2 謎の少女
本来なら、シードが言っていた通り、仕留めたイノシシはすぐに血抜きをして、生殖器を切り落とすべきだった。しかし今のウィンデルの頭の中から、その知識はすっぽり抜け落ちていた。今、胸を占めているのは、歌の主を見つけること。
まるで船乗りが語り継ぐ「海の魔女」に魅了されたかのように、ウィンデルは森を抜け、風の吹くまま東北へと歩き出した。歩きながら、ぼんやりと幼い頃の記憶がよみがえってくる。
「……そうだ。あの時も、たしかここから……」
必死に記憶を手繰り寄せるが、はっきり残っているのは、父と二人、この雪原を越えた先の冷杉の森。その真ん中にある空き地で、「あれ」に遭遇したことだけ。
いや、もう一人、誰かいたような……?
彼のかすかな記憶の中で、黒いマントをまとった誰かの姿がぼんやりとよぎった。
あいつは誰だ?なぜ思い出せない?
頭を抱えそうになったその時、ウィンデルは地面の痕に気づいた。
「……足跡?」
しゃがみ込み、しばし眺める。すると少し離れた先にも、同じ形の浅い足跡があるのが目に入った。好奇心に突き動かされ、足跡をたどっていくと――三メートルごとに、ぽつん、ぽつんと足跡が続いていた。形も大きさも、どう見ても人間のものだけど……
「……なんでこんなに離れてるんだ?」
積雪は足首どころか脛まである。立ち幅跳びでも三メートルはほぼ不可能だし、仮に風雪で消えたとしても、残る足跡が全部等間隔なのはおかしい。
これはいったい何なんだ?
ウィンデルは足跡の延びる方向を見る。およそ二百メートル先、小さな丘がある。
あそこに、足跡の主が?
ウィンデルは速度を上げ、丘の麓に到達する。やはり足跡はそのまま上へ続いていた。しかし驚くべきは、この急斜面でも、一歩ごとの間隔が二メートル以上あることだ。
「……本当に、人間か?」
胸の奥に、初めてうっすらと不安がよぎる。それでも足は止まらない。彼はピッケルを取り出すと、斜面に打ち込みながら登っていった。しばらくして、足跡は突如として終わっていた。高さ二メートルほどの岩壁の手前で。
ウィンデルは左右を見回すが、他に続く道はない。深呼吸し、両手で岩壁の縁をつかみ、体を持ち上げようとした瞬間。妙に聞き覚えのある歌声が聴こえてきた。
風が立つ時、君とぼくの運命の歯車が
風車のようにゆっくりと回り始める
その回転が加速するか、それともゆっくり止まるのか
ぼくには知る由はないし、君も困り果てている
終わりなき時の風よ
ぼくを君の前に連れて行って……
なんだそれ?
歌声を聴いた瞬間、ウィンデルの体が固まった。心臓が暴れるように跳ね、頬が熱くなる。先ほどイノシシに殺されかけた時よりも、はるかに強い興奮が込み上げる。気づけば、何かが頬を伝っていた。指でぬぐうと、涙だった。
「……え?俺、どうしたんだ……」
混乱とともに、胸の奥では強烈な願いが膨らむ。
会いたい。今すぐ、歌っている人に。
ウィンデルは一気に岩壁を乗り越えた。頂上は小さな平らな場所になっていた。その中央に、白いフード付きのローブをまとった人物が、背を向けて立っていた。細い肩、華奢な背中。どう見ても女の人だ。ウィンデルの足音に反応し、女の人は勢いよく振り返った。
フードの下、顔の上半分は白い面紗で覆われ、見えるのは黒く澄んだ瞳だけ。その瞳には涙の光が宿り、深い悲しみと、秘密を見られたような戸惑いが混じっていた。何となく、ウィンデルは胸が締めつけられ、思わず口を開いた。
「君は誰?」
少女はすぐには答えず、じっと彼を見つめ続ける。その瞬間、風がふっと彼女のほうへ集まった。だが少女が口を開いた途端、風は気配を消すように散っていく。
「人に名を尋ねる前に、自分が名乗るのが礼儀でしょう?」
声は柔らかく穏やか。だが、言い方は冷たく、どこか距離がある。同年代くらいの少女だと直感したが、それ以上に掴めない。だが同時に、そのあからさまに不機嫌そうな口調のせいで、どう反応していいか少し困ってしまった。
「僕はウィンデル。ウィンデル・フェイト。」
名を名乗った瞬間、胸の奥に小さな空虚が生まれた。理由はわからなかった。
少女はしばらく彼を見つめ、そして尋ねる。
「あなた、この近くに住んでいるの?」
「うん。」
「でもこの辺りの人って、ほとんどがジルパン族でしょう?あなたの顔立ち、違うように見えるけど。」
ウィンデルは眉をひそめた。
「嘘をつく理由、ある?」
「さあね。あなたの心の中なんて、私にはわからない。それで、何しにここへ来たの?」
その無遠慮さに、ウィンデルの苛立ちは強くなる。
「そっちこそ。人に聞く前に、自分が何してるのか教えるべきじゃないの?それに、俺がどこへ行こうと何をしようと……君に許可を取る必要ある?」
言ってから、自分で驚いた。ウィンデルは普段、他人に強く当たる性格ではない。まして初対面の少女に。少女の面紗がかすかに揺れる。
「確かに、どこへ行こうとは君の自由よ。でも——私が名前を教えるかどうかも、私の自由。」
「俺は名乗ったけど!」
「強制された覚えはないけど?」
その時、言葉に詰まった。少女はもう興味を失ったように、くるりと背を向けて再び遠くを見つめる。あまりにも理不尽な状況に、ウィンデルは呆れつつもどこか可笑しさを覚えた。それでも、少女がいったい何を見ているのか気になり、彼はその視線の先――北東の彼方へと目を向けた。
「……え?」
見た瞬間、ウィンデルの全身がまるで石になったように固まった。この丘に登るのは初めてだが、彼は普段、風を聞くために立つあの高峰から周囲を眺めているため、このあたりが雪の山脈の東端に近いことをよく知っている。
東へ進むほど純白の山脈は徐々に低くなり、やがて視界の果てで丘陵地帯へと姿を変える――それが「いつもの景色」のはずだった。
だが、今、彼の目に映る山並みは途中で途切れていた。記憶にある冷杉の森も、連なる峰々も、途中からごっそりと削り取られたように消え失せ、その中央には底知れぬほど巨大な裂け目が穿たれている。
まるで山そのものが、何か巨大な存在に真っ二つに断たれたかのような――そんな異様な光景だった。
……あそこだ。間違いない、あの日、「あれ」を見た場所。
と思うとき、遠くの雪原を動く黒い影が目に入る。ウィンデルは目を凝らす。しばらくして、ついに彼は呟く。
「……父さん?」
「その人、あなたのお父さんなの?」
少女もすでに気づいていたらしい。その瞳が、意味深にウィンデルを見つめてくる。妙な不安が胸に灯る。
「……正直、よくわからない。ただ、似てる気がしただけ。」
少女は小さく「ふうん……」と鼻を鳴らし、値踏みするような目を向けた。その視線から逃れるように、ウィンデルは話題を変えた。
「その……あの裂け目、何なんだ?いつできたんだ?」
「あなた、地元の人じゃないの?どうして私に聞くの?」
「だって……普段あっちの方なんて行かないし……」
少女は答えず、頂上の縁へと歩いていく。
「余計なことに首を突っ込むのは、やめておいたほうがいい。それと、目が覚めたら、さっさと家に帰りなさい。」
「……目が覚めたら?どういう意――」
言い終わる前の瞬間、後頭部に、強烈な衝撃が走った。視界が一気に暗くなる。
意識が遠のく中、ウィンデルが最後に見たのは――
少女が頂上の縁から、迷いなく飛び降りる姿だった。
明日続きます!




