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1 風の歌

ある人は、運命は神であり、人々はその御旨を推し測ることしかできない、と言う。

ある人は、運命は美女であり、人々はそのスカートの下にひれ伏すことしかできない、と言う。

またある人は、運命は悪魔であり、非力な人間は結局恐れ、呪うことしかできない、と言う。

しかし私は言う、運命は風であると。

それは至るところに在りながら、掴むことができない。

                       ――ツイラ(姓不詳)


「そういえば、今日は来るんだよな、彼女は。」

「来るらしいよ。どうしたの?」

「どうしたって、楽しみじゃないのか?ついに今日なんだぞ!」

「別に。」

「チッ、つまんねーやつ。」


「彼女」が誰なのか、正直気にはなる。

 だが、険しい山の頂に一人腰を下ろす少年は、ただ静かに目を閉じて、吹き抜ける風のささやきに耳を傾けていた。


 他の人にとってはただの鋭い寒風の音でも、彼には風たちが交わす言葉に聞こえる。もちろん、いつも内容を理解できるわけではない。それでも風たちは少年が聞いていることなど全く気にしていないようだったし、時折こちらに話しかけてくることすらあった。


 ただ、少年の声は、どうやっても風には届かない。

 どれほど声を張り上げても、返事は返ってこなかった。普通ならきっと、こんな状況は挫折を呼ぶだろう。それでも少年は毎日ここに来ては風の雑談に耳を傾け、何度でも話しかけようとする。

 何故なら、もし話せるようになれば、話し相手ができるのだから。

 彼を、偏見の目で見ない話し相手が。


「……今日もダメか。帰ろ。」


 山頂で三十分ほどじっと座ったのち、少年は固まった手足を動かして立ち上がった。

 彫りの深い顔立ち、少しクセのある黒髪、鍛えられた手足。そして何より、人々の視線を奪う彼の瞳。

 まるで宝石のような――いや、宝石よりも濃く、澄んだ、ありえないほどの青。

 夏空の青でも、冬の海の灰青でもない。サファイアより深く、氷晶より清らかな、ことばでは言い表しがたい神秘の青。初めて見る人は誰もが目を奪われる青。


 少年は横に置いたピッケルを手に取り、急峻な尾根を慎重に下っていく。雪と氷で足元は危うく、山のふもとへ戻るだけでもずいぶん時間がかかった。


「坊主、戻ったか。」


 最初に声を掛けてきたのは、濃いあご髭を蓄えたジョアンだった。伐採隊の隊長であり、最年長でもある。


「隊長。」

「今日の様子はどうだった?」

「風は強いです。でも……雪にはならないと思います。」

「そうか、助かる。」


 風と話せるわけではないが、風が帯びる「感情」は感じ取れる。それだけで天候がある程度わかるのだ。喜びは晴天、期待は強風、憂鬱や悩みは曇り、悲しみは雨や雪、そして激しい怒りは暴風雪の前触れ。

 山の天気は変わりやすい。だからこそ、ジョアンにとって彼は頼もしい存在だった。


「よし、全員そろったな。出発するぞ。」


 根の上で居眠りしていたクリフが大きなあくびをしながら文句を言った。


「隊長、なんでこんな早朝から山なんだよ。今日は休みだろ?」

「バカ言え、イノシシは朝一が狙い目なんだ。正月に肉いらねぇのか?」


 会話を聞きながら、少年は確認する。


「今日はイノシシ狩りですか?」

「ああ。レイノが数日前、谷の向こうで群れを見たらしくてな。運がよければ一頭だけ離れた雄が見つかるだろう。トナカイがいればそっちも狙うぞ。」


 クリフの双子の弟が嫌そうに顔をしかめる。


「俺、イノシシ苦手。なんか臭いんだよ。」


 シードが鼻で笑った。


「そりゃお前の親父の処理が下手なんだよ。仕留めてすぐに『アレ』と周りの肉を落とさなきゃ、匂いが他に移るんだ。」

「『アレ』って何?」

「股触ればわかるだろ。」


 コリンが顔を真っ赤にして黙り込む。


 今日の狩りは八人。

 少年、ジョアン、クリフと双子の弟、若手のコリンとピム、副隊長バン、そして村で一番のハンターのシード。この山村ハサードでは、肉はほぼ狩猟頼みだ。男たちは日替わりで山に入り、獲物があれば村全体で分け合う。


「今日は伐採区じゃないんですか?」


 ピムの質問にシードが首を振る。


「谷の向こうって話だし、別ルートのほうが早い。イノシシは冬は日当たりの良い斜面に集まる。今日は東北の山だな。」

「イノシシって難しいんですか?」

「他よりは難しいな。あいつら目は悪いけど鼻が利く。風向きが悪けりゃすぐ逃げる。冬は音もよく響くし、耳もいい。だから――」


 他の会話は右から左へ受け流していく。少年は黙って歩き、ジョアンがその様子に気づいて頭をガシガシと撫でた。


「どうせ家に引きこもって本ばっかり読んでるんだから、たまには村の行事に出てみるのも悪くないだろ?」

「……全然よくありません。」

「ダメだろ。今日はお前の誕生日だぞ?狩りに当たらなかったら、どうせ一人で過ごすつもりだったんだろ?」

「別に、本がありますし。」


 ジョアンは白目をむいた。


「本本本、本が嫁か?もっと人と喋れ。」

「毎日伐採隊で喋ってるじゃないですか。」

「仕事のときだけだろ!山から下りたらすぐ家に籠もるか、本持ってどっか行方くらますし……人と関わると死ぬ病気なのか?」


 少年が返す前に、後ろから嫌味な言葉が飛んできた。


「隊長、ほっときゃいいっすよ。ウィンデルがどれだけ根暗か知ってるでしょ?冬至祭なんてほぼ来たことねぇし。どうせ俺らのこと見下してんだ。だって『貴族の落とし子』だし?字も読めねぇ田舎者なんか――」

「クリフ。黙れ。」


 ジョアンが低く一喝し、空気が一気に重くなる。ウィンデルという名の少年はちらっとクリフを見た。向こうは睨み返してくる。


 ウィンデルは心の中でため息をついた。多分、天気を読めるという理由もあって、ジョアンは昔から彼に何かと気を配ってくれた。だが、そのせいで伐採隊の何人かには快く思われていない。


 ウィンデルは、その感情がただのつまらない嫉妬だと分かっていた。だからこそ、こちらからうまく距離を縮めて、「この力を使って特別扱いされたいなんて思っていない」と伝えさえすれば、あの人たちの妬みなんて簡単に消えてしまうだろう。

 分かってはいる。

 だが、ずっと一人で生きてきたウィンデルにとって、わざわざ誰かと仲良くしようなんて気力は、正直これっぽっちも湧いてこなかった。


 そう?人に捨てられるのを怖がってるだけでしょ。


 耳に柔らかな風の声が流れ込み、ウィンデルは小声でつぶやいた。


「……うるさい。」

「坊主、何か言ったか?」

「独り言です。」


 ジョアンは困ったようにため息をつく。


「お前、こんな見た目してりゃ少し明るくするだけで女にモテモテだぞ。」

「……興味ないです。」

「中身がジジイなんだよな、お前。そういやザグは戻ってないのか?」

「はい。」

「誕生日くらい顔見せりゃいいのに。」

「去年も帰りませんでした。」


 ジョアンは眉をひそめ、思わず舌打ちした。


「まったく……父親ってのはどいつもこいつも……」

「いいんです、慣れてますから。」


 ウィンデルがまるで他人事のように言うと、ジョアンは横目で彼の顔色をうかがい、すぐにため息をついて首を振った。


「いいか、坊主。人を騙すのはまだしも、自分まで騙す癖はつけるな。」

「え?ただ本当のことを……」

「俺の言いたいこと、分かってるだろ。」

「……」


 ウィンデルが口をつぐんだその時、隊の先頭を歩いていたシードが声を上げた。


「隊長、この辺りでしょう。分かれて探した方が早い。」

「で、どう分ける?」

「二人一組がいい。隊長はコリンと。バンとピム。双子は……弟は俺と。クリフはウィンデルと。」

「よし。全員よく聞け。獲物を見つけても、状況が許すならすぐに手を出すな。一人はそのまま追跡、もう一人は仲間を呼びに戻れ。」

「了解。」


 ジョアンがいくつか狩りの注意点を再確認したあと、一同は散開して獲物を探し始めた。ウィンデルとクリフはしばらく森の中を探し続けたが、獲物の影はない。ついにクリフが不満を漏らし始めた。


「つまんねー。何もいねーじゃん。」

「お前が急ぎすぎなんだ。」

「へいへい、ビビりののろまさんは忍耐力があることで。せいぜい蛇にビビって漏らすなよ?」

「今ごろ蛇は冬眠中だ。お前のスカスカな頭には、その程度の常識も入ってねぇのか?」


 ウィンデルとクリフは昔から相性が悪い。遡ればウィンデルが七歳の頃、クリフが背後からこっそり服の中にヘビを突っ込んだ事件があったせいだ。毒はなかったが、あの日を境に二人の仲は真っ二つに割れた。


「俺は知ってるし。隊長に庇われて調子乗んなよ?父親に捨てられた落とし子のくせに。」


 その一言で、ウィンデルの胸に怒りがこみ上げる。だが彼は、どうにか感情を押し殺した。


「くだらねぇ。さっさと獲物を探せ。」


 ウィンデルの張りつめた表情を見て、クリフは意地の悪い笑みを浮かべた。


「お?痛いとこ突かれたか?ひょっとしてお前の母親、娼婦かもな?ほら、今ごろ客に脚広げて、銅貨でも何でも好きに入れてって言ってたりしてよ?」


 ウィンデルはとうとう我慢の限界に達し、クリフの胸ぐらをつかみ上げた。


「……もう一回言ってみろよ。」


 クリフは振り払おうと必死にもがいたが、まったく離れない。むっとした顔でウィンデルをにらみ返し、何か言い返そうとしたが、ふと気づいた。


 ウィンデルの海色の瞳が、強い意志を秘めた光でギラッと光ったのだ。


 その迫力に、クリフは一瞬ぽかんと固まってしまう。だが、その間抜けた表情が、逆にウィンデルの怒りに火をつけた。拳を握りしめ、そのままクリフの顔面めがけて振り下ろそうとした――

 まさにその時。

 ぶひっ、ぶひっ、と妙な鼻息が響いた。


 ウィンデルとクリフは同時にそちらを向く。十数メートルほど先に、一頭のイノシシがぽつんと立ち、二人をじーっと見つめていた。

 二秒ほど見つめ合ったあと、イノシシは牙を突き出し、「ぶひゃあっ!」と叫びながら二人へ一直線に突進してきた。


「っ、クソ!!」


 ウィンデルは胸ぐらを放し、二人は左右に飛び退く。間一髪、突進を回避した。でも、イノシシはすぐさま方向転換し、ウィンデルに再突進する。弓を構える暇もなく、木々を盾に走り、かわし続けるうちに、クリフが援護してくれると思って振り返ると……


「た、助け呼んでくる!!」


 逃げていた。


 ウィンデルは心の中で悪態をつきながらも、今はとにかく生き延びることだけを考えて必死に走った。木々を盾にしながら左へ右へと身を翻し、なんとかイノシシの突進をかわし続ける。

 途中、何度も「上に逃げよう」と思い立ち、太い幹に手を掛けたが、氷に覆われた樹皮は、まるで油でも塗ってあるかのように滑って、指一本かからない。

 心臓が胸を破って飛び出しそうなほど跳ね、呼吸は冷たい空気で喉が焼けるようだ。その時――

 ズボッ。


「……え?」


 右足が、急に深い雪へと沈み込んだ。

 抜こうと二度三度力を込めるが、周囲の雪が固く締まっていてびくともしない。

 最悪のタイミングで動きが止まり、ウィンデルは叫びたくなる。慌てて後ろを振り返ると、案の定、巨大な影が一直線にこちらへ突っ込んで来ていた。

 獰猛な眼光、突き出された牙、雪を弾き飛ばしながら迫る茶灰色の塊。


「っ……来る……!!」


 ウィンデルは、必死に弓を引き絞った。


 どうか、当たれ……!


 その瞬間、びゅっと強い風が巻き起こり、ヒュッという音とともに、矢は流れ星のように飛び、イノシシの体へ深く突き刺さる。

 鋭い悲鳴が森じゅうに響き渡り、次の瞬間、イノシシは止まらない勢いのままウィンデルの横の雪山へ突っ込み、後ろ脚が数度痙攣したのを最後に、完全に動かなくなった。


 ウィンデルはしばらく呼吸を荒げたまま、まさか自分があんな一射で急所を射抜けたとは信じられず、呆然と立ち尽くした。震える手で積もった雪をかき分け、ようやく右足を引き抜くと、イノシシの死体を見下ろしながらしばし放心し、ふっと力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。


 あたりを見回すと、追いかけているうちに森の端まで来ていたらしい。視線の先では、まるで誰かが線を引いて「ここから先は木を生やすな」と命じたかのように、森は突然途切れ、その先には白一色の雪原が広がっていた。


 ウィンデルはそのまぶしい白さにぼんやり見入っていたが、鋭い寒風が頬を切りつけ、思わずくしゃみをしてようやく我に返った。


「まじか……ほんとに死ぬところだった……」


 安堵の吐息を漏らした時、突然風に乗って、何かの声が聞こえた気がした。まだほかの獣が潜んでいるのではと警戒し、周囲を素早く見渡し、耳を澄ませる。だが何の気配もない。

 聞き間違いだろうか――そう思った瞬間、ふわりと風が吹き抜けた。


 ――運命の……


「……歌声?」


 ――終わりなき時の風よ……ぼくをきみの前に……


 困惑しつつ、ウィンデルは目を閉じて耳をすませた。集中するほどに歌声ははっきりしていき、その声にどこか聞き覚えがあるような気さえしてくる。


 そのとき、不意にめまいが襲い、ぼやけた無数の光景が目の前を駆け抜けた。その中には、どこか懐かしいような映像が混じり、また別のものは、生まれて初めて見るほど遠い未来のようで、まるで一瞬で遥か昔と永劫の先端を同時に覗き込んだような、そんな不可思議な感覚だった。


 しかし、その奇妙な感覚は長く続かなかった。歌声は次第に遠ざかり、山風に乗ってどこかへ流れていく。

 ウィンデルが目を開けると、胸の奥にぽっかりと穴があいたような、何かを掴みかけて、指先からすり抜けてしまったような――そんな、深い迷いと喪失感だけが残っていた。

 もっとも、その「何か」が何なのか、彼自身にも分からないのだが。


「なんなんだよ、これ……」


 吹きつける風の方向へ視線を向ける。


 ダメだ。ここで隊長たちを待つべきだ。それに、むやみに歩き回ったら、また別の獣に遭うかもしれない。


 理性は何度もそう言い聞かせてくる。それでも、胸の奥で鳴り響く直感は、歌声の正体を確かめろと騒ぎ立てていた。結局、温デールはその直感に従うことにした。

 そうしなければ、きっといつか必ず後悔する──そんな気がしてならなかった。


「ちょっと見てくるだけだし。大丈夫、たぶん……だよな?」


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