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24 啓示の未来

 フレイヤの力のおかげで、二人は森の影を伝いながら、わずか二時間と経たずにヒューズ伯爵領の外れ──最初に引き返した場所へ戻ってきた。


 木に繋いだ馬が無事そのままの姿で待っていたのを見て、二人は胸を撫で下ろした。


 連続の移動で、さすがのフレイヤも少し疲れが出ているようだった。


 彼女は「まだ動けます」と言い張ったものの、ウィンデルがどうしてもと休憩を提案し、ひとしきり押し問答の末、近くの小さな丘の木陰まで移動して休むことに決まった。


 ここなら見晴らしもよく、たとえ伯爵が夜通し追手を港へ走らせていたとしても、必ず気づけるはずだった。だが、しばらく待ってみても、それらしい影ひとつ現れない。


「伯爵……まさか手紙に気づかなかった?それとも、メッシに降伏さえすれば、見逃してもらえるとでも?」


 フレイヤも同じことを考えていたらしく、すぐに小さく首を振った。


「それは考えにくいですね。彼はそんな甘い方ではありません。もう少し様子を見ましょう。」


「でも、仮に伯爵が本当に追手を差し向けていたとすると……君の目的はメッシに痛い目を見せることだろう?なら、少なくとも追手とぶつかるところまでは見届けないと助け出せない。


 そうなると結局、メッシの前で正体がバレるんじゃない?」


「それは仕方ありません。でも『メッシ様の正体に気づいたから救った』ように見せることはできます。伯爵の追撃が私のせいだとまでは、きっと思われませんよ。


 そもそも伯爵のところへ行くって決めたのは、メッシの方ですから。」


 ウィンデルはひとまず納得し、少し考え込んだ後で口を開いた。


「じゃあ、伯爵が追手を出していなかった場合は?これからどうする?君の故郷に戻るのか?それとも、メッシを追って護衛を続ける?」


 フレイヤは珍しく迷うように沈黙し、長い時間思案したのち、決意を固めたように顔を上げた。


「念のため、保険をかけておきます。」


「保険?」


 彼女はそれ以上詳しい説明を避け、短く言った。


「ともかく、少しの間、話しかけないでください。」


 事情が飲み込めないウィンデルは、ただ呆然と彼女の動きを見守るしかなかった。


 フレイヤは開けた場所へ進み、そっと目を閉じて両腕を下ろす。わずかに上向いた頬。続いて、極めて小さな声でいくつかの言葉をつぶやいたが、声があまりにか細く、ウィンデルには内容が聞き取れなかった。


 だが、彼女が口を閉じたその瞬間、異変は起きた。


 大地を撫でていた北東風は弱くはないが、強風と呼ぶほどでもなかった。だが、ウィンデルが何か異様な予感を覚えた瞬間、突風が巻き起こり、彼は目も開けていられなくなるほどの風圧にさらされた。


 やっとの思いで目を開けると、驚くべき光景が広がっていた。


 フレイヤを中心に、半径三メートルほどの範囲で、膝丈の草がすべて地面へ押し伏せられている。


 だというのに、その外側……自分がいる場所には、風ひとつ吹いていない。つまり、風がすべてフレイヤの周囲だけに集まっているのだ。


 暴風が渦巻く狭い空間の中心に立ちながら、フレイヤ自身は微塵も乱されていなかった。


 夕陽に染まる空へ顔を上げ、まるで思索しているようにも、この世界を超えた何かを閉じた瞳で仰いでいるようにも見えた。


 その姿を見た瞬間、ウィンデルの脳裏に、裂け目の前で行われたあの儀式と儀式を司っていた女の姿が蘇る。


 クリスト・ミスリ。


 忘れようとしていた名が、少女の姿を目にした途端、記憶の海から浮かび上がり、意識の光にさらされる。封じてきたはずの痛みを解き放つ鍵のように。


 ミスリ。


 どうして今の今まで気づかなかったのか。髪色だって似ていた。フレイヤは金の中にわずかに上品な茶色が混ざり、クリストの髪はまさにその茶色だった。


 もちろん、父を見殺しにした件をフレイヤに責めるつもりはない。だが、二人が母娘なのだと思うと、胸に複雑な感情が渦巻く。


 これから先、フレイヤを見るたびに、父を死に追いやることになったあの女を思い出してしまうのだろう。


 そう思うだけで胸が痛む。そして、いつのまにかフレイヤを友人だと思い始めていた自分に、なぜか罪悪感すら芽生えた。


「……やっぱり、誰かと簡単に仲良くなんてするもんじゃない。」


 ウィンデルがぼそりと呟いた瞬間、暴風はふっと消え、どこかへ逃げていた北東風がこっそり戻ってきて、彼の服の裾を揺らした。


 その時、フレイヤが目を開き、こちらを向いた。眉をひそめた不安げな表情に気づき、ウィンデルは思わず尋ねた。


「僕……儀式の邪魔をした?」


「いえ、もう終わりました。」


 何かの残像を振り払うようにフレイヤは頭を大きく振った。その途端、顔色が一気に悪くなり、まるで力を半分以上吸い取られたかのようにぐったりして、ウィンデルは思わず心配になる。


「少し休んだ方がいいんじゃ……?」


「……はい。」


 ふらつく足取りで木へ向かい、片手で幹を支えながら荒く息をつく。やがて背を預けて崩れ落ちるように座り込み、胸元をそっと押さえた。耐え難い痛みに耐えているようだった。


「……大丈夫?」


「平気です。何か食べるものをください。」


 ウィンデルは荷物から干し肉を取り出して渡した。二人は木にもたれかかり、夕陽が地平線の向こうへ沈んでいくのを眺めながら、それをかじって空腹を満たす。


「さっきの……あれも予知能力の一種なのか?」


「はい。」


「何が見えたんだ?」


 フレイヤは少し複雑そうな視線を向け、何か重大な話をしようとしたが、すぐにやめた。


「……とにかく、少しだけ眠ります。起こしてくださいね。明日の昼までに、イテナ河畔の港へ行ってメッシと同じ船に乗らないと。」


 そう言って目を閉じると、あっという間に眠りについた。


 だがウィンデルの知らないところで、彼女は眠りの中でも、さきほど見た未来──どうしても訪れてほしくない未来を、もう一度見ていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 疲れた。


 少し揺れる小舟の上で半ば膝をつきながら、フレイヤの頭に残っていたのは、その一言だけだった。


 まるで真夏の灼けつく陽光の下を何時間も走り続けた後のような──今にも意識が飛びそうな、あの極度の疲労感。


 どうして急に、こんなにも力が抜けてしまったのか。


 とはいえ、フレイヤはすぐに疑問を抱く余裕すら失い、押し寄せてくる矢の雨に対応するべく、再び気力を振り絞った。


 そうだ、これこそが自分が疲弊している理由じゃないか。


 彼女は前方へ手をかざし、風の壁を生み出す。


 飛来する矢はすべて目に見えぬ風の壁に弾かれ、まるで本物の壁に激突したかのように力を失い、水面へと落ちていった。


 中には運悪く壁の薄い部分を貫通するものもあったが、その速度も威力も大きく削がれており、ボーンとウィンデルが手にした盾……いや、よく見ればただの木桶の蓋で防ぎ切れる程度だった。


 だが、フレイヤにはその木桶の蓋がどこから出てきたのかを気にする余裕などない。今の彼女にとって重要なのは、ただひとつのことだけ。


 あとどれくらいで岸に着く?


 振り返って見ると、岸まではまだおよそ十五メートル。


 その一瞬の確認で、小舟にはさらに五人が乗っていることにも気づいた。


 メッシのほか、見知らぬ男が二人必死に櫂を漕ぎ、もう一人の男と女は怯えた小鹿のように隅で身を縮めている。


 ……もうすぐだ。


 岸に上がりさえすれば、弓兵の射程から一気に逃れられる。対岸の弓兵を取り逃がせば後々面倒になるのは間違いないが、今は仲間の安全が最優先だ。


 私について来てくれるのなら、その信頼に応えなきゃ。


 精神が朦朧とし始めているフレイヤが踏ん張れている理由は、もはやその思いだけだった。


 とはいえ問題は大きい。彼女の精神力はすでに限界に近い。この二日間で風乗りを何度も使ったこともあるが……最も大きな要因は、やはり「啓」を使ったことだろう。


 ウィンデルもその事情に気づいているようだった。


 無理もない。彼はここにいる誰よりも、彼女の身体の状態を理解している。


 だが今のフレイヤには、ウィンデルの心配そうな視線に気づきながらも、安心させるために微笑んで見せる余裕すらない。


 また矢の雨が降り注ぐ。


 フレイヤは全力で風の壁を維持し、どうにかすべてを防ぎ切った。だが息をつく間もなく、執念深い矢が再び蝗の群れのように押し寄せてくる。


「しつこい……ほんとに……」


 疲労しきった身体で両手を上げる。だが今度は、風の壁がまったく発生しなかった。


 どれほど集中しても、空気の流れに微塵の変化もない。


 焦りが胸を締めつける中、空を覆い尽くす矢は放物線の頂点を越え、死の雨となって速度を増しながら降り注いでくる。


「冗談じゃないわよ……」


 フレイヤは歯を食いしばり、誰かを守りたいという意志を必死に描こうとする。


 だがいくら心に念じても、いつもなら従順に応えてくれる風は、まるで彼女を見捨てるかのように沈黙を貫いていた。


 どうすることもできず、迫り来る死を前に、彼女の胸に最初に浮かんだ感情は「悔しさ」だった。


 どうして……たった数人すら守れないの?


 こんな無力なままで、どうやって族の未来を切り開くっていうの?


 思考がそこまで至った瞬間、誰かに肩をつかまれ、強く引き寄せられた。


 次の瞬間、その誰かが彼女の前に立ちふさがる。


「なんだかさ……前にも似たようなことがあった気がするんだよな。」


 矢雨に背を向けながら、苦笑まじりにそう言ったウィンデルの姿に、フレイヤも、理由は分からないまま「確かに」と思ってしまう。


 ……いや、今そんなこと考えてる場合じゃ――


「ウィンデル、どいて……!」


 彼女が叫んだのとほぼ同時に、黒い矢雨が世界を塗りつぶすような勢いで降り注いだ。


 ボーンたちの絶望の叫びが耳に届き、フレイヤの意識は深い闇へと沈み落ちていく。


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