し、あの三人の方向へと向き直ってフレイヤの右側に割り込んだ。


 突然横に飛び込んできたウィンデルに、フレイヤは少し驚いた。なぜ彼がそうしたのかを理解した瞬間、さらに血の気が引いた。


 言葉を発する暇さえなく、次の矢雨が小舟に降り注ぐ。状況を一瞬で判断して、己の役目を選び取った。


 今は、ウィンデルが自分を守ってくれると信じるしかない。


 彼女は対岸からの矢雨へと向き直り、風壁を再び構築する。おそらく、フレイヤが自分の予知を深く信じているせいだろう。


 未来が変わったとしても、大船にいる暗殺者がウィンデルを殺すとはどうしても思えなかった。ウィンデルが死ぬとすれば、それは彼女の正面で矢雨を受け止める時であり、側面からの奇襲で命を落とす未来ではない。


 まして、彼女はよく覚えていた。


 最後の瞬間、ウィンデルは自分と向き合っていた。


 フレイヤは目を閉じ、想像し得る限り最強の風壁を思い描く。


 あの光景だけは……絶対に、現実にしてはならない。だったら私は、この矢雨をすべて防ぎ切る!


 彼女が決意を固めるのと同時に、死角からの三本の矢が弓を離れた。


 迫り来る矢の軌道を捉えたウィンデルは、対岸の弓兵とは明らかに格が違うことを悟る。


 ……これはまずいな。


 死が目前に迫るその瞬間、なぜか、心が妙に澄み切っていた。


 なぜ、自分はこれほどまでに身を挺してフレイヤを守ろうとしているのか。


 彼女は命を捨ててまで守るほどの存在か?いや、旅を共にしてまだ一か月にも満たない。常識で考えれば、そこまで重い絆ではないはずだ。


 だが、その疑問に対する答えは、ふとした瞬間に形を成した。


 ……ああ、そうか。あの夢だ。


 フレイヤが客船の甲板で、背後から射抜かれて死ぬ夢。


 あの光景が、父が兵士に槍で胸を貫かれた記憶と重なった時、自分を丸ごと呑み込まんとしたあの怒りが、胸の奥底から噴き上がったのだ。夢如きが、まるで絶対の未来であるかのように振る舞う。


「彼女は死ぬ」と告げられたから死ぬ?


「父は死ぬ」と言われたから抗えない?


 そんな理不尽があってたまるか。


「お前の思いどおりに……何度も、何度も、大切な人を奪わせるものかッ!」


 ウィンデルは無傷の左手を突き出し、胸の奥底から込み上げた怒りと直感に自身を委ねた。


 運命よ。もし俺を屈伏させたいのなら……俺に気づかせるべきではなかった。


 彼が低くつぶやいた瞬間、懐の小袋の中で何か球状のものが脈動した。だが、今のウィンデルには気づく余裕などない。


 いつの間にか、あの三本の矢も、小舟も、広いイテナ川も消えていた。気づけば彼は、漆黒の空間に立っていた。


 光の一欠片さえない、完全な闇。小さな空洞のようでありながら、永遠へと続く虚無にも感じられる空間。


 やがて闇の奥から、光が差し込んできた。


 虹色の風──細糸のように、霧雨のように、あるいは奔流のように。四方八方から光の風が流れ込み、闇を満たし始める。


 あまりの眩しさに目を閉じながら、ウィンデルは疑問を抱いた。


 この闇はどこまで続いている?光はどこから来る?


 再び目を開けた時、彼は元のイテナ川の小舟に戻っていた。三本の矢は依然として目前に迫っていたが、先ほどの妙な感覚は確かに胸に残っている。


 運命よ。お前が戦いを挑むというのなら、俺も、全力で抗おう。


 彼がつぶやいた刹那、川面の風がふっと止んだ。


 だがそれはほんの一瞬で、次の瞬間、どこからともなく吹き荒れた狂風が川面を撫で、奇襲の矢を弾き飛ばし、さらにフレイヤが受け止めようとしていた対岸の矢雨すらまとめて叩き落とした。


 その光景を目にしたと、全員が息を呑んだ。矢が逸れたからではない。


 吹き荒れたその風が、赤かったからだ。


 血の霧のようであり、また細い赤い光の糸のようでもあるそれは、川面を掃き払うと同時に一瞬で掻き消えた。ただ一つ、ウィンデルの胸元だけに、荒れ狂うように脈動する赤い靄が小さく残っている。


 その赤い気流を見つめ、フレイヤは驚愕を隠せなかった。臨界者でさえ容易に扱えぬ風――


「まさか……ラゴンだなんて……」


 フレイヤが呆然と呟く一方で、なお怒りに燃えるウィンデルは、すでに視線を三人の暗殺者へと向けていた。


 どう攻撃する?


 脳裏に最初に浮かんだのは、木の片端を削って作る木杭の姿だった。鋼鉄には及ばずとも、人を殺すには十分な凶器だ。


 怒りの風を呼び出したのは意志なのか。それとも、怒りの風そのものが意志を持っているのか。ウィンデルには分からない。


 ただ、胸の奥から湧き上がる怒りに突き動かされるまま、彼は傷のない左手を真っ直ぐ掲げた。


 その動きに呼応するように、吠える赤風が一気に収束し、鋭い錐の形へと変わっていく。まるで彼が思い描いた木杭そのもののように。


「行け」


 左手を払うと同時に、赤い風の杭は一直線に走り、三人の暗殺者の胸元――心臓があるはずの位置へと正確に突き刺さった。三人はそのまま崩れ落ちた。


 脅威が去った後、ウィンデルを支配していた怒りは霧散し、赤い風もまた消え失せた。だが次の瞬間、激しい目眩が襲い、彼は膝から崩れ落ちて荒い息を吐く。


 黒装束の三人が倒れ伏した光景を前に、川面も、対岸の者たちも、先ほどの赤い風に怯えながらも、今はただ沈黙するしかなかった。


 女の船客――いや、もはや女暗殺者と呼ぶべきか。その異様な光景に、彼女の動きが一瞬だけ止まる。だが、その瞬間こそがボーンの狙い目だった。


 数々の戦場を生き抜いた彼の拳が、ほとんど残像すら残さずに彼女の腹へめり込む。


「……ッ!」


 腹を押さえて崩れ落ちた女暗殺者の腕を後ろにねじ上げ、ボーンが完全に拘束したが、その直後。対岸の弓兵の一人が、突如として叫び声を上げた。


 その号令を皮切りに、残る全員が矢を掴み、弓を引き、狙いを定め、そして放つ。


 最後の死の雨が、空を裂き、ウィンデルたちへと降り注ぐ。


 我に返ったフレイヤは、何度も何度も防いできた矢雨が空を覆い尽くすのを見上げ、奥歯を強く噛み締めた。


「ウィンデルにはあれほど助けてもらったのに、こんなところで死ぬなんて……そんなわけない!」


 けれど、再び風壁を構築しようとしたその時、フレイヤの両手はふっと力を失い、だらりと垂れ下がった。


 身体も意志も言うことを聞かないと気づいた瞬間、彼女は自分の「啓」――あの、自分の前に立ちふさがり、苦笑しながらこちらを見つめていた姿を、ふと思い出した。


「やめてよ……そんなの……」


 嗚咽にも似た声でつぶやきながら、フレイヤはどうしようもない後悔に胸を締めつけられた。


 余計なことをした。自分の力を過信した。そして今、迫り来る運命を前に、同じ苦い絶望をまた味わうしかないのだ。


 未来は変わったのではなかったのか?なのに、どうして結末だけは変わらないの?


 その嗚咽を聞いた瞬間、意識が朦朧としながらも、ウィンデルは悟った。


 フレイヤが完全に限界を迎えたのだと。


 そして、ふらつきながらも立ち上がる。


「だ、だめです……立たないで……お願いしますから……!」


 あの高慢なフレイヤが、泣き声まじりに懇願する――そんな姿を見られるのは、この先も一生ないだろう。


 だが、ウィンデルの胸中には、もう一つしか残っていなかった。


 フレイヤを死なせない。


 たとえ自分の命と引き換えでも、あの予知夢を絶対に現実にさせてなるものか。


 何故なら、これは、命運との戦争だ。


 最後の意志を振り絞るように身体を動かし、ウィンデルは崩れ落ちたフレイヤの正面へと立ちはだかった。


 少女に背を向け、天へと放たれた無数の矢と、運命の断罪を毅然と受け止める。


「いやぁぁぁぁ――っ!」 


 背後でフレイヤが悲痛に叫んでいたが、ウィンデルの耳にはもう届かない。


 彼は深く息を吸い込んだ。


 ――ああ。矢がかき乱す風には、恐怖と怒りが混じっている。


 そしてもう一つ。






 死の匂いだ。


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