20 恐ろしい彼女
一瞬、ウィンデルは現実感を失った。自分がかつて、あの身分の高い第一王子と旅をしていたなど、にわかには信じがたい。だが、その驚きが薄れるより早く、脳裏には次の疑問が浮かび上がる。
「でも……そうなると、どうしてあなたは彼らを一目見ただけで身分を察せたんだ?前に会ったことがあるのか?」
「いいえ、ございません。ただ、ディーゼル王家の最大の特徴は、あの鮮やかな赤髪です。それに、これはごく一部の者しか知らない機密ですが……メッシ殿下は半年前から、見聞を広めるという名目で、合衆国の中部から北部にかけて御身を隠して巡られておられます。」
「でも……メッシ王子が、なんで急に領主と会おうとしたんだ?まさか、部下が人身売買に関わってることを問いただすため、とか……?」
フレイヤは静かに首を振る。
「あり得ません。人身売買は確かに違法ですが、殿下が直々に糾弾なさるほど重大ではありません。昨夜、私が『領主の部下は何人ほどか』と尋ねた時、宿屋の女将が何と答えたか覚えていますか?」
「ええと……たしか、二百人以上はいるって……?」
「正確には、『二、三百はくだらないだろう』とおっしゃいました。つまり、実際は四百でも五百でも不思議ではない、ということです。そして、それこそが問題なのです。」
ウィンデルはますます分からなくなる。
「兵が多いと、何かまずいのか?」
「問題は徵兵令にあります。商人の集まる特別自治区と首都モノボリーを除き、王室は各領主に直接徵兵令を出し、領地規模に応じた人数を提出するよう命じます。基本的に、領主は自領の兵力から必要人数を差し出すことになりますが、王室は領地秩序維持のため、最大二百名まで自軍を残すことを許可しています。足りない分は領民で補えばよい、と。」
「つまり、仮に徵兵令が五百人で、領主が持つ兵が四百人だったら……二百人を残して二百人出して、残り三百人は領民で補充できるってことか?」
「その通りです。さて、これで問題がどこにあるか、お分かりになりましたか?」
「領地の男はほとんど徴兵で取られてるのに、領主だけは大勢の兵を抱え込んでる……ということね。」
フレイヤは静かにうなずく。
「正解。つまり領主は、何らかの理由で自分の兵力を密かに温存しているのです。では、その理由は何でしょう?」
「えっと……」
ウィンデルは何度か答えを試みたが、そのたびに外れる。フレイヤはくすりと微笑んだ。
「ヒントを差し上げます。ヒューズ伯爵は第二王子派に属する人物です。」
その瞬間、ウィンデルは昔読んだ歴史物語を思い出し、ようやく答えに近づいた。
「まさか……メッシ王子と弟君が、王位を巡って争っているってことか?互いに力を蓄えている、と?」
「正解。」
「でも、もしそうなら……王子が護衛一人だけ連れて、敵対派の領主に会いに行くなんて危険すぎるだろ?」
フレイヤは深くため息をつく。
「そこがメッシ殿下の甘いところなのです。ヒューズ伯爵はさておき、実のところ、殿下が王宮を離れておられるこの機会を狙って、別の勢力も動いております。ただ、これまでは殿下の行動があまりに秘匿されていたため、誰も手を出せなかった――どうしてそんな顔をしておいでです?」
「いや、君は前に『彼らは私のターゲット』って言ってたけど。もしかして……」
ウィンデルの疑いに、フレイヤは思わず吹き出した。
「ご心配なく。殿下を殺す気などございません。むしろ、暗殺者からお守りしたいと思っているほどです。」
「じゃあ、どうして僕たちは離れたんだ?残って見張ったほうがよかったんじゃない?」
「それはゆっくり考えてください。あなたへの次の課題です。」
「……何を、その先生みたいな言い方……」
ぼそりと漏らしたウィンデルに、フレイヤは楽しそうに目を細めた。
「だってあなた、何も知らない田舎の坊やでしょう?私が教えてあげなければ何一つ分かりませんし。」
「いや、坊やって……君、僕より年下だろ?」
「さあ、どうでしょう?」
そんな他愛のない言い合いをしていたところ、背後から急な馬蹄の音が迫ってきた。振り返ると、五、六人がこちらへ突進してくるのが見えた。
「来ましたね。」
フレイヤの呟きに、ウィンデルは目を瞬く。
「誰か追ってくるのが分かってたのか?」
「当然です。最初はメッシ殿下の身分が掴めず手を出しませんでしたが……私達がただの平民だと知れた以上、逃がす理由などありません。彼らにとって、私たちなんて反抗のしようもない獲物でしかありませんし。」
そう言うと、フレイヤの微笑は消え、冷えた表情が浮かんだ。
「これもまた、殿下の甘さです。ご自身の身分を明かせば、すべてが守られる――多分そう信じておられます。しかし、世の中はそんなに甘くありません。もし私が臨界者でなかったなら、一時間も経たぬうちに、あなたは野に捨てられた死体となり、私は……誰にでも抱かれる哀れな娼婦になっていたでしょう。」
あまりに現実的な言葉に、ウィンデルは息を呑んだ。だが、これまでの日々で、彼はもう分かっていた。彼女の声に潜む……氷のような殺気を。
その瞬間、風のささやきが、何の前触れもなく彼の耳元に響いた。
――彼女に、人を殺させないで。
その柔らかな声を聞いた途端、ウィンデルは一瞬ぽかんとしたけど、すぐ気が付いた。間違いない。
幼い頃から時折語りかけてきた、あの声だ。まさかあの声も、故郷を離れた彼の後を追ってきたというのか?
しかし今は、それを考えている場合ではない。
「とりあえず、振り切れるかどうか試してみよう。」
そう言って、ウィンデルは馬腹を軽く蹴った。馬は即座に速度を上げ、小道を駆け抜ける。だが彼の行動に、フレイヤは怪訝そうに眉をひそめた。
「どうして逃げるのです?全員まとめて殺してしまえばよいでしょうに。」
「さっき君が言ったのは、追いつかれた場合の話だろ?追いつかれなきゃ、向こうは何もできない。だったら、殺す必要なんてないじゃないか。」
フレイヤは黙ってウィンデルを見つめた。その瞳は、どこか冷たい光を帯びている。
「……あの人たちに同情しておられるのですか?ここで殺しておけば、将来生まれる被害者を減らせるかもしれませんのに。」
「じゃあ……君の理屈だと、悪い考えを持ったら即死刑ってこと?」
「詭弁ですね。本当の理由を言ってください。」
一瞬、ウィンデルは本音「風に言われたからだ」を言いかけた。だが、フレイヤがどんな顔で、どんな言葉で彼をからかうかを想像した途端、心が折れた。「じゃあその風に死ねって言われたら死ぬんですか?」という声が、頭の中で妙にリアルに響いたのだ。
いつまで経っても答えないウィンデルに、フレイヤの眉間の皺が深くなる。
「言いなさい。言わないなら、もう止まりますよ。」
「……ジルパン族は、相手が善人だろうと悪人だろうと、人を殺せば魂が汚れると信じてる。後ろの連中が悪党なのはわかってる。でも、そんな連中のせいで、君の手と魂まで汚れるなんて、あまりにも割に合わないだろ。」
フレイヤはしばし沈黙したのち、ふうっと小さく息を吐いた。
「……本当に、嘘が下手な方ですね。まあいいですわ。理由はどうあれ、今回は見逃して差し上げます。ただ、敵にも味方にも、そんな甘さではいつか痛い目を見ますよ。」
そう言って馬を止め、軽やかに地面へ降り立つと、小道の真ん中に立ちふさがった。ウィンデルが目を瞬く間に、追っ手たちも近くまで来て馬を降りる。言うまでもなく、彼らは昨夜の旅店にいた男たちだ。
「どうした、お嬢ちゃん。逃げ疲れたか?」
「ははっ、隊長の言うこと聞いて来なかった奴らは損したな!こんな上玉、百軒の娼館探したってお目にかかれねぇぞ!」
「おい、お前ら二人。後ろの男を先に片付けろ。王子にチクられると面倒だからな。」
その下卑た笑みと下劣な言葉に、フレイヤは確信した。
やはり救いようのない連中だ。
本気で、ウィンデルの頼みを受け入れたことを少し後悔するほどに。だが、約束は約束だ。
「……ここで、大人しく眠っていなさい。」
最前列の三人が嬉々として飛びかかってきた、まさにその瞬間。フレイヤが呟くように言い放ち、ウィンデルは目を見開いた。肉眼では見えないが、彼にははっきりわかった。
何かが男たちの頭上に形成され、雷のような速さで後頭部を打ち抜いたのだ。男たちの笑みは一瞬で固まり、そのまま「どさっ」、「どさっ」と地面に崩れ落ちた。
そういえば、自分もクリストにやられた時はこんな感じだった……
ゾクリとしながら、ウィンデルは風使いの恐ろしさを改めて実感する。
「……で、これからどうする?」
短い問いかけに、フレイヤはちらりと振り返り、平然とした表情で答えた。その冷淡な美しさを見た瞬間、ウィンデルは直感した。
この氷雪のように美しく、賢くて、しかも圧倒的な力を持つ少女は──もしかすると、一生かかっても勝てない相手なのかもしれない。
「決まっているでしょう。領主の城へ戻りますわ。」
そして、その瞳の奥には、揺るぎない決意が宿っていた。
「メッシ殿下が、無名の田舎領主ごときに殺されてしまったら……私が困るのです。」




