21 城壁の下の独り言
吹きすさぶ風が左右から容赦なく駆け抜けていく。そのたびに、ウィンデルは「生まれてこの方、こんな速度で走ったことがあっただろうか」と半ば呆然としていた。いや、正確には、これはもう「走る」と呼んでいいものではない。
いま、領地を囲む森の木々を盾にしつつ、ウィンデルとフレイヤは風に乗って疾走していた。目的は、城の裏側からの潜入である。
「こうしてみると、道中、馬なんて必要なかったんじゃないか……」
ぽつりと漏らしたウィンデルの呟きに、フレイヤはすかさず鋭い視線を向ける。
「お戯れを。こんな真似、毎日続けられると思わないでください。風の力を全く使えないあなたを連れてこうして飛び回っていたら、私はとっくに倒れておりますわ。」
そう言うと、彼女は左足で軽く地を蹴った。ウィンデルも慌てて真似して足先を地につけると、その瞬間ふわりと身体が浮き、力強い風がふたたび二人を前方へと押し出した。これが、フレイヤ曰く「風乗り」と呼ばれるテクニックだという。
「バランスを崩さないよう、お気をつけてね。」
フレイヤは凹凸の激しい地面を器用に選びながら着地し、同時にウィンデルへと注意を促す。だがウィンデルは、この奇妙な移動方法にまだ慣れず、集中しようとしてもつい余計なことを考えてしまい、何度か転びかけた。
自分がフレイヤに遠く及ばない事実……それが胸を締めつける。不思議な力を使えないだけでなく、自分では頭が悪くないと思っていたのに、彼女の前では物知らずの田舎者にしか見えていない。
その一方で、握られた彼女の手の感触が、心に妙なざわめきを生んでいた。柔らかいのに芯がある手。それはまさに、彼女自身の印象そのもの――美しい外見の奥に潜む凛とした強さ。
と、その時だ。二人を押していた風が、前触れもなくふっと消えた。フレイヤは素早く地を蹴って減速し、軽やかに停止する。だが準備のないウィンデルは、急激な減速に全くついていけなかった。
「う、わっ……!」
ドタドタッ――そして盛大に転倒する。背後でフレイヤのくすくすとした笑い声が聞こえ、ウィンデルは赤面しながら起き上がる。何が起きたのか聞こうとした矢先、フレイヤは森の外を指さした。
「着きましたわ。」
いつの間にか、二人は森づたいに城の裏壁までたどり着いていた。ウィンデルはそびえ立つ城壁を見上げ、胸中の疑念が確信へと変わっていくのを感じた。
「フレイヤ。」
「はい?」
「前から思ってたんだけど、これ……全部、君の計画通りなんじゃない?」
「……どういう意味でして?」
ウィンデルは黒い真珠のような彼女の瞳を見つめ、ゆっくりと推測を語り始めた。
「メッシとばったり会ったことも、兵士たちが農家の娘を連れ去ろうとしていたことも、ひとまず置くとして――その後からずっと、全部、君が導いているように見えたんだ。まず、君はあえてあの農民たちの税を肩代わりした。一見ただの同情に見えるけど、あれでボーンたちは君が本当に裕福なお嬢様だと信じ込んだし、兵士たちの恨みも買った。」
ウィンデルは一度息をつき、反論が来ないのを確認して続けた。
「それから昨日の夜。君は巧妙に話題を誘導して、宿の女将さんに『領主配下の兵の数』を自然に聞き出した。結果、メッシ主従の疑いを強めることになった。兵士が必ず仕返しに来るのも計算済みで、正義感の強いボーンが出てきて、そこで領主に会う話に持っていく。
最後に、今日の出発。あれも、領主側に『俺たちは只の旅行者で、もう領地から出た』と思わせるためだろ?本当は、今みたいに裏から忍び込むための偽装で。」
フレイヤはしばらく黙ってウィンデルを見つめていた。その表情は読み取れない。
「……例の課題に対してそこまで答えを出してくださるとは、思っていませんでした。」
「じゃあ、やっぱり全部計算してたんだな?」
フレイヤはわずかに頷いた。
「『この女は腹黒い』とか、『恐ろしい』とか……そう思われましたか?」
「正直……どっちも、少しは。」
フレイヤは弱い笑みを浮かべ、視線を落とす。その口元には、かすかな寂しさがにじんでいた。
「……あの方々も、私のことをそのように見ているのでしょう……」
何を呟いたのかは聞き取れなかったが、ウィンデルには彼女の悲しげな気配がはっきりと伝わった。なぜだか、自分が何か言わなければいけない気がした。
「でも、僕が一番気になってるのは別のことだ。」
「……それって?」
「君がここまで仕組んで、最終的に何を狙ってるのかってこと。」
フレイヤはゆっくりと顔を上げ、城壁の頂上を見つめた。まるで、その先に手の届かない何かがあるかのように。
「……メッシ殿下の命を守りつつ、二人の王子の対立を表に出したいのです。」
「どうして?」
「おそらく、私たちの得になるからですわ。」
それ以上説明する気配がなかったため、ウィンデルは核心に触れる質問をぶつけた。
「風使いと王室って……いったいどういう関係なんだ?」
「まだお教えできませんわ。」
「じゃあ、いつなら?」
「あなたを臨界者の一員として認めた時。」
ウィンデルは落胆すると同時に、「臨界者」と「風使い」という二つの呼び名の違いについて考え始めた。
フレイヤやクリストは自分たちを「臨界者」と呼び、父や王室は彼らを「風使い」と呼ぶ。これは一体どうしてだろう?
そんなことを考えている時、フレイヤが話を本題へと引き戻した。
「さて、そろそろ入りましょう。あとで私の手をしっかり握って、姿勢を崩さないようにね。さっきみたいにバランスを取って、重心さえ保てれば大丈夫よ。風乗りを使う時のコツをつかめたんだから、これもそう難しくはないはず。あ、それと、高い所が苦手なら、下は見ないこと。」
「……ちょ、ちょっと、何するつもりなんだ?」
「さあ、どう思う?」
フレイヤはふっと微笑み、左手を彼に差し出した。ウィンデルは戸惑いながらも、その仕草があまりに自然だったせいで、つい手を伸ばしてしまう。細くて柔らかいその手を握った瞬間、フレイヤは上空に視線を向け、祈るように小さく呟き始めた。
「風よ。どうか、私に空を歩む翼を。」
刹那、先ほどの疾走よりもはるかに強い気流が二人の足元へと収束し、やがてそっと地面から押し上げるように二人を浮かせた。
足元の大地がどんどん遠ざかっていき、ウィンデルはバランスを保とうと必死になりながら、思わずごくりと唾を飲み込む。それを見たフレイヤが、そっと近づき囁くように笑った。
「怖いの?」
全身が小さく震えているのを抑えきれないまま、ウィンデルは負けじと言い返す。
「当たり前だろ。お前みたいに毎日ふわふわ飛び回って、空を地面みたいに歩ける人間じゃないんだよ。」
フレイヤは思わず吹き出したが、すぐに表情を引き締めた。
「はい、もう喋らないで。そろそろ城壁の上に着きますわ。」
その言葉どおり、二人の上昇速度はゆるやかになり、やがて手を伸ばせば届くほどの城壁の高さでぴたりと止まった。
「壁沿いに寄って待ってて。」
言われた通り、ウィンデルは城壁にしがみつく。足元はふわりとした見えない何かに支えられているけど、その何かが風だと意識すると、背筋がぞわりとして、思わず両手に力がこもった。
フレイヤは城壁に手を掛け、軽やかに身体を翻して上へと乗り越える。その直後、低い怒声が響いた。
「貴様、何を──」
ウィンデルは一瞬で事態を悟った。が、すぐさま「コツン」という小さな音が続き、その声はぷつりと途切れてしまう。その後、フレイヤが城壁の上からひょいと顔を出した。
「もう大丈夫、上がってきて。」
ウィンデルは救われた気持ちで壁を越えた。そこには長槍を放り出し、仰向けに倒れて気絶している兵士が一人。死んではいないようだが、動く気配はない。
「……殺してないよな?」
「生きてるわよ。私をそんな物騒な奴だと思わないで。」
その言葉に、ウィンデルはようやく胸を撫で下ろした。幸い、城壁の警備は、二人が想像していたよりもはるかに手薄だった。
その兵士を縄で縛り、人目のつかない場所へと運び込むと、二人は巡回兵に見つからぬよう慎重に身を潜めながら、メッシとボーンの行方を探し始めた。
「ねえ、警備がこんなに少ないとは、どう思います?」
フレイヤの口ぶりから、彼女がすでに答えを持っているのは明らかだった。
「……急にメッシが訪れたから、ヒューズ伯爵が『本来見せるべきじゃない兵力』を隠した、とか?」
「ええ、同感です。」
むやみに建物内部へ踏み込むのは危険だと判断し、二人はまず一階部分を中心に、城内の建物を外から観察しながら歩き回った。長く城内を探し回った末、ふと足を踏み入れた小さな庭園で、開け放たれた窓から男の低い声が微かに聞こえてきた。
「殿下、これで臣が私兵を隠し持っておりませんことを、ご納得いただけたでしょうか?」




