28 意外な反応
一行は甲板へ続く扉の前にたどり着いた。
フレイヤは右手を取っ手にかけ、ふと振り返って声をかける。
「準備はいい?」
重苦しい空気の中、皆が小さく頷いた。女の船客など顔面蒼白で、今にも倒れそうだ。
ただ一人、ウィンデルだけがどこか思案げな表情をしていた。
「ウィンデル?」
「ん?どうした?」
「いえ、ただ……集中してください。船長、行きますよ。」
「お、おう。」
返事こそしたものの、船長の顔はひどく強張っている。もっとも、こんな状況で平静でいられるほうが頭を疑うべきだろう。
フレイヤは大きく息を吸い込み、意識を極限まで研ぎ澄ませると、そのまま一気に扉を押し開けて飛び出した。
ウィンデルと船長もすぐにその後を追う。甲板に足を踏み入れて二秒と経たないうちに、対岸から無数の矢が飛蝗のように襲いかかってきた。
それを見た船長が情けない悲鳴を上げ――だがすぐに、その悲鳴は驚愕のどよめきへと変わる。空を埋め尽くした矢が、まるで見えない壁にぶつかったかのように、ばらばらと川へ落ちていったのだ。
「……な、なんだこりゃ……」
呆然と立ち尽くした船長の背後から、フレイヤが鋭い声を飛ばす。
「ぼんやりしないで!早く!」
ハッと我に返った船長は、慌ててウィンデルの後に続く。
幸い、対岸の弓兵たちも今の光景に度肝を抜かれたようで、矢を射る手が止まっていた。
三人は船縁に駆け寄り、外を覗き込む。大船の側面には、確かに小舟が縄で吊られていた。
船長は胸をなで下ろし、すぐに固く結ばれた縄を解こうと身を乗り出すが、その隙に弓兵たちが再び我に返ったらしい。
ひゅうと嫌な音が走り、黒い雨が再度空を覆った。その気配に気を取られ、船長の手が止まる。
「まだやってるんですか!早く!」
矢の切れ間など一瞬たりとも訪れない。明らかに、向こうは手持ちの矢を撃ち尽くす気だ。
時間がないと悟ったウィンデルは、船長を押しのけ、胸元から小刀を抜くと、「シュッ」と一閃、縄を断ち切った。小舟が落下し、盛大に水しぶきが上がる。
「やるじゃない。」
フレイヤが短く称賛する。だが船長は全く納得していないようだ。
「どこがだ!縄を切っちまったら降りられねぇだろ!」
「飛び降りればいい。」
ウィンデルはあっさり答えた。
「水なんだから死にませんよ。それに、そのほうが早い。」
フレイヤも頷き、船内に向かって叫ぶ。
「みなさん、急いで来てください!」
その声に応じて、残る人々が全力で走ってくる。
船員とボーンは盾を構え、矢が飛んでくる側を守りながら駆けていた。その中で、ウィンデルは一人の男に目を留める。
先ほどからフレイヤに文句ばかり言っていた男の乗客だ。
彼だけが左側の矢を気にせず、ちらりと暗殺者たちが乗っていた大船のほうへ視線を走らせたのだ。
胸の奥に嫌な違和感が生まれる。ちょうどその時、横を走ってきたボーンをつかまえ、耳元でそっと告げた。
「さっきの、やたら口うるさい男……気をつけて。」
ボーンは驚いたように目を見開いたが、今は詮索している状況ではない。黙って頷き、そのまま川へ飛び込み、小舟へよじ登った。
続けて他の者たちも、フレイヤが指示した順に次々と飛び込んでいく。最後に残った女の船客だけが、水面を見下ろしては躊躇い、震えて動けずにいた。
普通の女性がこの高さから飛び込むのは、やはり怖いだろう……
そう思った矢先、フレイヤに急かされ、女の船客は意を決して飛び降りた。
こうして、甲板に残ったのはフレイヤとウィンデルの二人だけとなった。なのにウィンデルが動こうとしないのを見て、フレイヤは苛立たしげに舌打ちする。
「何してるんですか?まさか高いところが怖いんですか?」
「……本当に、ここに残るつもりなんですか?」
眉をひそめるフレイヤ。
「さっき説明したばかりでしょう?もう一度言わせないでください。」
「じゃあ、僕も残ります。」
「あなたが?残って何をするつもりなんです?」
「念のためよ。」
「……はぁ。何を心配しているのか知りませんけど、万が一なんて起こりません。というか、あなたが残ったら私のほうが気を散らします。さっさと行ってください、もうぐずぐずしないで。」
最後の一言に、ウィンデルは数秒黙り、決意したように頷いた。
「……確かに、ちょっとぐずぐずしすぎてた。慌てなくていい。弓兵の相手に集中してくれ。」
「慌てるわけないでしょ。何を――」
言い終わる前に、ウィンデルは彼女の腰を抱え、そのまま肩へ担ぎ上げた。
「えっ?」
フレイヤは完全に硬直した。
「ごめん。」
耳元で低くそう囁かれた次の瞬間、フレイヤは何が起きたのか理解する間もなく、澄んだ川面が勢いよく目前へ迫ってきた。続いて、冷たい川水が全身を包み込む。
「ぷはっ!」
震えながら水面から顔を出し、羞恥と焦りに任せて、腰をつかんだままのウィンデルに叫んだ。
「な、何してんのよ!!」
一方のウィンデルは、驚くほど落ち着いていた。
「これが、僕が考える最善なんだ。」
「あなたって人は――!」
怒鳴りかけたところへ、ウィンデルが対岸を指差す。
「文句はあと。もう狙われてる。」
その言葉通り、弓兵たちは一斉に小舟へ狙いを定め、黒い矢の雨を放ってきた。
フレイヤは仕方なく意識を集中させ、矢の全てを受け止める。その間にウィンデルは小舟へ這い上がり、手を伸ばして彼女を引き上げようとする。
フレイヤがその手を掴んだ瞬間、ウィンデルがいきなり呟いた。
「君が色んな可能性を考えてたのは分かってる。でも……僕も同じだ。」
フレイヤは戸惑いながら彼を見上げた。その深い蒼眼に宿る微かな光は、まるで強い意志を訴えかけてくるようだった。
理由は分からない。だがフレイヤは、その意味を、ぼんやりとだが、理解できた気がした。
――どんなことがあっても、後悔する選択だけはしない。
それは、少年が自らに刻んだ誓いであり、すべてを司る運命に対する、彼なりの最も強い反抗だった。
「僕の予感は、今まで一度だって外れたことがないから。」




