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29 小舟上の激闘

 未来は変わり始めている──ウィンデルはそう思った。


 だが、それが本当に良い方向へ向かっているのかどうかは、まだ断言できない。もしかしたら、もっと悪い未来へと転がり落ちているだけなのかもしれない。


 そう考えた途端、彼は思わず眉をひそめた。今の状況を見るかぎり、その可能性は決して低くないように思えたからだ。


 小舟に乗り移った一行は、客船がつくり出す死角へ素早く漕ぎ込んだ。しかし対岸を牽制できる者がいないため、弓兵たちはすぐさま狙撃可能な位置へ移動してくる。


 風壁を抜けて飛び込んでくる矢は増える一方で、ついに男の船客が不満を口にした。


「おい、ウィンデルって言ったよな?どうしてこのお嬢さんの言うとおりにしなかったんだよ!あんたが無理やり彼女を引きずり下ろしたせいで、こんな状況になってるんじゃないか!」


 彼がそう愚痴るのは、誰の目にもフレイヤの疲労が明らかだったからだ。


 特に盾を構えているウィンデルとボーンは、その重みを痛感していた。先ほどまで軽く弾けていた矢が、今では一撃ごとに腕をしびれさせてくる。


 口にこそ出さないが、ボーンにもウィンデルへの不満があった。


 どうして彼はあれほどまでにフレイヤを連れて行くことにこだわったのか。フレイヤが見せた力を前提にするなら、あの作戦は問題なく遂行できるはずだった。


 それに、ウィンデルが客船から飛び降りる寸前に囁いた言葉の意図もいまだ理解できていない。


 とはいえ、ボーンが男の船客をときどき横目で窺っているのとは対照的に、当のウィンデルは一度たりとも気にするそぶりを見せなかった。


 男の愚痴など完全に聞き流し、フレイヤが捉えきれなかった矢だけを確実に弾き、そして左手側にある追手の大船へちらりと視線を送る。


 状況の危険度が増していく中、ボーンが提案した。


「聞いてくれ。まっすぐ岸へ向かうより、いったん追手の大船の反対側へ回り込んだほうがいいと思う。あっちから回れば、また狙撃される頃にはこっちはもう岸に近いはずだ。


 フレイヤさんも疲れてるだろ?少しでも休ませてやらないと、上陸したらすぐ逃げなきゃいけないんだからな。」


 フレイヤは大船をちらりと見て、小さくうなずいた。だが言葉を発する余裕はないようで、風壁の維持だけで精一杯なのが伝わってきた。


 フレイヤの同意を受け、船長と船員は舵を切り、小舟を大船のほうへ向ける。


 ウィンデルは納得していなかったが、反論できるだけの根拠もない。仕方なく平然と装いながら言った。


「……ただ、あの船に弓兵が潜んでいる可能性もある。警戒はしたほうがいいよ。」


「急にどうした?」とボーンが眉をひそめる。


「合理的な推測だけだ。あの暗殺者たちは、あの船に乗って川を渡ってきたでしょう?なら仲間が残っていてもおかしくないだろう。」


「もし本当にいるなら、どうして今まで攻撃してこない?」


「タイミングを計っているのかもしれない。あれだけの矢の雨をフレイヤが防いでいるんだ。突破できないと判断して、様子をうかがっている可能性もある。」


 その言葉に、一行は不安げに大船を見上げた。そして同時に、ウィンデルは背中に熱い視線を感じた。


 岸との距離を確かめるふりをして振り返り、さりげなく視線の主を確認する。


 やはり、あの男の船客だ。幸い、ボーンの表情を見るかぎり、彼も気づいているようだった。


 大船が近づくにつれ、飛んでくる矢の数は明らかに減った。対岸の指揮官が彼らの意図に気づいたのだろう。怒号が川を越えて聞こえ、弓兵の半数ほどが立ち上がって左へ移動し始める。


 それを見て、ボーンが深く息を吐いた。


「向こうの指揮役も馬鹿じゃないってことだな。半分だけ動かすってことは、こっちの行動が囮かもしれないと読んだんだろう。それに、もう半分を撃たせ続ければフレイヤの体力も削れるしな。」


「……こういう時だけ、相手がもう少し単純なら助かるんですけど。」


 矢の圧が弱まったことで、フレイヤにようやく言葉を発する余裕が戻った。しかしその声は弱々しく、楽観できる状況ではとてもなかった。


 間もなく、一行は大船の陰へと回り込む。矢の雨がぴたりと止むと、フレイヤは糸が切れたようにその場へ座り込んだ。


 だがウィンデルとボーンは気を緩めず、大船の舷側に目を張り、潜む敵を警戒し続ける。だが予想に反して、船上は静まり返ったままだった。


「どうやら、お前の考えすぎだったようだな?俺なら絶対、このタイミングで奇襲するぞ。」


 ボーンの言葉を受け、ウィンデルは胸の奥に残る違和感を拭えなかった。彼自身も、敵は必ずこの隙を突いてくるものと思い込んでいた。では、本当に大船には誰もいないのだろうか。


 ……まさか、あれは本当に夢だったのか?


 弓兵たちがまだ回り込んで来ないわずかな時間のあいだ、船長と船員は全身の力を振り絞って川岸へ向けてオールを漕いだ。


 陸地が近づくにつれ、何人かはようやく安堵の息を漏らし、あの女の船客も同じく震えが止まったのか、ぽつりと口を開いた。


「上陸したら、私たち……どちらへ逃げればいいんです?」


「気を緩めていい段階じゃないよ。」


 すぐさま温度の低い言葉が返ってきたからか、女船客は露骨に不快そうな顔をした。


 二人が口論しそうな気配を察し、フレイヤは無理に意識を奮い立たせて言葉を紡いだ。


「敵は、私たちが次に向かうのは東か南、しかも水路ではなく陸路だと考えているはずです。だからこそ、一番安全なのは……まず上流へ向かい、状況を見て対岸へ渡って西へ逃げる、という経路かと。」


「なるほど。」


 女船客はうなずいた。だが、その落ち着き払った様子を見ていたフレイヤの、ぼんやりした頭の奥に小さな違和感が灯る。


 ……あれ?この人、さっきまであんなに怯えていたはずなのに。どうして急に、こんなにも冷静に……?


 フレイヤはちらりと川岸との距離に目をやった。


 およそ十五メートル。そう、本来なら今が「啓」が示した瞬間のはずだ。


 だというのに、なぜ私たちは矢の雨を受けていない?それに、この女は怯えて隅で縮こまっているはずでは……?


 フレイヤがはっとして女の船客を振り返ると、ちょうどその女の口元がわずかに吊り上がり、瞳に狡猾な光が宿していた。


 彼女がいったい何者なの?そして、もう客船には残っていないのに、どうして未来が変わったの?


「来るぞ!」


 ウィンデルの鋭い警告が響いた瞬間、すべてが一気に動き出した。


 対岸に姿を現した弓兵たちが、再び小舟めがけて矢の雨を放つ。


 フレイヤは仲間へ注意を促す暇もなく、反射的に風を収束させて防壁を張るしかなかった。ほぼ同時に、男女二人の船客が懐から短剣を抜く。


 金属が光る刹那、男のほうはメッシめがけて飛びかかり、女のほうはフレイヤの背へと鋭く刃を突き出した。


 男の船客を常に警戒していたボーンは、咄嗟に体をひねり、盾で飛んでくる短剣を受け止めた。そのまま盾ごと振り回し、川へ叩き落とす。


 まさかここまで反応が速いとは思わなかったのか、男はわずかに動きを止める。その隙を、熟練のボーンが逃すはずもない。


 乾いた音が鳴り、彼のアッパーが男の顎を打ち抜いた。男の身体が震え、力なく崩れ落ちる。


 一方、もう一人のほうはそうはいかなかった。


 ウィンデルは女の船客も暗殺者だとは思ってもいなかった。反応自体は速かったが、ボーンのように短剣をきれいに受け止めることはできず、焦った彼は手にしていた盾を女めがけて投げ放ち、その突進を無理やり止めようとした。続けて、その手首を掴もうと身を伸ばした。


 だが女の船客は、まるでその行動を予測していたかのように、静かに体をひねって盾を避けて、右手の短剣をひらりと捻り、ウィンデルの差し出した右腕に深い切り傷を刻んだ。


「っ……!」


 鋭い痛みとともに、血が勢いよく流れ落ちる。


 女船客は冷ややかに嗤い、再び短剣を翻してフレイヤへ迫る。だが、その刃が届く前に、息を整えたボーンが割って入った。


 手刀が女船客の手首を正確に叩き、短剣は船底に落ちる。彼女は斜めに目線を走らせ、仲間が倒れているのを確認すると悪態をつき、素手のままボーンへ飛びかかった。


 激しい組み合いが始まり、小舟はみるみる揺れが大きくなっていく。


 第一波を防ぎきったフレイヤが振り返ると、ウィンデルの腕から止めどなく血が流れているのが見え、胸が潰れそうになった。


「は、早く止血してください!そんなの……死んじゃいますよ!」


 その声でようやく我に返った船長と船員が、慌てて一人は女船客を押さえに、もう一人はウィンデルの止血に向かおうと立ち上がる。その動きが、さらに小舟を大きく傾けた。


「全員動くな!第二波が来る!フレイヤ、弓兵のほうを優先!二人は座って漕ぎ続けろ!立つな、船が転覆する!包帯は自分がやる!」


 ウィンデルの怒号に、フレイヤは身を翻して再び風壁に集中し、船長と船員も慌てて座り込み、必死にオールを動かした。


 次の矢の雨が降り注ぐ。ウィンデルは戦っているボーンに一瞬視線を送り、女船客の動きの鋭さに舌を巻いた。


 ……まさか、ボーンでもすぐには押さえ込めないとは。


 ようやく混乱から立ち直ったメッシが、慣れない手つきで袖を裂き、ウィンデルの止血を試みる。その不器用すぎる所作に、激痛の中でもウィンデルは思わず吹き出しそうになった。


 そうだよな。病人の手当てなんて、王子殿下が知るわけないか。


 そんなことを思いながら、彼はメッシから布を受け取ろうとしたが、その瞬間、視界の端に倒れている男船客の姿が映り、伸ばした手がぴたりと止まった。


 ……違う。


 何かが、おかしい。


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