13 残酷な現実
フレイヤに急かされ、ウィンデルは一人で農家の前にやって来た。扉を軽く叩いてみたものの、返事はない。仕方なく声を張る。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいますか?」
しばらくして、扉越しにぼんやりとした声が返ってきた。
「はいはい、今行くよ。」
扉が開くと、三十代前半ほどの、やや太り気味だが人当たりの良さそうな男が立っていた。ウィンデルを見るなり、男は小首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「僕と仲間が……」
ウィンデルは後ろにいるフレイヤの方向を指し示した。
「この辺を旅してまして、携帯食がそろそろ尽きそうなんです。少し分けていただければと。」
「なるほど。あんたらはどっちのほうから来たんだ?」
「北東の国境あたりです。」
「ってことは、これから南西に進むのかい?」
「いえ、正確には西へ向かっています。」
男は少し考えるような仕草をしたあと、ぽつりと言った。
「西っていうと、ヒューズ伯爵領だよな?なんで――」
言いかけて、男は突然「ああ!」と声を上げ、頭をぽんと叩いた。
「ははっ、悪い悪い。俺の頭って時々ほんと働かなくてね。確かに領地の連中から食い物を買うなんて、現実的じゃないよな!」
ウィンデルは苦笑しつつ同意するふりをしたが、内心ではまったく意味が分からなかった。
「で、どれくらい欲しいんだ?」
「二人で二十日ほどは持つくらいの量を。」
ウィンデルの答えに、男は目を丸くした。
「そりゃ多いな。そんなに背負って歩いて重くないのか?」
「馬がいますから、大丈夫です。」
「なるほど。」
その瞬間、気のせいか、男の目がきらりと光ったような気がした。
「じゃあ、売ろう。ただし、ここ二年ばかり収穫が悪くてね。六枚の銀貨はもらわないと。」
思っていたよりずっと高い。しかしウィンデルはこの地方の物価に詳しくないため、値切ろうにも基準が分からない。そもそも彼は駆け引きが好きな性格でもなかった。
「……分かりました。買います。」
ウィンデルは銀貨六枚を取り出し、男に見せてみせた。
「ちょっと待ってな。」
男は家の奥――倉庫らしき場所に消え、しばらくしてから布袋を抱えて戻ってきた。
「ほらよ。」
袋を受け取り、中身を確認してからウィンデルは銀貨を渡した。
「本当に、ありがとうございます。」
ウィンデルが軽く会釈すると、男は「気にすんな」とでも言いたげに手を振り、扉を閉めた。合流地点へ戻ると、ウィンデルはフレイヤが二頭の馬を草を食ませつつ、自分は木にもたれてうたた寝しているのを見つけた。正直、その光景は絵のように静かで美しかった。
「……こいつ、黙ってると可愛いんだけどな。」
ウィンデルがこっそりぼそりと呟いたちょうどその時、フレイヤが足音に気づき、ゆっくりと目を開けた。
「どうだった?」
「買えたよ。さあ、そろそろ説明してくれていいんじゃない?」
「余計なことは言ってないでしょうね?」
まるで信用していないような口ぶりに、ウィンデルは思わず白目を剥いた。先ほどのやり取りをかいつまんで説明すると、フレイヤは聞き終えた後、額を押さえた。
「どうしてそこで『馬がいる』なんて言うの?」
さすがのウィンデルも、耐えてきた皮肉の針が少し刺さった。
「分かった、分かった。どうせ俺は物知らずの田舎者だ。そこまで言うなら、何がどう悪かったのかさっさと教えてくれませんかね、お嬢様?」
フレイヤは軽く息をつき、馬に乗るようウィンデルに促した。ふたりが並んで歩き出したところで、ようやく口を開く。
「ウィンデル。領主の役目って、何だと思います?」
「え?えっと……戦争の時は王家のために戦って、普段は……領民を外敵から守るとか?」
「表向きはね。でも本質的には違いますわ。」
フレイヤの声は淡々としているのに、不思議と重みがあった。
「王家は、領主の歓心を得るために領地を与えるの。そこに住む人々は、領主に付属する「資産」。領民は毎年の収穫の一部、あるいは大半を税として差し出す義務があります。その税を確実に搾り取るために、領主は領民を盗賊から守ります。表向きは相互契約。でも実態は主人と奴隷の関係に近いわ。」
「なるほど……で、それと食料を買うのがどう関係ある?」
「ここ二年、この辺りは不作続きよ。不作の領地で、奴隷同然の生活をしている領民に、余分な食料なんてあると思います?もしあったとしても、領外より安く売るはずがありません。」
フレイヤは淡々と告げる。だがその声には、仄かな苦さが混じっていた。
「良心的な領主が全くいないとは言いませんけど……多くは領民を使えるだけ使います。生きてさえいればいい、あとは全部搾り取ります。それにね、二年前から合衆国はまた徴兵を始めたの。働き手の男はほとんど徴兵されて、残ったのは女と子どもと老人。収穫は税を除いたら、領民が飢えずに済むかどうか、ギリギリの状況よ。」
最後の言葉は、吐息のように落ちた。フレイヤの説明を聞き終えると、ウィンデルはしばらく黙り込んだのち、小さく息を吸った。
「もし状況がそこまで酷いなら、何で誰も反抗しないんだ?そんな生活、耐えられないだろ。」
「前提が違いますわ。」
フレイヤは首を振った。その横顔には、どこか諦めにも似た影が落ちていた。
「反乱を起こすには、勝てる可能性が必要です。領主は盗賊に対抗するため――表向きはそう言われていますが――実際には、領民の暴動を抑えるために自前の軍を持っています。訓練された兵を相手に、一般の平民が勝てると思われますか?」
「……まあ、確かに。」
「だからこそ、よほど生きられなくならない限り、誰も剣を取ろうとはしません。反乱を起こせば、ほぼ確実に命を落としますから。その覚悟を持つ人間が、どれほどいると思われます?」
彼女の言葉は冷静だったが、どこか胸の奥が痛むような響きを帯びていた。
「人々に残された選択肢は二つ。『従って苦しむか』、あるいは『逃げるか』。どちらも幸福とは程遠いですが……現実は、そう簡単ではありませんの。」
「逃げたら……どこへ行くんだ?」
「さまざまですわ。評判の良い領主の領地、商人が多い自治都市、どの領主にも属さない開拓地……あるいは盗賊になる方もいます。でも……」
フレイヤは淡々と告げた。
「逃げのびられる者は、ほとんどいません。大抵は捕まって、厳しい罰を受け、元より酷い生活へ逆戻りですわ。」
ウィンデルはその重い言葉を飲み込み、しばらく考え込んだ。そして、ふと前から抱えていた疑問が口をついて出た。
「……だったら。だったらさ、もし国の制度がそんなに腐ってるなら、なんであなた達は王室を倒して新しい制度を作らないんだ?そうすれば領主の支配もなくなるし……」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。「そうすれば父さんは死ななかったかもしれない」その言葉だけは、喉の奥に押し込んだ。
「何をおっしゃりたかったのです?」
「……別に。」
ウィンデルが視線をそらすと、フレイヤはほんの一瞬だけ眉を寄せたが、すぐ真剣な眼差しに戻った。
「それはたとえ話でも冗談でも、許されない発想ですわ。」
言葉は冷たかったが、感情的な響きは一切ない。むしろ刃のように鋭い理性だけがそこにあった。
「私たちが王室を倒す?それとも王族を皆殺しにする、と?そんな真似をすれば、国は一瞬で混乱に陥ります。領主たちは互いに領土を奪い合い、野心ある者は王位を狙って戦を起こすでしょう。内戦になれば、苦しむのは結局、民です。」
その声は低く、ひどく静かだった。
「さらに国が混乱すれば、近隣諸国が攻め込んできます。最悪、国は崩壊しますわ。そこまでの惨劇を招いてまで、私たちが『正しい制度』を押しつける権利が、どこにありますの?」
最後の言葉は、かすかに震えていた。そこには怒りよりも、深い無力感があった。ふたりの間に沈黙が落ちる。歩く馬の足音だけが、乾いた道にこつりこつりと響いていた。しばらくして、ウィンデルが小さく呟いた。
「……悪かった。」
フレイヤは目を瞬かせ、彼を横目で見た。
「なぜ謝られますの?知らないのですから、疑問を持つのは当然でしょう。」
「いや……それでも、軽率だったよ。ごめん。」
言葉は短かったが、そこには確かな後悔があった。フレイヤは一拍置いて、微かに頷いた。それは、彼が飲み込んだ言葉の意味まで察したからだった。
「……閑話休題、先ほど申し上げた馬のことですが。」
フレイヤは少し声を落とし、静かに続けた。
「あなたが食料を買われた相手……あの方は、おそらく盗賊ですわ。」




